教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

11/17 BSプレミアム 英雄たちの選択 「野望!伊達稙宗の巨大山城~信長を30年先取りした男~」

東北の先進的巨大山城

 最近になってにわかに注目を集めているのが、東北屈指の巨大山城である桑折西山城である。この城は単にデカイと言うだけでなく、城内に政庁なども置いて一族を城内に集め、さらには重臣の館も城内に集めた上で城下町も整備するということが行われていた。実はこのような城の整備は織田信長による小牧山城が最初と言われていたのだが、信長に先んじること30年も前に東北でこれをやってのけていたのが伊達稙宗、政宗の曾祖父だという。

f:id:ksagi:20211118214101j:plain

桑折西山城遠景

 というわけで、例によって「お城クン」こと千田氏が現地を訪問して、ハイテンションのレポートをしている。ちなみに今はかなりさかんに発掘調査が行われている模様。小和田氏も30年前に訪問したことがあるらしいが、その頃はただの山だったので遺構は判別しにくかったという。ちなみに私は2018年に訪問しているのだが、その時と比べてもさらに整備が進んだようである。

www.ksagi.work

 

 

画期的な構造を取っている

 桑折西山城に行けば分かるのだが、とにかく規模が大きい。山上を削平してそれがそのまま山城となっている。大手門は土塁から弓矢で攻撃できるようになっている(当時はまだ鉄砲は伝来していない)。また本丸と二の丸の間は深い堀で仕切られているが、この堀が北条氏がよく用いた畝堀となっている。そして周囲を一望できる本丸には稙宗の御殿があると共に政庁としても使用されていた。このような使い方は当時としては画期的であるという(平時は麓の御殿にいて、戦の時だけ山城に籠もるというパターンが通常)。

f:id:ksagi:20211118214514j:plain

本丸からの風景

 さらに桑折西山城の特徴は中館、西館というところに伊達一族や重臣の館があったということ。権力をこうして一元化したのだという。さらに城下にも家臣の館を配置していたという。ちなみに磯田氏によると、桑折西山城は山城と言っても要塞堅固という城ではなく、明らかに権威を見せつけるための城であったとしており、これには千田氏も同意していたが、これは実際に現地を訪問した私も同じ印象。実際に現地を訪れると意外に周囲はなだらかであるというように感じられた。

 

 

婚姻政策で奥州の盟主となった伊達稙宗

 さて伊達稙宗であるが、1488年に生まれて20代前半で家督を継いでいる。この頃の東北は小領主が群雄割拠しており、伊達氏はその中の伊達郡を治める領主だったのだが、稙宗の頃には現在の福島県北部、宮城県南部、さらに山形県南部にまで領土を広げていた。稙宗は婚姻政策によって勢力を拡大していった。そして縁組みを拒んだところは軍事力で制圧、こうして東北屈指の勢力となった。さらに幕府とも親密な関係を築き、将軍の義稙からその一字をもらっている。そして35歳の時に陸奥国守護職を得る。それまで奥羽には守護はいなかったという。こうして稙宗は奥羽の盟主として桑折西山城の築城を始める。

 さらには矢継ぎ早に法令を発布したという。訴訟に関する法令を定めた「塵芥集」には171もの条文があるという。内容は非常に細かく、夫婦関係の扱いから落とし物の扱いまで記載があるという。これは家臣が支配する領民達への判決の基準となるものであったという。稙宗は領民のための政治を掲げた国作りを目指していたという。

 

 

だが急進的な改革が家臣の離反を招く

 しかし稙宗の細かくて急進的な改革は家臣との軋轢を生む。稙宗が打ち出した城下への移転のために家臣は領地を離れることになった上に、稙宗の民衆のための政治は家臣達の既得権益を奪うことにもつながった。後に伊達政宗は曾祖父の稙宗について「家臣の扱いが悪いので皆恐怖して、恨みを持つ者も多かった」と評しているという。

 そんな中、稙宗はさらに拡大路線として越後守護上杉家に養子を送り込もうとする。これが上手く行くと伊達の勢力は日本海にまで及ぶことになる。しかしこれに対して越後は賛否両論に分かれ、反対派の越後家臣が反乱を起こす事態が発生する。稙宗は武力を行使してもこれを実現するつもりであったという。

 しかし1542年、鷹狩りに出た稙宗が帰り道で捕らえられ、桑折西山城に幽閉されるという事件が発生する。謀反を起こしたのは稙宗の嫡男で24才の晴宗であり、稙宗に反感を抱く家臣が晴宗を担いだのだった。腹心の家臣に救出されて桑折西山城を脱出した稙宗だが、ここで選択を迫られる。晴宗と戦ってでも家督を守るか、それとも晴宗に家督を譲って引退するかである。

 

 

家督を守るために戦うが敗北する

 戦ってでも家督を守るか、家督を譲るか。番組出演者の意見は真っ二つだったが、共通していたのは「だけど黙って引き下がれる人ではないだろう」というもの。で、実際に稙宗は武力で立ち上がる。しかし家臣のほとんどは晴宗に付いてしまったので、稙宗は姻戚で結びついた大名に援軍を要請する。これが6年に及ぶ天文の乱である。当初は稙宗が優勢で、桑折西山城の奪還にも成功するのだが、やがてこの戦いが周辺大名に飛び火したことで稙宗は援軍が減り(みんな自分のところの対応だけで手一杯になったわけである)劣勢へと陥っていく。さらに有力大名の蘆名が晴宗派に寝返ったことで窮地に陥る。そして1548年にこの大乱は将軍足利義輝の停戦命令で終息するが、敗れた稙宗は丸森城(丸山城)に隠居することになり、二度と伊達家の政治にかかわることのないまま78才でこの世を去る。

f:id:ksagi:20211118214959j:plain

丸森城の稙宗の墓碑

 ちなみにこの丸森城(丸山城)も見学したことがあるのだが、そこの本丸には稙宗の墓碑が建っている。桑折西山城とは比較にならないほどの小城である。

www.ksagi.work

 一方晴宗は居城を米沢城に移したので、桑折西山城は築城わずか16年で廃城となった。しかしその後、戦国末期に政宗の時代に軍事拠点として一時使われた痕跡が残っているという。稙宗の野望は結局は政宗に引き継がれることとなったのだという。


 というわけで、この曾祖父あって政宗ありという話も出ていた。まあ様々な構想を持っていた人のようであるが、あまりに時代を先駆けすぎていて回りが付いて来れなかったということのようです。まあ30年も時代の先を行ってしまったら最早狂人であり、だれもついてこれないわな。

 ちなみに私の言葉としては「時代の半年先を行けば最先端だが、一年以上先を行けばただの変人として白眼視される」というものがある。これ実感。

 それにしても伊達家というのは親子の対立が結構ある家のようだ。政宗にしても輝宗と路線の対立があった。輝宗は周辺大名との協調路線だったのに対して、政宗はもろに侵略路線を打ち出していたのでその考えの違いである。ちなみに輝宗は最後は畠山義継に拉致されて、その際に死亡している。ちなみにどさくさ紛れに政宗が殺したのではという考えもある。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・桑折西山城は東北屈指の巨大山城であり、また山城内に政庁を置き、そこに大名の御殿や一族や重臣の館も集めた上に城下町を形成するなど、30年後に織田信長が小牧山城で初めて行ったとされることを実行している。
・この城を築いたのが伊達稙宗。彼は婚姻政策で勢力を広げると、幕府との密接な関係によって陸奥国守護職を得、奥羽の盟主として法令の整備をするなど民衆のための政治を試みる。
・しかし稙宗の急進的な改革は家臣達の権益を損ねるものであり、不満が高まる。そして越後守護の元に養子を送るべく稙宗が尽力している時に、ついに嫡男晴宗をかついでの家臣のクーデターが発生して稙宗は幽閉されてしまう。
・腹心の家臣に救出された稙宗は、周辺大名などに援軍を頼んで晴宗と家督を巡って争う。これが天文の乱である。乱は6年も続き、当初は稙宗が優勢だったが、乱の影響が周辺国に広がると共に援軍が減少、さらには葦名氏の寝返りなどで劣勢となり敗北する。
・敗北した稙宗は丸森城に押し込められ、二度と伊達家の政治にかかわることのないままこの世を去る。また桑折西山城も晴宗が居城を米沢城に移したことで廃城となる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・私が桑折西山城を訪問した時は、整備がされ始めていた頃のようで、既に木は刈られて地形が良く分かるようになっており、「なんでこんなスゴイ城が全国的には無名なんだ?」と疑問を感じたものです。やはりようやく注目を浴びるようになりましたか。
・しかも今回を見ていると、私が行った頃よりもさらに整備が進んだようです。小和田氏ではないが、そういうのを聞くともう一度行きたくなる。

前回の英雄たちの選択

tv.ksagi.work