弘前城の天守の謂われ
青森の弘前城は東北唯一現存12天守にして桜の名所でも有名である。その弘前城を紹介。ちなみに現在の天守は幕末に近い1810年に再建されたものであるという。
弘前城はそもそもはこの地を治めていた津軽氏が築いたものである。当初は五層の立派な天守だったらしい。しかし建造してから20年も経たずに落雷から火薬庫に引火、弘前城天守は木っ端微塵に吹き飛んだのだという。津軽氏は直ちに天守の再建を幕府に願い出たが、武家諸法度で各地の大名に幕府が統制を強める中、天守の再建は許されることはなかった。そのまま200年近くが経過し、突然に天守の再建が許されたのは当時の社会情勢があるという。
北方防衛の要として重視される
そもそも弘前城は北方の睨みとして重要な城であった。そのために弘前城はかなり立派な構えをしている。外堀から内堀まで幾重もの堀に守られて、それらは堅固な門によってつながれる構造となっている(その構造が今日のほとんど残存している)。西側は急な崖と川に守られていて鉄壁の防御を誇る。唯一の弱点とも言える南方には禅林街と呼ばれる33もの禅宗の寺院が集まっている地域があり、ここは土塁を枡形を備えた出城としての機能を有している。南方から攻め上がる敵兵に対し、ここに潜んだ兵力によって横擊をかけることが可能となっているのである。この周辺にはアイヌ民族の集落もあったことからアイヌに対する備えという意味もあったという。
さらに幕末が近づいてくると、ロシアが千島列島経由で南下してくる。幕府は蝦夷地を直轄地して防御を固めたが、ロシアの強大な軍事力と衝突して惨敗したという事件もあったらしい。またロシアが蝦夷から東北にかけての測量を実施し、津軽海峡をも覗うという様子を見せたという。そのような蝦夷地の警護は津軽藩の任務であり、のべ4000人もの藩士が蝦夷地防御のために出向いたとのこと。寒さの厳しい知床では1年に100人もの藩士が犠牲になったという例があるという。このような状況下で津軽藩は弘前城に天守を建てると海まで見渡すことが出来て防御に有利であると幕府に天守の再建を認めさせたとか。
天守再建の理由と投入された最新技術
ただしこれは現状の地形を見れば明らかなのであるが、実は全くの嘘である。弘前城はかなり海から遠い上に西部には岩木山を含む山脈があるので、海など全く見えない。
恐らく幕府は現地調査をしていないか、うすうす嘘は承知の上で北方警護を課している弘前藩を懐柔するために天守再建を認めたのだろう。なお弘前藩がそうまでして天守を再建したかったのは、藩士達の精神的支えという意味があったのだという。
なお現在、弘前城は石垣の修理のために天守が平行移動されて工事中であるが、その発掘結果として判明したことがあるという。弘前城の本丸の地盤が弱いために、石垣の沈下による天守の傾きを防ぐためイカ型の隅石を使用しているのが発見されたという。これは天守の外側の隅の側柱とその内側の入側柱の2本を立てる穴が開いており、これらの柱を同じ土台に載せることで柱のズレを防ぐ技術と見られている。さらには隣の石とこの石を鉛のチキリという楔で接続するための穴もつけられている。こうやって軟弱な地盤上でも強固な天守を建てるための技術革新が行われていたという。
明治以降に城に桜を植えた元藩士
しかし時代は明治となり、弘前城は新政府に接収されて荒れ放題の状況となる。この状況に心を痛めた元弘前藩士の菊池楯衛。弘前城に昔の威容を取り戻して欲しいと私財を投じて1000本のソメイヨシノの苗木を弘前城に植える。だが菊池の行為に反発する藩士達もいた「軽薄である」と怒った藩士が菊池の植えた1000本の苗木を叩き折ってしまう(八つ当たりというかキ○○イというべき行為だ)。菊池の植えた苗木は数本しか残らなかったという。
だが菊池の行為に共感する藩士もいた。同じく元藩士の内山覚弥はどうすれば藩士達に桜が荒らされずに済むかを考える。そして日清戦争でこの地から出征して犠牲になった人々を慰霊するという理由で桜の植樹を進めることにする。これに対して反対して妨害する藩士はいなかった。そしてさらに日露戦争の際にも多くの桜が植えられて今日に至ったのだという。
現存12天守の中でも「地味」とされる弘前城の物語。実際に弘前城を訪れた者の中には「天守が思っていたよりも小ぶりでガッカリした」という者もいるのだが、それは見方が甘いというもの。弘前城の醍醐味は天守自体よりもそれを取り巻く城の縄張りがほぼそのまま残されているところにある。また櫓や門などにも現存が多く実は非常に見所の多い城なのである。私が初めて訪問した時には、感動の余りに言葉をなくしたほどである(笑)。
なお軽薄と反発を受けながら植えた桜のおかげで、今日では弘前のさくら祭は地域の重要な観光資源となっている。実は桜の名所となっている城は他にも姫路城や高遠城など少なくないのであるが、弘前城は緯度の関係でちょうど桜の満開時がGWと重なるために、毎年大勢の観光客で賑わう。残念ながら今年はコロナの影響でさくら祭は中止となったらしいが(そのためか今回の弘前城の映像はことごとく「2019年以前の映像です」の注釈付きだった)、来年は美しいさくら祭を見たいところである。
忙しい方のための今回の要点
・弘前城はアイヌなど北方民族を抑える北の守りとしての役割を持っていた。
・幕末が近づくとロシアの脅威が高まり始め、「それに備えるため」という口実で天守の再建が幕府に認められて今日に及ぶ。
・弘前城天守の調査の過程で、軟弱な地盤を克服するために天守の石垣には今までに見られなかった新技術が投入されていたことが判明した。
・明治以降、荒れ果てた弘前城の威容を取り戻すべく、元藩士の菊池楯衛が私財を投じて桜の植樹を行った。これは「軽薄である」と反発する元藩士の妨害も受けたが、後に日清戦争の犠牲者を慰霊するという目的で植樹が進められ、今日に至る。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・弘前のさくら祭は本当に賑やかなイベントですよ。多分これが中止になったら地元経済に与える打撃は半端ではありません。今年は観光地を中心に壊滅的な経済的打撃を受けるところが続出するでしょう。一体どうするつもりなんですかね。あのお馬鹿なトップは。どうせ自分とお友達の利権しか考えてないでしょうけど。
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