教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/3 BSプレミアム 英雄たちの選択 スペシャル「古代人のこころを発掘せよ!!」

古代人の精神世界に迫る

 縄文に弥生に古墳時代、日本の古代社会における日本人の心を土器などから読み取ろうというのが今回の主旨。過去に放送した内容を振り返っているところもある。

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自然と共に生きた縄文人の精神世界

 まずは縄文時代だが、最近になって注目を浴びることになったのが白神山地東麓縄文遺跡群。ダム建設に伴う10年に及ぶ発掘調査の結果、ここから段ボール箱で1万5千箱以上という極めて大量の土器、土偶、石器などが発見されたのである。これは三内丸山に次ぐ規模だという。縄文人は1万年に及んでここで暮らしていたと考えられる。

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三内丸山遺跡

 狩猟採取で生活していたと推測される縄文人の日常を反映して、狩りなどの風景が描かれている土器もあるという。そんな中で研究者達が驚いたのが高さ20センチほどの顔のついた注水土器である人面付注口土器。注ぎ口と思われる穴がかなり下の方の微妙な位置にある。位置や他の土器から今はなくなっている注ぎ口は男性器の形をしていたのではと推測されている(もろに男性器型の注ぎ口の注口土器も発見されている)。注ぎ口の位置から見てあまり容量は入らないことから、酒などの貴重な液体が入れられていたのではという説があるとのこと。なお番組ゲストからは、そのものズバリの精力剤のようなものが入っていた可能性もという指摘があったが、確かにそれはあり得る話である・・・と言うか、この時代だと酒自体がもろに精力剤の可能性もある。とりあえず日常使いと言うよりも祭祀性を帯びている可能性はありそうだ。日常と祭祀がシームレスでつながっていたのが縄文社会であるとの指摘もゲストから出た。

 

土器や土偶に込められた思い

 さらに縄文と言えば有名なのが火焔型土器だが、これなどは結構重くて実用から見ると非常に不便であると考えられる。縄文土器の中には出産文土器と呼ばれる妊娠した女性の出産を形取っていると考えられる土器も存在し、そこには繁栄を祈る気持ちが込められていたのではとする。自然信仰のようなものがこの頃に登場していたのではという。実際にこの時代は日本は温暖な時代で彼らの生活は比較的豊かで安定しており、人口も増加していった時期に当たるという。

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出産文様土器(出典:山梨県HP https://www.pref.yamanashi.jp/kouko-hak/special/2020/story-10.html)

 しかし縄文も中期から終盤にさしかかると社会の状況が変わってくる。それは土偶の顔立ちに現れているという。土偶は妊娠した女性をかたどっており、それはやはり豊穣や繁栄を祈るものとされているのだが、その顔つきが前期にはいかにも穏やかな女性的なものなのに対し、中期以降にはやや厳しい男性を思わせる顔つきに変わっていっているという。それはこの頃になると日本が寒冷化に向かい、食糧確保などが困難になってきて人口も減少傾向にあったことを反映しているのではと推測している。

 

新たな弥生時代像

 この後に来るのが弥生時代である。弥生時代は大陸から稲作が伝わってきたことによって変化が発生した時代とされているのが、その弥生時代像も近年になって大きく変わってきているという。

 弥生時代の土器の特徴であるが、縄文時代のようなゴテゴテとした装飾のあるものではなく、シンプルで実用性が高そうなデザインになっているのが特徴であるという。私の見立てでは縄文土器がアール・ヌーヴォーであるのに対し、弥生土器はアール・デコという印象を受ける。

 この変化は大陸との交流で稲作が伝わり、収穫が安定することで集落が巨大化してムラが生まれ、やがてそれが国へと発展していくことが影響しているという。この時代には権力者である王が登場したとされている。

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吉野ヶ里遺跡

 また大陸からガラスや金属などの新技術も伝わり、日本で著しい技術革新がなされた時代だという。特に福岡県春日市に存在した奴国は大規模な国であったとされる。その支配地域には2キロのメインストリートに500基以上の井戸の跡も確認されている。吉野ヶ里の4倍の規模を持つ日本最古の都市型集落が存在したと推測されている。さらには専門の職人が青銅器の製作などを行っていたと考えられる。青銅鏡を作るための鋳型の一部も発見されており、今までは朝鮮半島で製作されて輸入されたと考えられていた多紐細文鏡が日本でも生産されていたということがこれで明らかとなったのである。しかもこれらは朝鮮半島製のコピーではなく日本のオリジナルデザインであったというこの鋳型が発見された須玖遺跡群では青銅器工房、鉄器工房、ガラス工房の跡が発見されており、弥生時代のテクノポリスと呼ばれているという。

 さらには銅戈を製造するための土の鋳型も発見されたという。再現した銅戈はズッシリと重量感があり、磨き上げたその光沢には人を惹きつけるものがあり、単に実用性にとどまらず、王の権威を感じさせるに十分なものであるとする。

 

海を通して大陸とつながっていた弥生時代

 また弥生時代のキーワードの一つが海である。弥生人は日本海を通じて広く大陸と交流を行っていたと考えられるという。島根県松江市の田和山遺跡は宍道湖を見下ろす高台の遺跡であるが、ここには海を見下ろす高層建築が建てられていたと推測されている。当時の宍道湖は日本海ともつながっていて海の玄関口であることから、一種の灯台のような役割を果たしていたのではとされている。さらのここで板石硯という古代の硯が発見され、しかもその裏には文字と思われる墨跡が残っていたことが考古学会を騒然とさせた。これが文字なら、それまでの日本で文字が初めて使われたのは古墳時代中期の5世紀頃という通説を覆して、日本での文字の起源が一気に500年も遡ることになる。既に文字を使うものが交易の記録などを記していたのではと推測している(大陸からの渡来人の可能性もあると思う)

 壱岐は当時の国際交流の最前線で、原の辻遺跡には大陸からの要人を迎えるための迎賓館のような建物の跡もあるという。また倉なども存在し、鉄器や青銅器、装身具も多数出土されている。また天秤の分銅も発見されており、大陸と盛んに交易が行われていたことが覗える。

 さらに大陸と日本との間に広いネットワークが形成されていたことを示すものとして、玄界灘から日本海にかけて沿岸の小さな漁村において朝鮮の土器や貨幣が多数発見されており、これらが出土される漁村は海村と言って漁業だけでなくて交易も実施していたと推測されているという。と言うか、大陸の人々が直接に産地から海産物を仕入れていた産直の跡ではないかと私などは感じるわけであるが。もしかしたら既に当時から「海の駅」みたいなものが存在したのかもしれない。

 

権力者が登場した古墳時代

 古墳時代はその名の通り多くの古墳が造られた時代で、それは中央集権体制が整い始めたことを意味する。出雲の荒神谷遺跡からは大量の銅剣や銅鐸が出土したが、それらは使用されずにそのまま埋められたものが多数あるという。つまりこの時期になってそれまで祭礼に不可欠だった青銅器が必要とされなくなったのだと推測されるという。つまりそれまでの祭祀の形と異なり、新たに権力者を崇めるような祭に変化したことで、それまでの神器としての青銅器が必要なくなったのではないかと推測されている。

 出雲では弥生時代の後期から西谷墳墓群のような巨大墳墓が登場し、権力者の登場を示すものとなっている。四隅突出型墳丘墓と呼ばれるその形態は独特のもので、この形態の墳墓は山陰のみならず遠く北陸まで広がっており、出雲の権威がそれらの地域にまで及んでいたことを物語る。

 奈良盆地に大和王権が登場したことで弥生時代は終焉を告げる。大和王権の象徴である前方後円墳は円墳の部分に権力者を埋葬し、方墳部分では儀式が行われたと推測されている。この儀式によって王はその権威を民衆に対して示したと考えられる。

 保渡田古墳群の構造から王が崇められた理由が分かるという。王の館には水をコントロールする堰が存在し、水田にとって不可欠である水を支配していたと考えられるという。また保土田古墳群の埴輪には馬が存在し、これがこの地の経済力の源になっていたと考えられるという。なお群馬の名の由来は古来この地が馬の産地だったことを基にしていると考えられるという。古墳はその地の王の権威、ひいてはその地の豊かさを示すランドマークであったとする。

 やがてその古墳にも変化が現れる。それまでの竪穴式石室から横穴式石室へと移行して行くにつれ、巨大な石室が陵墓の重要施設として壁画などで飾られるようになった。中国で発祥したこの横穴式石室を日本で採用したのは継体天皇とされている。番組では王塚古墳を訪問しているが、その玄室は幾何学模様で装飾されている。当時の朝鮮などの墳墓では壁画は人物画などになっており、このような幾何学装飾は日本独自のものであるという。ここにどうも日本独自の精神性が見られるという。

www.town.keisen.fukuoka.jp

 

 今まで断片的に放送されていた古代文明に纏わる話の総集編という趣もあるのが今回の内容。どうも縄文時代は狩猟採取の時代だから獲物を巡って集落同士の争いが・・・っていうニュアンスで語られていた時代もあるのだが、実は思いの外広範囲で平和共存していたらしいことも言われている。また人間って、衣食足りていたら無駄に争いなんてしないものですから。かつては縄文時代は狩猟採取だからやはり食べ物の確保は大変だろうから争いもあったろうという推測だったんだが、発掘が進んできたら思っていたよりも実は豊かだったのではということになってきたので、それだったらわざわざ争う必要もないよなということになってきた模様。

 結局は本格的な争いが起こってくるのは、権力というものが生じてからのようである。権力のあるところ必ずそれをさらに拡大したいという欲が生じ、それが外に向けて侵略という形で現れるし、中では権力を巡っての争いが生じる。結局は権力は魔物と言うことになるが、かといってある程度以上の規模の集団を効率的に動かすには何らかの権力は必須なので権力を否定するわけには行かない。だから古来より人間社会はその権力の暴走をいかにして防ぐかというのが重要課題であり、民主主義などの方策が確立したのだが、その民主主義も万全ではないのは現代明らかな通り。

 と言うわけで、古代社会のあり方は実は現代社会に至るまでつながっているわけである。

 

忙しい方のための今回の要点

・縄文時代は狩猟採取社会だったが、温暖な気候のなかで比較的豊かな生活をしていた。そんな中で素朴な自然信仰のようなものが発生していたことが土器や土偶などから覗える。
・しかし縄文時代も中期以降になってくると寒冷化が進んで環境が厳しくなっていく。そんな中で、妊娠している女性をかたどったと思われる土偶の表情も中期以降になると男性的な厳しいものに変わってくる。
・弥生時代になると大陸から稲作が伝わり収穫が安定するようになり人口が増加する。また土器は縄文土器のような装飾がなくなり、実用性が高いものになっていく。
・この頃にガラスや金属器の技術も伝わり、日本の技術革新が始まる。北九州には銅戈や銅鏡の製造もされた工房跡があり、弥生のテクノポリスと呼ばれている。
・さらにこの時期には海を通じて大陸との交易が行われ、壱岐にはその拠点が残っている。また海辺の集落が大陸と直接に交易をしていたと思われる出土品も見つかっている。
・古墳時代になると巨大な国が生まれていく。最初は出雲が日本海岸を中心に影響力を広げたが、大和王権がそれに取って代わった時代からが古墳時代となる。
・大和王権の象徴である前方後円墳は全国に広がり、その地域の王の権威と豊かさの象徴とされるようになる。
・また縦穴石室から横穴石室に移行したことで石室内の装飾が重視されるようになるが、王塚古墳の石室には大陸とは違う幾何学紋様の装飾があり、これは日本独自の精神を示すと考えられる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・とにかく古代史の解釈はここ最近になって急速に変化しました。分かってきたことは、その時代の人はその時代の人でそれなりに豊かに生活していたということ。文明に振り回されている現代人が一番豊かであるという思い込みは変える必要がありそう。

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