教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/22 BSプレミアム 英雄たちの選択「スカウトされた大王~地方出身!継体天皇の実像~」

古代史の謎の天皇の継体天皇

 古代史を見た時に異色の天皇とされるのが継体天皇。先代の武烈天皇から血筋を5代も遡って応神天皇まで戻らないと天皇家と血がつながっておらず、しかも地方の出身で父も祖父も曾祖父も天皇ではなかったという傍系も傍系で「ほとんど他人」。本来は天皇位など回ってくるような立場ではなく、武力によって天皇位を簒奪したのではないかと説もあったといういわく付きの人物である。この継体天皇を紹介。

 継体天皇の墓は今城塚古墳というのが現在の考古学での定説らしいが、なぜかここは天皇陵に指定されておらず(宮内庁は別の古墳を継体天皇陵と指定している)、磯田氏によると「会いに行ける天皇」ということでお勧めだとか。ちなみにこのトンチンカンさは、宮内庁による天皇陵指定がいかに根拠のない馬鹿げたものかを示している有力な例の一つでもあり、やはり宮内庁の役割は「全力で考古学の発展を阻害することにある」という意見をまさに補強してしまっているのであるが、それはどうでもいいんだろうか?

f:id:ksagi:20200425135617j:plain

今城塚古墳の復元埴輪群

 なお現在の今城塚古墳には発掘調査によって出土した巫女や戦士や力士の埴輪などが復元展示されており、ここの被葬者がいかに権力を持った人物であったかを示しているという。

 

武烈天皇に後継者がいなかったため、突如地方豪族から抜擢

 さて継体天皇の即位の経緯だが、それは武烈天皇が後継者のないままに亡くなったことに起因している。そもそもそこまで皇族が減少してしまった原因は雄略天皇にまで遡るという。このやり手ではあるが少々独裁的な天皇は、自らのライバルとなる存在を片っ端から排除してしまったらしい。だからこの時に皇族がかなり減少してしまい、結果として武烈天皇の跡継ぎがいなくなるという状況にまでなってしまったとか。

 天皇が亡くなってしまったことで求心力を失ってしまうことになった側近の大伴氏や物部氏は慌てて天皇を探した結果、近江地方の豪族であり、一応天皇家の血筋につながっている(らしい)男大迹王(後の継体天皇)に目をつけ、天皇に即位することを求めたのだとか。なお彼の前に他の候補がいたのだが、即位を求めて使者を送ったら、その軍勢にビビって逃げ出してしまって行方不明になったというエピソードも聞いたことがある。

 

百済ともつながりのある有力豪族

 さてその男大迹王であるが、地方豪族と言ってもかなり有力な人物であり、その支配力は近江周辺のみならず越前にまで及んでおり、また尾張の豪族達からも支持されていたという。さらには越前を通じて百済とも親交があり、百済の皇帝から贈られた鏡まで出土していたとのことであり、磯田氏によると「恐らく若い頃に百済に渡ったことがあるのでは」とのこと。つまりは地元の豪族からの広い支持もある国際派の名士といったところらしい。それが白羽の矢が立った理由と見られているが、この時に男大迹王は既に50才を越えていたという話もあり、とにかく異例中の異例ではある。

 

なぜか大和に入るまでに20年近くかかる

 とりあえず天皇に即位した継体天皇であるが、すぐには大和に入らず、樟葉宮に滞在するなど淀川流域に20年近く滞在した後に大和入りしている。これはこの地域で行われていた鉄器生産を支配下に置き、彼の勢力圏を固めていたという説やら、大和には葛城氏など彼のことを認めていない豪族などもいたので、それらの勢力が弱って大和から継体天皇待望論が出てくるのを待っていたなど諸説ある。磯田氏によると「ホイホイ出向くのではなく、三顧の礼で迎えてもらった方が支配をしやすい」とのことを言っていたが、そういう政治的問題があった可能性は高い。なおこの逡巡から「大和周辺で勢力を固めてから、一気に大和に武力侵攻して天皇位を簒奪した」という説が出る一因ともなっているらしい(まあその考え方も妥当性はある)。磯田氏も「鉄器で完全武装した圧倒的な軍勢を揃え、さあどうだとばかりに見せつけた可能性も」というようなことを言っているので、武力侵攻こそしなくても武威を示して異論を封じた可能性というのも無きにしも非ず。

 

九州を平定して大和朝廷の力を強める

 さてこうして大和入りした継体天皇であるが、早速直面したのが九州の磐井の反乱である。もっともこれについては中央の歴史では「反乱」となっているが、要は九州に独立勢力があったとみるのが妥当である。磐井は新羅や伽耶などとも通じており、百済と結びつきの強い継体天皇としても無視することは出来ない勢力である。さてこの磐井をどうするかが継体天皇の選択となる。講和するか討伐するかであるが、ここは番組ゲストから磯田氏にさらに私も含めて「討伐」の一択。大和政権の威信を高めるべく就任した継体天皇としてはここで妥協していたら始まらない。こうして継体天皇は九州に大軍勢の討伐軍を派遣(九州側からの歴史から見ると、大和からの大軍勢の侵略軍が襲来)、磐井の軍勢を叩きのめす。磐井は石人石馬などを配した巨大な古墳を建造していたが、これらの石人石馬まで破壊されたという。

f:id:ksagi:20200425134730j:plain

岩戸山古墳の石棺

f:id:ksagi:20200425134745j:plain

復元した石人石馬

f:id:ksagi:20200425134803j:plain

現存する石人

 こうして九州での憂いを断って大和王朝の威力を高めてから継体天皇は亡くなっている。彼の奮闘のおかげでこの後の日本の中央集権体制が確立したという。名前は地味であるが後の歴史に大きな影響を与えた天皇である。

 

 その役割の割には意外と知名度の低い継体天皇であるが、彼が天皇中心の政権を固められたからこそ、後の天智天皇や天武天皇の活躍があったということになる。ただ彼が地味な存在なのは多分にその名にも起因していると思われる。継体という名は単に「体制を継いだだけ」のように見えるし、音も「ケータイ」では電話のようで非常に弱い。せめて例えば「ゲイダイ」とか濁音でも含んでいたらもっと印象は変わったのだろうが(笑)。

 ちなみに継体天皇が本当に天皇家とつながっているかという辺りも疑問があるようですね。適当に後で系図をでっち上げた可能性も無きにしも非ず。そもそも本当につながっていても5世先なんて全く他人です。私自身も祖父までは知ってますが、曾祖父になると顔はおろか、名前さえも知りませんし、ましてや曾祖父のさらに爺さんなんて「どこのどなたで?」の世界である。そういう意味では完全に衰えていた大和王朝が、全く新しい血を入れることで再び活性化したと見るべきかもしれない。ある意味で徳川幕府を中興した吉宗と近い存在という解釈が出来るかもしれない。やっぱり血が濃くなりすぎるとろくなことにならないということだろう。生え抜きのお坊ちゃんというのが続くとドンドンと劣化が起こると言うことだ。そう言えば今の日本のトップが生え抜きの馬鹿ボンだったっけ。

 

忙しい方のための今回の要点

・継体天皇は先代の武烈天皇から5代遡らないと血縁がつながらない異色の天皇である。
・継体天皇は近江の豪族だったが、越前や尾張にも勢力が及び、百済とのつながりもあった。
・天皇に即位した後も継体天皇は大和に入るまでに20年を要している。
・大和に入った継体天皇は、九州で独立勢力となっていた磐井を討伐して大和政権の威を高めている。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・しかし今城塚古墳が継体天皇陵ということでほぼ確定しても、宮内庁はあくまでどこかの遺跡を継体天皇陵として封鎖してるんですよね。完全に現実から目を背けて組織防衛に走っているのが覗える。日本の官庁ってこんなのばかり。

次回の英雄たちの選択

tv.ksagi.work

前回の英雄たちの選択

tv.ksagi.work