教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/7 プレミアム ザ・プロファイラー「ルネサンスの父 ロレンツォ・デ・メディチ」

芸術家のパトロンで偉大な政治家だったロレンツォ

 フィレンチェの大商人であり、ボッティチェリやミケランジェロ、ダヴィンチなど多くのルネサンス芸術家のパトロンとしても有名であるロレンツォ・デ・メディチの生涯を紹介。

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ロレンツォ・デ・メディチ

 

 

若き頃から才を示して20才で当主に

 15世紀のフィレンツェは都市国家がひしめくイタリア半島の中で毛織物産業などで栄えた交易が中心の国であった。ロレンツォはその中で銀行業で財をなしたメディチ家に生まれる。祖父のコジモはメディチ銀行をフィレンツェで一番の大銀行にのし上げた辣腕であった。コジモはフィレンツェの事実上の統治者であった。コジモは孫のロレンツォに5才の頃から古典文学や宮廷作法を学ばせたという。ロレンツォはわずか5才で外交デビューを果たしており、10才でフィレンツェの政治に関与して市民などの要望を聞いたりしていたという。コジモは病弱な息子のピエロに代わってロレンツォに大きな期待を寄せていたという。

 メディチ家は芸術家も保護し、その中の一人がボッティチェリだという。彼はメディチ家のために多くの絵画を描くと共に、ロレンツォの遊び仲間でもあったという。

 ロレンツォは15才で外交に参加をするが、この年にコジモが亡くなってメディチ家に波乱が訪れる。当主となったピエロが返済が滞っていた融資を一斉に取り立てたことで破産者が続出してメディチ家に非難が向かう。この期にメディチ家の反対勢力はピエロ殺害計画まで企てたという。この計画は事前に異常を察知したロレンツォの機転で不発に終わる。

 ロレンツォは政治家としての才を示したが、彼自身は詩作などの芸術への関心が高かったという。20才の時に結婚するが、その半年後にピエロが病死し、ロレンツォはその後を継ぐことを要求されることになる。

 

 

教皇の陰謀と対決することに

 フィレンツェは商人たちの富によって繁栄していたが、それを虎視眈々と狙っていたのが教皇のシクストゥス4世だった。彼は甥に領地を与えるためにミラノが支配する土地を買い取る資金をメディチ家に融資するように依頼する。しかしその地はフィレンツェの国境近くでしかも同盟国ミラノの土地。そこが他国に渡るとフィレンツェが侵略を受ける危険がありロレンツォは融資を躊躇う。これに業を煮やした教皇はフィレンツェのパッツィ銀行に接近して融資を依頼する。以前よりメディチ家の追い落としを考えていたパッツィ家はさらにロレンツォの暗殺を計画する。1478年4月、メディチ一族が参加するミサの最中に賊が襲撃、ロレンツォは辛くも一命を取り留めるが弟のジュリアーノが殺害される。

 そしてパッツィ家はメディチ家の強権を訴えて市民に反乱をけしかける。しかし市民はメディチ家を支持しパッツィ家の者を捕らえる。ロレンツォは暗殺の首謀者たちを縛り首にして市庁舎にぶら下げ、その処刑の絵を若手の画家・ダヴィンチに描かせた。野望を砕かれた教皇は怒り爆発でロレンツォとフィレンツェ市民を破門するとナポリ王国と手を組んでロレンツォを追放しないと戦争も辞さないと脅迫する(本当にこういう欲の権化の汚い教皇って少なくないんだよな)。

 

 

単身で敵国に乗り込んで和平を成立させる

 ロレンツォは同盟国に援軍を求めると共にフランスなどにも使者を送る。しかし1478年に戦争が始まってしまう。フィレンツェの兵力は敵の1/3と劣勢であった。しかもフィレンツェ国内でも戦費の負担などで不満が湧き上がっていた。この窮地にロレンツォの元にナポリ王がフィレンツェとの和平を望んでいるという情報が伝わってくる。ロレンツォは殺害される危険を冒して単身ナポリに乗り込む。ロレンツォは出発後フィレンツェ政府に「我が身を敵に委ねればフィレンツェに平和が訪れるだろう。私は祖国に対して命を懸けて尽くす義務がある。」という手紙を送る。この手紙を目にしたフィレンツェ市民は誰もが涙を流したという。

 ナポリに到着したロレンツォは最初はナポリ王に無視されたが、2ヶ月ぐらい経ってからナポリ王が興味を示すようになる。どうもロレンツォの人となりを調べていたのではないかという。そして3ヶ月の交渉の後に一部の領土を割譲することなどを条件に和平が成立する。フィレンツェに戻ったロレンツォは英雄として歓呼の声に迎えられる。ボッティチェリがその時に描いたのが有名なパラスとケンタウロスの絵だという。

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ボッティチェリの「パラスとケンタウロス」

 どんな時でも芸術に力を入れていたロレンツォは収集品を集めて若き芸術家に開放、ヨーロッパ最初の美術学校を開き、ここに来たミケランジェロを抱えて養成したという。

 

 

各地に送った芸術大使がルネサンスを広げることになる

 フィレンツェと教皇の対立は思わぬ展開となる。オスマン帝国が1480年にナポリに侵攻してきたことで「キリスト教国同士でいがみ合っている場合ではない」ということになり、フィレンツェと教皇の間に和平が成立する。関係修復の証としてロレンツォは芸術家たちを芸術大使として各地に派遣する。そしてシスティーナ礼拝堂にボッティチェリによる「モーセの試練」やミケランジェロによる「最後の審判」が描かれることになる。これは結果としてフィレンツェ内でのルネサンスが世界中に広がっていく結果となる。

 しかし1482年、教皇は再びベネチア、ジェノバと手を組みフィレンツェに対抗、ロレンツォはナポリと手を組み、さらにミラノとの関係を強化しようとする。そこでミラノにダヴィンチを派遣する。ダヴィンチは無名で筆が遅いなど評判は良くなかったという。ミラノに行ったダヴィンチはいかに自分が優秀な軍事技術者であるかを売り込み、ちなみに平和時には彫刻や絵画も人より上手いですというような内容だったらしい。ミラノはダヴィンチを受け入れ、ここに17年滞在したダヴィンチは才能を開花させる。ダヴィンチの傑作の多くはこの時に制作されている。

 フィレンツェに平和をもたらしたロレンツォ。間もなくローマ教皇も死去する。新教皇のインノケンティウス8世はナポリと対立するが、この時に両者の間で和平交渉を進めたのがロレンツォで、その後の10年間、その巧みな外交者腕で各国の関係を調整し、彼は「てんびんの針」と呼ばれたという。

 しかし1490年、修道士サボナローラから「メディチ家の政治が市民を苦しめている」と激しく批判されることになる。この頃にはメディチ家は銀行業務で融資先が戦争で破綻するなど焦げ付きが続発して財政的にかなり窮していたという。ロレンツォは親族の財産を流用したり立場を利用して公金を横領するぐらい経営に追い詰められていたという。さらに痛風を発症して43才で寝たきりになり、そのまま息を引き取ったという。

 

 

 で、結局このサボナローラが後にメディチ家を追放して神権政治を行ったことで、多くの美術品が贅沢品として燃やされるという大馬鹿事件が発生するのである。いつの時代でも狂信者の行うことは文化の破壊である。そしてあまりにやり過ぎた彼も最終的には処刑されることになるという狂信者には絶対に権力を握らせてはいけないという教訓を後に残すことになる。

 芸術というのはそもそも娯楽であって世の中に余裕がある時でないと発展しない。つまりはルネサンスの発展はフィレンツェの発展と表裏一体の関係にあり、それはまさにロレンツォの手腕によっていたところが大きいということである。ロレンツォも本来なら政治家としてよりも芸術家のパトロンとしての名声の方こそを欲していたのだろう。しかし幸か不幸か彼が卓越した政治手腕も有していたことが結果としてルネサンスという大きな花を咲かせることになった。彼がいなければダヴィンチもミケランジェロも無名のままに終わったかもしれないと考えると、芸術史においてその存在は極めて大きい。

 それにしても当時からダヴィンチが問題のある変人扱いされていたというのは興味深いところであった。しかもミラノ相手に軍事技術の方を売り込んだとは、実は彼は芸術家よりもエンジニア志向だったのだろうか? もっとも彼の軍事技術はその実はアイディア倒れのものも少なくなかったと聞く。なおダヴィンチの絵画についての私の感想は「滅茶苦茶上手い究極のクセ絵」というものである。どうも誰を描いてもモナリザになってしまう傾向が彼の絵にはあるように思われ、私は密かに彼のことを「ルネサンスの松本零士」と呼んでいる(笑)。もっとも天才には間違いなく、私は彼の「受胎告知」が来日した時に、サンライズ出雲で東京に駆けつけて見に行ったことがあるが、半端でないオーラを感じられる絵であった。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・ロレンツォ・デ・メディチは銀行業で財をなしたメディチ家に生まれる。
・メディチ家は商業都市フィレンツェの事実上の統治者であるだけでなく、芸術家のパトロンとしても活躍しており、ボッティチェリはロレンツォにとっては遊び相手であったという。
・ロレンツォは若き頃から才を示し、祖父のコジモに期待されて英才教育を受ける。
・15才で祖父が、20才で父が亡くなりロレンツォはメディチ家の当主としての役割を果たすことを求められるが、彼の本音は芸術のパトロンとして詩作などの芸術の世界で生きたかったらしい。
・ロレンツォはフィレンツェ支配の野望を持つ教皇と、それと結託したフィレンツェ第2位のパッツィ家の陰謀によって暗殺事件に遭遇し、そこで弟を殺される。パッツィ家は市民に対してメディチ家に対する反乱を呼びかけるが、市民は逆にメディチ家に付き、パッツィ家の者が捕らえられて処刑されることになる。
・しかし野望を捨てない教皇はナポリと手を組んで、フィレンツェにロレンツォの追放を要求、戦力的に劣勢のフィレンツェは窮地に追い込まれる。
・だがナポリ王が実はフィレンツェとの和平を望んでいるという情報を得たロレンツォは危険を冒してナポリを単身訪れる。そしてナポリ王との交渉の結果和平を結ぶことに成功する。
・このような時でもロレンツォは芸術に力を入れており、ヨーロッパ最初の美術学校を開くなどしてミケランジェロを養成する。
・1480年、オスマン帝国がナポリに侵攻したことで、キリスト教国同士でいがみ合っている場合でないと教皇との間に和平が成立する。その証としてボッティチェリやミケランジェロが教皇領に派遣され、システィーナ礼拝堂の絵画などを手がけることとなる。
・しかし野望を捨てない教皇は今度はベネチア・ジェノバと組んでフィレンツェに対抗する。ロレンツォはナポリと組むと共に、ミラノとの友好関係を強化するためにダヴィンチを芸術大使として派遣、ダヴィンチはミラノに17年滞在して、その間に多くの傑作を生み出すこととなる。
・ロレンツォはその手腕で平和を守ると共にフィレンツェルネサンスを結果として世界に広げることになる。
・その後もその外交手腕で各地の調停を行っていたロレンツォだが、やがてメディチ家の銀行業務が窮してくると共にサボナローラから批判を受けるようになる。そしてロレンツォは43才で亡くなる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・結局は芸術というのは引き立ててくれる旦那衆が不可欠なんです。余裕ないところに文化は生まれないし、金があってもそれが守銭奴共の手にあれば文化は発展しない。だからすべてを利権に結びつける維新の会などは芸術や文化を敵視しているんですよね。良い意味での道楽のできる奴が芸術文化の発展には不可欠なんですよね。

前回のザ・プロファイラー

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