教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/3 BSプレミアム 英雄たちの選択 「"悲劇"の会津藩主・松平容保~公武合体に賭けた夢~」

家訓を守って京の治安維持に奔走した容保

 最後まで幕府に忠誠を尽くしたばかりに、戊辰戦争の最大の戦場となって新政府軍にボコボコに袋叩きにされてしまった悲劇の真面目人間、会津藩主の松平容保。今回の主役はかれである。彼自身がほとんど何も語らなかったために、彼の深層はほとんど分かっていないという。しかし近年、容保に仕えた小姓の手記が見つかり、そこには容保が語った言葉として「誠に失策の至り」という記述がある。容保は何を目指してどう挫折したのか。

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松平容保、孝明天皇から賜った衣を着ている

 25万石の会津藩は浦賀の警備を担当するなど、幕府を守るための武に力を入れる藩であったという。藩祖の保科正之が定めた家訓には、将軍に絶対の忠誠を尽くすことを第一に掲げている。

 容保が第9代藩主として家督を継いだのは18歳の時だった。彼は高須松平家から養子に入り、この家訓を徹底的に叩き込まれた。

 その頃の京都では尊皇攘夷の嵐が吹き荒れ、攘夷派の浪士が集まりテロに明け暮れる状態になっていた。これを抑えるために会津藩に京都所司代として京の治安を守ることが依頼された。莫大な負担が予想されることから、家臣達は「薪を背負って火の中に飛びこむようなものだ」と反対したという。しかし容保は家訓を守って幕府の要請を受けることを決める。そして会津藩兵を率いて京に上る。容保は自ら治安回復の指揮を取る。本陣としたのは京の金戒光明寺で、ここで容保は新撰組の近藤らに出会う。容保は新撰組を使って攘夷派を鎮圧、京の治安は回復する。これを喜んだのが孝明天皇である。孝明天皇は容保に緋色の衣を下賜する。有名な容保の肖像で身につけている陣羽織がそれだという。

 

 

長州と対立し、第一次長州征伐が勃発する

 容保は大いに感動してさらに任務に励む。しかしその一方で長州はさらに行動を活発化させ、光明天皇を拉致して攘夷を実行するクーデターまで計画する。その計画を薩摩を通して知った容保は薩摩と共にそれを鎮圧する。そして長州を征伐するべしという孝明天皇からの極秘命令が容保に届く。1868年8月18日、会津藩兵が御所の門を封鎖し、尊王攘夷派の公家や長州は京から追放される。孝明天皇はそれを喜び、武士と手を組んで世をまとめていくことを目指す。容保も公武合体を考えていた。

 巻き返しを図った長州が起こしたのが禁門の変である。この時に容保は一橋慶喜と共にこれを鎮圧する。この結果、慶喜と容保に桑名藩を加えた一会桑が権力を掌握することになる。彼らは朝廷と幕府が手を組むことを目指していた。また御所に発砲した長州に孝明天皇は激怒しており、幕府と共に長州を討つべしとの勅命が出る。容保はここで将軍直々の上洛を幕府に要請するが、江戸の幕閣がそれに反対する。朝廷との提携を考えていた容保と違い、江戸の幕閣は朝廷をむしろ煙たがっていた。結局は将軍の代わりに尾張藩の徳川慶勝を総大将とした総勢35藩15万の大軍が進発する。

 ここで薩摩藩は長州に対して三人の家老を処分して恭順の意を示すことを勧める。この時には西郷が動いたという。容保はここで国元に帰ることを勧められたが、まだすることがあると所司代の任を続けたという。

 

 

再度長州が不穏な動きを始め、第二次長州征伐となるが・・・

 一度は恭順した長州だが、高杉晋作らが主導権を握って武装の強化に動く。これを察知した幕府は将軍自ら出陣して征伐することを決める。これは朝廷にとっては寝耳に水で容保は説明のために朝廷に赴いたという。幕府は長州に釈明を求めたが長州はこれを拒絶、一会桑と老中とで対応が協議されることになる。

 この時の老中は穏健派になっており、穏便な処置を主張するが、これに対して慶喜が疑惑を徹底的に追及するべく反対する。容保としてはどちらに与するかの選択である。

 これにはゲストが寛大な処分を主張したのに対し、磯田氏は徹底的にやるべきだとの主張。萩を急襲して高杉や木戸の首を差し出せば長州藩は許すと言えば良いとのこと・・・なんだが、長州の気質を考えると、これで高杉と木戸は歴史から去るが、結局はまた誰かが同じことをするような気がしてならん。とにかく長州藩士は根っからのテロリスト気質なので。

 実際には長州に対する寛大な処分が決定される。藩主父子の引退、領地10万石の削減、これらを飲めば朝敵の名は除くというものであった。この処分案が長州に渡されるが、薩長同盟が裏で結成され長州は徹底抗戦の意志を固め、薩摩がそれを支援することになる。激怒した慶喜は勅許を得て決戦に臨む。しかし薩摩の最新鋭の武器が幕府軍を退ける。また幕府軍には会津軍が参加していなかった。容保が会津と長州の私戦と取られるのを恐れたのだという。結果として幕府軍は連戦連敗で容保は出陣を決めるのだが、ここで将軍が突然に亡くなり、後を継いだ慶喜は容保の説得にも応じずに戦の継続を断念し、幕府の敗北が決まる。そして孝明天皇も崩御してしまう。この後は鳥羽伏見戦いとなり慶喜は朝敵となってしまい、江戸に帰還する。この時に慶喜の傍らに容保もいたという。

 必死で帰還した藩士が容保に兵を放置したまま戻ったのは間違いだと詰め寄った時に容保が発した言葉が冒頭の「誠に失策の至り」であるという。そして戊辰戦争に突入、会津は甚大な被害を出して降伏する。容保は会津戦争から25年後、57才で死亡する。

 

 

 結局は「何を考えているか分からない」と言われていた慶喜に巻き込まれてしまったという悲劇がある。ここだけ見ていても、あくまで武力討伐を主張しておきながら、会津が本気で始めようとしたら今度は撤兵という変わり身の早さ。これは容保もついていけなかったろう。

 それとこれは磯田氏も言っていたが、孝明天皇の崩御というのが強烈に効いている。孝明天皇が健在なら公武合体路線で突き進むことが出来たのだが、その後ろ盾を亡くしたことで宙ぶらりんになってしまった。その挙げ句に次の明治天皇は薩長の傀儡だったわけだからジ・エンドである。さっさと武力抵抗を諦めた慶喜に対し、最後まで戦った容保はいろいろな面でくそ真面目さが見られるが、それが悲劇につながっている。

 とにかく幕末日本でも最も報われなかった人の一人がこの人物である。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・容保は会津藩に婿養子で入り、18才で藩主を継ぐ。
・当時の京は攘夷派浪士によるテロが続発しており、会津藩に京の治安維持が命じられる。藩内では反対意見が多かったが、容保は将軍に忠誠を尽くすという家訓に従って京都所司代として兵を送る。
・京での容保は、自ら陣頭に立って新撰組などを駆使して攘夷派を弾圧、京の治安を回復して孝明天皇に感謝される。
・しかし長州はクーデターを計画、薩摩からその情報を知らされた容保は慶喜と共に攘夷派公家や長州の勢力を京から一掃する。
・巻き返しを図る長州は禁門の変を起こす。これに激怒した孝明天皇は幕府に長州征伐を命じる。こうして第一次長州征伐が勃発する。
・この時は薩摩が長州に家老の首を差し出して恭順の意を示すように勧めて終結する。しかしその後高杉晋作ら強硬派が主導権を握ったことで再度戦乱の危険が高まる。
・これに対して寛大な処分を主張する老中と、徹底的に追及するべきと主張した慶喜が対立するが、最終的には寛大な処分を取ることになり、長州に対して返答を迫ることになる。
・しかし長州は薩摩と同盟して幕府の要求を拒絶、第二次長州征伐が勃発する。しかし会津が長州との私闘と取られるのを恐れて当初参戦しなかったことなどもあり、薩摩からの最新の武器を導入した長州に苦戦、将軍家茂が突然に亡くなり、慶喜が継戦を断念したことから幕府の敗北が決定する。
・その後、孝明天皇の崩御もあり、幕府の形勢は一気に悪化、そして鳥羽伏見での敗戦などもあり、会津も戊辰戦争で甚大な被害を出して降伏する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・とにかく真面目すぎて要領が悪いというか、ことに真っ直ぐに当たるだけで今ひとつ謀略のなかった人という印象があります。これに比べると薩摩や長州は謀略の塊ですからね。これだと勝てないなという気はする。

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