教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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4/8 BSプレミアム 英雄たちの選択「新発見!秀吉・中国大返し~これが幻の高速移動システムだ!~」

 最近はこの手の番組は大河ドラマ関連の明智案件ばかりだが、これもその一環。そう言えば今年になってからやたらに中国大返しに関する番組が増えている気がする。今回は山城界のさかなクンこと千田氏が登場して、中国大返しの謎をギョギョッと・・・じゃなくて、山城だからジョジョッかな・・・解決という内容。

 

軍用道路を最大活用の中国大返し

 中国大返しではフル装備の軍勢を沼城から姫路城まで1日で78キロものを険しい山道を通って移動させたとしている。ちなみに自衛隊の標準的な1日の行軍距離が50キロとのことらしいから、これはかなり異常とも言える数字である。これには実はからくりがあるというのが千田氏の見解。つまり秀吉の中国大返しは奇跡の行軍ではなく、あくまでそれができるべく事前手配済みであったということである。

 まずは道路。信長は各地に侵攻の度に迅速な軍勢や物資の移動を可能とするために軍用道路を建設しているという。尾根筋などに幅6メートルほどの軍用道路を建設するように手配していたという。実際に千田氏が柴田勝家が玄蕃尾城から建設した軍用道路の跡をレポートしているが、尾根筋を平に削平した幅広い道路であり、確かにこの道路であれば軍勢のみならず、荷馬車の類いもスムーズに通行できそうである。当然ながら同じく織田軍の一員であった秀吉も同様の手配はしていたはずである。つまりは中国大返しの軍勢は険しい山道をエッホエッホと突っ走ったわけではないというのである。

 また当時の軍勢は甲冑を着ての移動ではなく、移動時には平服で移動して、甲冑などは後から荷駄で輸送。敵と戦う前に装備したと言う。甲冑を着ての長距離移動は兵が消耗するだけなので確かにそれが合理的である。まただからこそ行軍中を待ち伏せて不意打ちを食らわせるというゲリラ戦法がより有効的であったとも考えられる。甲冑などの重い荷物は荷駄に託し、整備された軍道をこのような平服での移動だったと考えれば、1日での長距離移動も当時の人々ならこなせたであろう(軟弱な現代人にはこれでも無理と思うが)。

 

中継基地となった御座所の存在

 さらにそれだけでなく、中継基地も設けられていたという。千田氏によると神戸市に戦国時代兵庫城が築かれていたが、これが信長がくることを想定して整備された御座所であったというのである。実際にそれを裏付けるような進んだ石垣技術の跡や、身分の高いもののために用意した特別な門を思わせる構造が発見されているとのこと。

 兵庫県加西市にある小谷城も信長が滞陣することを想定した御座所であると考えられるという。この城郭はそもそもは室町時代に築かれたものであるが、信長時代に改修されたと考えられる外枡形などの凝った防御機構が見られているという。

 同様の御座所は例えば武田攻めを担った家康なども信長のために用意しており、それはかなり贅を尽くした構造になっていたという。つまりは御座所は攻略の要所としての機能と、信長を歓待するための機能を持っているようである。

 信長のご機嫌を伺うことには万事抜かりのなかった秀吉が、このようなものの整備を怠っているはずがない。千田氏によると沼城と姫路城の間には現在はこのような御座所の跡がまだ見つかっていないが、間違いなくどこかにあったはずだとしている。このような御座所には当然のように物資が集積されているはずであるから、秀吉はその物資を中継に使用して軍勢を移動させたと推測している。だとすると兵糧の移動の必要もないので、軍勢の移動速度はさらに速くなるということである。

 

電撃作戦で用意不十分の明智を叩く

 さてこのようなぬかりない事前手配で電光石火のごとく本拠である姫路城に戻ってきた秀吉であるが、この後の行動としてはここからその勢いでそのまま明智に戦いを挑むか、一旦ここで情勢を見極めるかの2つの選択肢があった。ここで秀吉がどうしたかであるが、これは言うまでもなくそのまま明智に向かって進軍した。ゲストの一人が「ここで立ち止まって考えていたら、ここまで猛スピードで引き上げてきた意味がない」と言っていたがまさにその通り。磯田氏も「戦いの直前にあれやこれやと思索を巡らすようでは勝てない」と言っていたのもその通り。戦術なんてものは、戦場に臨む前に既に手配が完了しているようでないと遅すぎるのである。コロナの感染が広がり始めてから、アタフタと対策を打とうとしても遅すぎるのは理の当然(しかもその対策がろくでもないものばかりなのだが)。

 その後は秀吉の巧みな情報戦略などもあって、明智光秀の体勢が全く整わないまま山崎の合戦に突入、圧倒的な兵力差によって明智軍を打ち破り、秀吉は事実上天下を手に入れることになるのは知られている通り。

 

 正直なところ、後半は何の新鮮味もないので不要ですね(笑)。今回の肝は千田氏の言っている「御座所の活用と軍用道路の整備」。これについては沼城と姫路城の間にこれらの痕跡が発見されるかどうかが説の正否を決定するポイントになるでしょう。千田氏がこれからの発掘に期待したいという旨を言っていたが、これは全く同感。山側ルート使ったとしたら、三石か上郡辺り、海側ルート使ったとした赤穂辺りに拠点を作っていたってところかな。また牛窓辺りから海運ルート使った可能性もある。

 まあ中国大返しについては、後で秀吉がかなり「ふかしている」と言ってましたが、その通りで彼はそういう情報操作が上手いんですよね。とにかくあらゆる手配が長けているので、戦国時代の生まれでなかったら商人として大成功していたと思います。彼は戦には実際にさほど強いという印象はなく、同じ兵力で真っ正面からぶつかったら多分柴田勝家の方が大分強かったと思います。ただ絶対にそういう状況にしないのが彼の本領で、常に圧倒的に有利な状況で敵に臨むように手配している。だから実際に戦が起こった時には既に勝敗が決している。相手はいきなり戦闘意欲を削がれてしまうということになる。この辺りが秀吉の決定的な上手さです。そういうことを考えると、やっぱり晩年の朝鮮出兵は明らかに耄碌してたんだろうな。

 

忙しい方のための今回の要点

・奇跡的な行軍といわれている秀吉の中国大返しだが、実は事前にそうなるべく周到な準備があった。
・千田氏の見解では、まず進軍に際して軍勢と物資の速やかな移動のための軍用道路が建設してあったので、それを使用した。また兵は移動時は平服で、物資は後で荷駄で運搬したと考えられる。
・また各地に信長が滞陣するために用意した御座所があり、そこに集積した物資などを中継に使用したと推測されるとのこと。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・中国大返しは秀吉の集大成と以前に磯田氏が言っていたが、実際に秀吉の強みが最大限に発揮されたのがこのプロジェクトでしょう。秀吉としては一世一代の大勝負。もっとも秀吉一人の活躍ではなく、秀吉が優秀なブレーンを持っていたということでもあるだろうと思います。そういう人材登用の妙も秀吉の優れたところ。極端なこといえば、トップは無能であっても有能な家臣にすべて任せて能力を発揮させることができれば、それで組織はうまく回る。そこで家臣団を仕事能力でなくて、自分に対するおべんちゃら能力だけで起用するような輩は組織ごと滅ぶ。

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