教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/8 NHK 歴史秘話ヒストリア「激闘!中国革命に賭けた日本人 孫文と梅屋庄吉」

 今回は孫文の辛亥革命を資金面で支えた日本人の物語。

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上海の梅屋庄吉像

 

孫文の理念に共感して革命の資金援助を行う

 長崎で貿易商の家に生まれた梅屋庄吉は、中華街などで異国人に触れて育ってきた。26才となった庄吉は、アジアを股にかけて飛び回ってあちこちの事業を手がけるベンチャー起業家となっていた。そしてこれから成長する分野として写真館に目をつけて香港で写真館を経営していた。当時の写真は高級品であったため、庄吉は有力者にも知人がいる有名人であった。ある時、そこに訪れてきた一人の中国人が革命家の孫文であった。庄吉は、アジアをヨーロッパ列強の支配から解放するには清朝を打倒して国民による政府を樹立するしかないという孫文の考えに共感する。中国と同様に列強の圧力にさらされていた日本の現状に危機を感じていた庄吉は、中国と力を合わせることでアジアの独立を保てるのではと考えたのだ。そして庄吉は孫文を資金面で支援することにする。

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革命家・孫文

 庄吉は武装革命を目指す孫文に対し、資金だけでなく武器も提供するなどの支援を行った。孫文は香港に近い広州で蜂起をしてから全土に広げる計画だった。しかしその計画は裏切り者の密告で清朝にばれて同志が一斉に逮捕される事態になる。70人余りが逮捕されて一部は処刑される。孫文は労働者に扮して何とか難を逃れ、指名手配を受けて日本に亡命する。革命は頓挫したかと思われたが、庄吉は孫文の支援を続け、逃走資金も手配したという。

 

庄吉の身にも迫る危機とそこからの再起

 しかし庄吉の身にも危機が迫る。密告で革命に協力していることが発覚し、逮捕命令が下ったのである。庄吉は写真館から逃亡するがこれで資金調達の方法を失ってしまう。だがシンガポールに逃亡した庄吉は10年ほど前にヨーロッパで登場した映画に目をつける。これをアジアに導入すれば当たるに違いないと読む。これで手応えを感じた庄吉は日本に帰って映画会社(後の日活)を創設する。そこで客に受けるコンテンツとしてニュースを映像で伝えるということを実行する

 一方の孫文は世界中を駆け回って遊説で革命への理解を広げていた。大ほら吹きなどと言われながらも孫文は演説の上手さで徐々に支持を広げ、革命派は武装蜂起を18回も繰り返しつつ、規模を段々と拡大していく。

 資金面の援助を続けていた庄吉は、資金調達のために大ヒット作を作りたいと考えていた。その庄吉が目をつけたの南極。白瀬矗率いる探検隊に独占密着してカメラマンを送り込むことになった。そして南極で撮影したドキュメント映像は大評判となる。

 

ついに革命が成功する

 孫文は失敗の英雄と言われていたという。それは何度失敗を重ねても不屈の闘志で立ち上がったこと、そして常に前向きであったことからのようである。

 そしてとうとう辛亥革命が勃発。これに対してヨーロッパが介入を検討し始める。そこで大国イギリスの介入を抑えるために孫文は仲介者を通してイギリスの要人に接触すると、そこで革命軍が有利に戦局を進めているということを「大ぼら吹き」とも言われたぐらい誇張して伝えたという。イギリスは結局は清朝の援護をやめ、中立を保つことになる。そして勢いづいた革命派は清朝を圧倒する。孫文は革命の英雄として帰国し、中華民国の設立を宣言する。

 2年後、国父となって日本を訪れた孫文は庄吉と旧交を温めたという。孫文が庄吉に送った羽織には「賢母」の文字が記されてい。国父孫文に対し、裏からそれを支えた庄吉を賢母とたとえたのだろうという。その孫文に対して庄吉は辛亥革命の模様を収録した映像を見せたという。海外にいて革命の状況を見ていなかった孫文は繰り返し上映を求めたとのこと。

 

だが、彼らの思いとは別に・・・

 しかしその後の中国は袁世凱が皇帝位に付くなど独裁体制となり、日本は権益を求めて中国に進出していき両国の関係は悪化、やがては戦争へとつながる。革命の理想を伝えるために活動していた孫文も病に倒れて58才でこの世を去る。庄吉は孫文の功績を伝えるために孫文の銅像を造って中国に寄贈、中国に渡った庄吉は大歓迎を受ける・・・という美談で番組を締めているのであるが、その後の日中の関係を考えるとハッピーエンドとは言い難い。その後の庄吉はどうなったんだ? ・・・と思って少し調べてみたら、日中関係が悪化してきた1934年に外相・広田弘毅のところに直談判に向かおうとした途上で駅で倒れて急死とのこと。と言うことは彼は日中関係の本格的な最悪の事態は見ずにこの世を去ったということか。これは彼にとっては幸いと言って良いことなんだろうか?

 

 中国の革命に入れ込んだ日本の実業家の物語。孫文の辛亥革命が正解だったかどうかの評価は難しいところですが(国民による共和制を目指したはずが、最終的には袁世凱による独裁になってしまった)、とにかく理想というものがあってそれに邁進した人物の物語です。彼が目指したのはまさにアジアの共和というものですが、それが後に軍部に大東亜共栄圏という歪んだ形で進められてしまったのも皮肉です。革命の類いは崇高な理念を掲げるのは簡単なんですが、実行の段階でドンドンと初期の目的から堕落した結果になっていくということはよくあることで、それの反動が何度か来てということを繰り返しながら社会が進化するので、実際は本当に世の中が進むのにはかなり時間がかかります。ヨーロッパなんかでもあのフランス革命を起こしたフランスでさえ帝政に戻ってしまった時期もあったんですから。

 残念ながら中国はそのための十分な時間がなかったという印象を受けますね。だから民主主義にまで発展できずに共産主義を経由して実質的な帝政に近い状況に戻ってしまった。日本も戦後にアメリカによって民主主義の体制を進められましたが、気がついたらまた大日本帝国に戻りつつある。

 

忙しい方のための今回の要点

・ベンチャー起業家であった梅屋庄吉は、香港で写真館を経営していた時に革命家の孫文と出会い、アジアをヨーロッパの支配から解放するために清朝を打倒して国民の政府を樹立するという考えに共感、革命のための資金援助をすることにする。
・しかし孫文の計画は密告者のために清朝の知るところとなり頓挫、孫文の逃走資金を手配していた庄吉も逮捕命令が出て逃亡することになる。
・シンガポールに逃亡した庄吉は、そこで映画の可能性に目をつけ、日本に帰国した後に映画会社(後の日活)を設立する。
・一方の孫文は革命の支持者を増やすために全世界を遊説で回っていた。
・中国で革命の火の手が上がるにつれ、軍資金が必要となってくる。庄吉はそれを用立てるためのヒット作の必要性を感じ、白瀬矗の南極探検隊にカメラマンを同行させ、南極探検のドキュメンタリーを制作、これが大ヒットする。
・中国では辛亥革命が勃発、ついに清王朝が倒れ、孫文は英雄として凱旋する。
・しかしその後の日中両国の関係は悪化していき、ついには戦争へと突入することになる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・理念で動くタイプの実業家だったそうですが、革命にそれだけ支援を行って、よくも本業が立ちゆかなくならなかったもんだ。そういう点では経営者としての才覚はかなりあったということか。確かに新規事業に対する着眼点は鋭い。
・実業家が革命などに支援をする時は、大抵その後の大きな利益が目的の一つにあるのですが、庄吉は本当に理念だけで支援したのですかね。中国から何かの見返りを受けた様子がないんですよね。

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