教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

4/15 NHK 歴史秘話ヒストリア「楠木正成 巨大な敵に勝つ方法」

実は河内出身ではなかった楠木一族

 大物食いのGIANT KILLINGなどと言えばなかなか格好良いですが、歴史上それを成し遂げた人が何人かいますが、その中で最も有名な一人が楠木正成。後醍醐天皇方について、圧倒的な大軍である鎌倉幕府軍を相手に奮戦し、結果として鎌倉幕府の滅亡に導いた策士です。彼がどのように戦ってきたかの紹介。

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楠木正成像

 楠木正成と言えば非常な有名人ですが、実はその出自とかなどは不明の点が多いという。大阪南部の千早赤阪村辺りの土豪のようであるが、そのような土豪なら通常はその付近に楠の地名があって然りなんだが、そのようなものは全くないという。そして調べたところ何と伊豆に楠の地名が存在しているらしい。楠木正成の先祖が伊豆の出身だとすると、北条家の家臣として畿内に代官などの形で派遣されたと考えるのが妥当という。

 

後醍醐天皇の要請で決起し、幕府の大軍を翻弄する

 30代半ばの時に後醍醐天皇から幕府討伐のための協力を要請される。正成はこの上ない名誉と語ったと言うが、正成自身は幕府はもう限界であると冷静に見切っていたのだろうという。正成の先見の明である。正成は天皇の元に出向くと、「武略と知略の面において、武略の点では国中の兵を集めても関東には勝てない」と冷静な分析を告げる。その上で「しかし知略においては恐るるに足らず。合戦では一時の勝ち負けをお気になさらぬよう。正成が生きている限り、帝のご運は必ず開けるものと思ってください。」と述べたという。

 後醍醐天皇は笠置山で挙兵し、正成は河内の赤坂城で挙兵する。正成はわずか500の兵で幕府軍の4万もの兵を迎え撃ったという。幕府軍は貧弱な正成の城を見て、こんな城は一ひねりと侮って総攻撃に移る。しかしそこからが正成の徹底的なゲリラ戦の始まりとなる。正面から攻め上がる敵兵に対し、弓の名手が的確な射撃を行い、たちまち1000人の犠牲が出る。さらにそこに別働隊が急襲、城内からも討って出て幕府軍は大混乱する。さらには熱湯をぶっかけたり、塀に取り付いたと思ったらその塀がいきなり倒れるなど罠の連発で幕府軍は損害を増やす。結局は幕府軍は兵糧攻めに作戦を切り替える。一方の後醍醐天皇も幕府軍に捕まってしまい、孤立した正成は城に火を放って落城させ、自らは討ち死にしたことにして逃走する

 

上赤坂城に見る正成の知謀と人望

 番組ではこの後、渡邊佐和子が上赤坂城を訪問、その堅固さを紹介しています。他の番組だと千田氏が出てきそうな所ですが、彼が出てくると長くなるので避けたのか(笑)。ちなみにこの城は私も訪問したことがあり、かなり堅固に作ってあったのを覚えており「こんなところを攻めるのは嫌だな」と感じました。渡邊佐和子も似たような感想のようです。

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上赤坂城登城口

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侵攻困難な切り通しの通路が続く

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高所の本丸からは見通しが利く

 なおこの大土木工事は正成が幕府から隠れていた時になされているのだが、それが可能となったのは地域の人々との強固な信頼関係であろうとのこと。正成はこの地域の農業用水の分配などに対して公平な采配を行っており、領民から感謝されて信頼を得ていたと考えられるという。また流通の拠点である有力寺院ともつながりがあり、商業での利益も得ていたと考えられるという。だからそれなりの財力も持っていたのではとのこと。また正成は敵と味方の将兵のための供養塚を立てており、人格的にも尊敬される人物であったと推察されるとのこと。

 

再び挙兵してついに鎌倉幕府が滅亡する

 1年の潜伏の後、正成は千早城で再び兵を挙げる。先の戦いで懲りていた幕府軍は最初から兵糧攻めを行うが、抜け道から兵糧を運び込んでいた正成には全く効果がなかった。これも地元の人々の協力があった。正成としては幕府の大軍を釘付けにしている内に反幕府で動き出すものが出るとの読みがあったが、実際に正成が3ヶ月に渡って籠城している内に西国の武士たちが動揺し始め、隠岐に流された後醍醐天皇が脱出したの報で彼らが次々と倒幕に動き出す。そしてついには足利高氏が六波羅探題を攻め滅ぼす。さらには関東では新田義貞が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は滅亡する。

 

足利軍を策略で翻弄するが、湊川で散る

 しかし後醍醐天皇による建武の新政は長続きしなかった。武士よりも貴族に恩賞が偏ったことなどが武士の不満を呼び、ついには足利尊氏が離反する。そして地元河内の復興に尽力していた正成は再び戦場へと呼ばれることになる。そして京都で足利軍と楠木正成、新田義貞、北畠顕家などが衝突することとなる。

 下鴨神社の所で足利軍5万と正成軍1000が衝突する。正成は盾を掛け金で連結して城のようにし、そこから矢を浴びせかける。そして敵が引いたら追撃。この戦術で正成は敵を撃退する。こうして戦いは膠着する。そんな中、新田義貞、北畠顕家、楠木正成が合戦で討ち死にしたとの報が足利軍に伝わる。間もなく正成の首も見つかってさらされる。それと同時に天皇方の軍勢が都の外に逃亡、尊氏は追撃を命じる。

 しかしこれが正成の策略だった。手薄になった足利本陣に正成軍の猛攻が行われ、混乱した足利軍は九州へと落ち延びていく。しかしその時に味方の武士たちの大勢が尊氏に付いていく姿を正成は目撃したという。この時点で正成は建武の新政が失敗していることを痛感しただろう。しかし3ヶ月後、体制を整えて再度侵攻してきた尊氏軍と湊川で戦い尊氏軍を苦しめるも圧倒的兵力差の前に討ち死にする。

 

 以上、楠木正成の物語。幕府の落ち目を見切る先見の明はあったのだが、後醍醐天皇を見切る冷徹さはなかったのだろう。まあそれをしていたら後世に名前が残らなかった可能性も高くはありますが。

 とにかくゲリラ戦が上手かった武将と言うことです。そもそも寡兵で大軍を討つにはそれしか策はありません。千早赤阪辺りの山岳地帯で徹底的にゲリラ戦されたら、確かに大軍でも苦戦するでしょう。大軍は開けた土地でこそ真価を発揮しますが、狭隘な場所では先頭から叩かれたらひたすら損害を増やすだけ(どころか撤退もままならない)。

 そういうゲリラ戦を得意とした正成としては、湊川での戦いは明らかに最初から勝算がないことは分かっていたでしょう。後醍醐天皇に賭けた正成ですが、それが失敗であったかもと思いつつ、最後は自分自身の精算をしたと言うところですかね。

 

忙しい方のための今回の要点

・河内の土豪であった楠木正成は、後醍醐天皇の倒幕への協力要請に応えて兵を挙げる。
・500の兵で城に籠もり、幕府軍5万を相手にゲリラ戦で散々翻弄する。そして情勢が不利なったのを見定めると城に火を放って討ち死にしたと見せかけて逃亡する。
・1年後、千早城で再挙兵。兵糧攻めをかけられるが抜け道から兵糧を運び込んで対抗する。結局は正成の読み通り、3ヶ月籠城する間に反幕府勢力が蜂起して鎌倉幕府は滅亡する。
・しかし後醍醐天皇による建武の新政は恩賞の不公平さなどから武士の不満を呼び、ついには足利尊氏が京に攻め上ってくる。
・正成は足利軍を巧みな策略で翻弄し、尊氏は一旦九州へと逃亡する。
・しかし3ヶ月後、体勢を立て直して再び京に上ってきた足利軍と湊川で決戦して討ち死にする。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・楠木正成と言えば、戦前は尊皇の忠臣としてかなり奉られていたようです。その時にかなり脚色されたエピソードもある模様。そもそも戦前の教科書って、南朝正統説を採ってましたからね。現実には、南朝は最初の頃こそ北朝方と全国で戦ってましたが、ことごとく敗北して最後は吉野の山奥の超ローカル政権になっちゃってたんですが。
・私は神戸の出身なので、楠木正成と言えば楠公さんとしてかなり親しみがあります。家紋の入った瓦せんべいなんかもありました。だから感覚としてはご当地のヒーロー感覚があるのですが、よくよく考えると楠木正成って神戸とは全くゆかりがないですね。最後にこの地で散ったというだけで。

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