今まで縄文人は後からやって来た渡来系の高い文化を持つ弥生人たちに駆逐されたというように考えられていた。しかし近年の研究結果では実はそうではなく、縄文人と弥生人は揺るかやかに共生していたという考えられるという。
北九州の弥生人と東北の縄文人が交流していた?
旧来は北九州から伝わった稲作などの技術を持つ弥生文化が、西から東へ伝播していったと考えられていた。しかし近年になってそうではないという大胆な仮説が提唱された。東京大学の設楽博巳教授によると、初期から縄文人は弥生人と交流していたと考えられるという。彼がその考えに至ったのは弥生初期の福岡の雀居遺跡から発掘された土器片。そこに描かれていた文様が東北の縄文遺跡で発掘された土器と類似していたのだという。さらにはこの土器には赤漆と黒漆による彩色が施されていたが、同様の彩色が施された漆器が東北の遺跡で発掘されている。これらのことから福岡の弥生人と東北の縄文人の間に交流があったことが推測されるという。九州に伝わった稲作に興味を持った東北の縄文人が、彼らの土器を携えて視察にやって来たのではないかという。我々が想像していたよりも広範囲でのダイナミックな人の移動と交流があったと考えられるという。
東北の縄文土偶が近畿に伝わっていった
この後は番組司会の杉浦友紀アナが八戸市埋蔵文化財センターを訪れて土偶の見学をしている。縄文式土偶はかつては「宇宙人をモデルにした」とか「宇宙服を描いたもの」などとのオカルト説まで出ていたが、近年の研究では妊婦をかたどったものであるとされている。ここで杉浦アナが見たのが国宝の合掌土偶。体育座りのようなポーズで両手を合わせているスタイルを取っているが、この謎のポーズについては出産のスタイルではないかと言われている。杉浦アナが「非常に感動した」と言っているが、確かに力強い造形美のようなものを感じさせる。
このような屈折像土偶と言われるものはこれ以外にも多数出土しているという。安産と子孫繁栄の思いが込められていると考えられる。弥生時代を研究している駒澤大学の寺前直人氏によると、近畿地方の弥生土偶に東北地方の縄文土偶の影響を受けているものがあるというのである。型式学という手法で、各地で発掘された土偶の形を綿密に調査していった結果、東北地方から西に向かって土偶の形態が伝播していく過程が確認されたという。
縄文人と弥生人が共生していた近畿地方
西日本の遺跡からは殺傷痕のある頭蓋骨なども見つかっており、富の存在で争いなどがあったのではないかと推測されているが、弥生文化博物館副館長の秋山浩三氏によると、近畿地方では状況はやや違うという。大阪八尾空港の近くにある田井中遺跡からは弥生人の環濠集落と縄文人の集落とが隣接して発見されたという。縄文時代の集落に弥生人がやって来て共生していたのではというのである。そしてどちらの集落にも男性器をかたどった石棒が発見されており、共通の祭祀が行われていた可能性が考えられるという。つまりは両者の文化が混淆していたのだという。
この頃の北九州では銅製の武器なども開発されていた時期であり、争いが発生してた様であるが、近畿地方でこのような平和な世界が広がっていた理由としては、近畿地方の地形的な豊かさなどがあるのではないかとしている。また北九州は大陸に近いことから先進文化なども次々と入ってくるので、その文化を取り入れた集落が優位に立つなどの争いが必然的に起こるのに対し、近畿は距離がある上に東に近いことから縄文の影響も及びやすく、その結果として平和共存になったのではとしている。
縄文文化が弥生文化に影響を与えた
磯田氏は技術中心で合理的思考の弥生人の中に、縄文人の呪術文化のようなものが浸透していったのではないかという言い方をしているが、言い方は奇妙ではあるがあり得る話であると私も感じる。現代の世でも呪術的なものにはまる者は少なくないことを考えると、弥生スピリチュアルブームとでも言うべきか。
これ以外にも弥生の銅鐸に縄文の文様が取り入れられている例もあり、要は弥生文化というような独立したものと言うよりも、縄文と混淆しながら徐々に変化していったのではないかというのが今回の番組の視点。まあこれは正解だろうと私も思う。昨日まで縄文だったのが、今日から弥生に変わりましたというようなものでなく、長い年月をかけて徐々に文化の形態が変わってきたんだろうから。実際、社会が劇的に変化したと言われている江戸時代から明治時代の変化だって、庶民の生活はしばらく変わってなかったんだから。
忙しい方のための今回の要点
・今までは弥生文化が縄文文化を駆逐して取って代わったというような考えが主だったが、現在は両者は互いに影響を与えつつ、混淆していったという説が中心となってきている。
・北九州の弥生土器から東北の縄文土器に特有の文様が発見されるなど、東北の縄文人が北九州の稲作を視察に来ていたと考えられる状況も発生している。
・また東北の土偶が近畿の弥生土偶に影響を与えている例も発見され、文化が西から東に伝播しただけでなく、東から西に伝わるルートもあった。
・近畿では縄文集落と弥生集落が共存していたと考えられる遺跡も発見されており、縄文から弥生への変化は意外とゆったりとしたものであった可能性が出てきた。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ文化が変化するというのは、王朝や政権が変化するのと違うので、そんなに劇的なものでないのは普通でしょう。そう言えば最近の考古学の世界では、ネアンデルタールなどの旧人類はホモ・サピエンスに駆逐されたわけでなく、しばらくの間共存していて、さらには混血もしているという話になってきてますね。やはりこの辺り、世の中が戦争の時代から平和共存の時代に変化しつつあるのも影響しているのかもしれない。実際に、戦うよりは協力し合う方が生存には効果的ですから。
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