子供の個性を活かす教育に目覚めた若い音楽教師
今回のテーマは戦時下の薄暗い世の中で、独自の教育の信念を貫いた小学校。落ち着きがないと小学校を追い出された黒柳徹子を受け入れた学校でもあるという。
大正10年、子供たちの就学率が上がる中で東京芸術学校を卒業したばかりの音楽教師・小林宗作は音楽の楽しさを子供に伝えたいと奮闘していたが、当時の学校の一斉教育と模倣が中心の教育が子供の自由を抑圧していると強い不満を感じていた。彼は30才で教師を辞めるとあてもなくヨーロッパに向かう。そこで彼は新渡戸稲造とと出会い、当時話題になっていたパリの音楽学校を薦められる。そこはリトミックという自分の心の中に流れるリズムを重視する教育で、個性的な音楽家を養成するものであった。これこそ自分が求めていた教育であると小林はそこで学び、帰国後昭和12年4月にトモヱ学園を開校する。日本が日中戦争へ突き進んでいく時代だった。
様々な工夫をして事情のある子供たちを教育していく
電車の車輌を利用したこの新しい学校には、様々な理由を持つ子供が集まった。身体の成長が止まってしまう病気を持った高橋彰、フランス人の祖父を持つためにその容姿から差別を受けていた桂るり子、さらには活発すぎるのが迷惑と小学1年で退学となった黒柳徹子などがいた。子供の才能を育ている教育をしたいという小林の理念の元に学園は船出する。
トモヱ学園では通常の学科の他にリトミックが導入されており、小林の理念に共感する教師が集まっていた。教師の助手をしていた高田薫はこれまでにない教師と生徒の関係に驚いたという。教師達は子供の好奇心を引き出すための工夫を行っていた。例えば算数を教えるためにはキャラメルの残った個数を計算するなど、生活の全てが学びの対象だったという。
しかし太平洋戦争が始まると教育現場への圧力が強まり、国の役に立つ教育を強制される中、トモヱ学園の教育には批判が集まっていく。トモヱ学園は生徒が減って経営が厳しくなる。小林の息子の金子巴は方針の転換を父に迫るが、小林はそれを「教育は20年先を見て行うものだ」と突っぱねた。
小林は事情のある子供たちの先行きを気にかけていた。山内泰二は他の学校で発育不良と入学を拒まれていた。小林は彼に「君にしか出来ないことを見つけるのが大事だ」と伝える。勉強が得意だった小林は電気工学技士である父のように実験がしたいと考えるようになる。そして山内は実験に没頭するのが日常となった。黒柳はしょっちゅう騒動を起こしたが、小林は彼女に「君は本当はいい子なんだよ」と言い続けたという。くみ取り便所に落とした財布を見つけるためにひしゃくで肥だめの中身をぶちまけてしまった黒柳を小林は怒ることなく「終わったら戻しとけよ」と言っただけだったという。
しかし戦争に突入する中で世の中から排斥されてしまう
しかし世の中が戦争一色になる中、残された時間は少なかった。その中でリトミックの授業は続けた。小林がピアノを弾き生徒が歩く、小林がリズムを変えるとそれに合わせて歩くリズムを変える生徒がいるが、小林はピアノに逆らうように伝えた。これは強い意志を育てるための教育だったのではと黒柳は考えているという。しかし学童集団疎開が決まり、トモヱ学園も授業を続けられなくなる。
小林のふるさとである群馬にトモヱ学園は疎開したが、山を開拓して即席の教室で授業を行ったという。いつかはまた車輌の教室で授業を行えることを夢見ていたが、昭和20年の爆撃でトモヱ学園は直撃を受けて小林の目の前で全焼する。小林は学校の再開を夢見ていたが、戦後の混乱の中でそれは叶わず、残っていた生徒も転校することになる。トモヱ学園小学校は開校9年で幕を閉じる。その後の小林は教育者育成に力を入れ、自らの教育を伝え続け、昭和38年にその教育が注目を浴びることもなくこの世を去る。
15年後、アメリカで新粒子発見の偉業のニュースが駆け巡るが、その発見者は山内泰二だった。トモエで学んで自分にしか出来ないことを見つけた彼は、世界的な物理学者になった。身体の成長が止まる病気の高橋彰は、電機メーカーに就職して調査役として活躍した。フランス人の祖父を持つ桂るり子は差別を乗り越えて二児の母となった。子供の良いところを伸ばすトモヱ流の教育を通したという。教え子達はそれぞれの花を咲かせた。
教育とはなんだろうと考えさせる内容だが、結局は効率と採算性重視の教育では、こういう規格外というか平均からはみ出した子供たちは切り捨てられることになるか、無理矢理に型にはめ込む(その間に「お前はダメだ、お前は出来ない」と徹底的に劣等感を仕込まれる)ことになる。この辺りが日本は天才をつぶす社会と言われる所以でもあるのだが。その上にはみ出し者には学校だけでなく、社会全体で徹底的に制裁を加える陰湿なシステムになっているのが日本だから、この手の者達は極めて住みづらいことになる。
もっともこの手の子供の個性を尊重する教育というのは、一種のオーダーメイド教育になるので手間とコストがかなりかかるのが事実で、結局は大勢に一定レベル以上の教育を効率的に施そうとすると、現在の学校制度のような窮屈で自由度が少なく、子供の個性を殺す教育にならざるを得ないところがある。この辺りの落としどころが非常に難しい。
忙しい方のための今回の要点
・東京芸術学校を卒業したばかりの音楽教師・小林宗作は、画一的で子供の個性を押し殺す教育に疑問を感じ、30才で教師を辞めると渡欧する。
・そこで新渡戸稲造から当時話題になっていたパリの音楽学校を紹介され、そこで子供の個性を活かすリトミックに出会って感銘を受ける。
・昭和12年4月、帰国した小林は子供の個性を活かす教育を目指すトモヱ学園を設立する。そこには様々な理由で普通の学校から排除された生徒が集まり、その中には落ち着きがなさ過ぎると小学校を退学になった黒柳徹子もいた。
・トモヱ学園では子供たちの興味を掻き立てるような授業が、小林の理念に共感して集まった教師達によってなされる。
・しかし国が戦争へと突き進む中、国の役に立つ教育の徹底が始まり、トモヱ学園には批判が集中するようになり、生徒数も減少して経営的に危機に陥る。しかし小林はその理念を曲げなかった。
・だが学童集団疎開が決定され、トモヱ学園も校舎を去ることになる。小林の故郷の群馬でいつかは学校に戻ることを夢見て授業を続けるが、トモヱ学園の校舎は空襲で全焼する。
・戦後、小林は再びの開校を考えていたが、戦後の混乱の中でそれは実現しないまま終わる。小林は教育者育成に力を入れながら、昭和38年にこの世を去る。
・やがてトモヱ学園の生徒からは、世界的な物理学者になった山内泰二、電機メーカーの相談役として活躍した高橋彰など、多くの才能が世に出て行くことになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・教育の理想って難しいんですよね。ましてやあの戦時下の狂った世の中でそれを貫くのは。しかも教育って結果が出るのが数十年後なんで。今の日本はちょうど、戦後に自民党政府の下で進めてきた統制教育が大失敗だったって結果が、ちょうど社会的に現れている時期でもある。
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