教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/9 BSプレミアム 決戦!源平の戦い

通説を打ち破る「決戦!」シリーズ

 大河ドラマ関連の一環で、源平の争いに関する通説を検証するとしている。なお「決戦!シリーズ」と今回明確に名乗っているが、確かに以前に関ヶ原の合戦における幻の巨大山城を用いた西軍の戦略構想、大坂の陣における秀頼の大坂城水没防御など新説を披露している。

tv.ksagi.work

tv.ksagi.work

 なお今回の源平合戦についてのポイントは3点。「平家は弱かった」「鵯越の逆落とし」「壇ノ浦の戦い」について。これらの今までの通説を検証するとしている。

 

 

弱くなかった平氏

 まず最初の「平家は弱かった」だが、今までは平家は公家化して武士としての武力は弱体化していたという通説について。

 しかしこれは間違いだという。当時の平氏は都の治安維持に携わっており、武士としての圧倒的な武力を誇っていたという。また平氏の中にも平知盛のような猛将も存在し、実際に源平の争いを見た場合にも、序盤の知盛が指揮をした戦いでは平氏が勝っている事例も多いという。

 また平氏の強さは騎馬を使った戦術などにも現れていたという。鶴岡八幡宮で行われるために源氏の行事だと思われている流鏑馬であるが、あれはそもそも平氏が行っていた戦の訓練であると言う。また流鏑馬では馬を走らせながら真横の的を射ているが、実際の戦術では馬を走らせながら前方の的を射るので、矢に馬の速度も加わることによってその破壊力は増し、相手の鎧を貫くことさえ可能となっているという。

 また武具においても平氏に優位がある。当時の大鎧や強力な弓を作るには熟練職人の技が必要であり、そのような熟練職人は京に集まっていた。当然ながら京で勢力を誇っていた平氏はそのような優れた武具を容易に入手することもでき、その点でも優位があったという。

 

 

木曽義仲を水上戦で撃退した猛将・平知盛

 また維盛の率いる軍勢が敗北して木曽義仲に京を追われた時も、逃げ出したと言うよりは一旦退いて平氏の勢力の強い西国で体勢を立て直そうという目的が強かったという。実際に平氏は海賊討伐で名を上げており(そう言えば大河ドラマで清盛の親父の中井貴一が海賊討伐していたな)、それらの兵力を従えていたから海では圧倒的な力を持っており、また平氏自体が海上戦に長けていたという。

 実際に追撃をしてきた木曽義仲の軍と知盛率いる平氏が海上で激突した水島の合戦では、舟が揺れるために平氏の得意の遠矢での攻撃ができないことを聞いた知盛は、二隻の船の間に板を渡すように命じ、これで舟を安定させて義仲軍を撃退している(連環の系ってやつだろうか)。なお番組では実際に実験を行っているが、実際に一隻では揺れて全く的に当たらない矢が、板を渡すことによって足許が安定して命中率が倍増している。さらには都の陰陽師を連れていた平氏は、実はこの日に金環食が発生するということを知っており、突然に辺りが暗くなったことに動揺する義仲軍に対して優位に立つこともできたという。

 

 

鉄壁防御の福原を攻略した義経の逆落としの真相

 この時点で瀬戸内海の水運を押さえていた平氏は、福原に安徳天皇と3種の神器を据えてここを都とした。福原は背後を急峻な山に守られており、また東西の入口には切った低木の葉を落として設置した逆茂木に堀、その背後には「かいだて」という木製の盾を立てている(恐らく戦国期ならその下にさらに土塁を作るところだが)。これは鉄壁の防御だったという。番組ではお城クンこと千田氏の監修でこの防御を再現しているが、まず単に木を並べただけに見える逆茂木が意外な防御力を誇り、馬はこれで近づくことができないし、兵もここを突破するのに四苦八苦でその間に弓で狙い撃ちを食らう。さらにそこを抜けても堀に落ちてジタバタしているところを狙い撃ちで、模擬戦の結果は攻撃側の惨敗で終わっている。

 この鉄壁の防御を抜くために戦の天才・源義経が行ったとされているのが次のポイントの「鵯越の逆落とし」だが、これは伝えられている事実とは異なるという指摘をしている。今までは軍記物のイメージなどでは、一ノ谷の防御陣の背後の崖を義経が先頭に立って駆け下りるという光景が描かれている。しかしこれは間違っているというのが最近の研究結果である。間違っているのは2点、まず駆け下りた場所、次は攻撃をしたのが義経でないということである。

 

 

場所は一ノ谷ではなく、義経は参加していない

 まず場所であるが、実はこれは神戸市民なら常識なのだが、一ノ谷と鵯越は全く異なる場所なのである。これは神戸市民だった私も知っており、だからこそこの件については「どうもおかしいな」というのは私も以前から感じていた。実際の鵯越は一ノ谷から東に8キロほどの峠道であり、一ノ谷背後の急斜面よりは遥かに緩斜面である。

 さらには義経が行ったのではないということだが、これについては最近注目されている貴族の日記である「玉葉」多田行綱が山の手から攻めて初めに平家の陣を落としたとの記述があると言う。また義経が一ノ谷を落としたという記述もあり、この時に義経は一ノ谷で平家軍と対峙していたことも記されているという。

 多田行綱はこの付近を領地とする武士で地理に明るく、鵯越の坂なら馬でも降りられることを知っていたのだろうという。番組では実際に鵯越の坂の傾斜度を測定し、それを再現して当時の馬で騎乗でそこを降りられるかという実験も実施しているが、やや足許が滑ったりはしたが、問題なく馬は兵士を乗せたまま降りることができた。

 ではなぜ鵯越の逆落としを行ったのが義経になったかだが、まず多田行綱が当時でも知名度が低かったこと。そもそも行綱が提案した作戦を承諾したのは義経であり、義経が大将なのだから戦いの勝利は義経の功績であることなどからだろうとしている。それにどう考えても、軍記物を作る時にどこの誰か聞いたこともない多田行綱が奇襲をかけるよりも、若き源氏のプリンスの義経が先頭切って崖を駆け下りる方が明らかに物語として盛り上がる。当然ながらそのような演出はあっただろうと考えられる。

 

 

壇ノ浦の合戦に向けての義経の水軍取り込み工作

 一ノ谷で敗北した平氏は海上に逃れるが、屋島をさらに義経によって落とされて西へと逃走することになる。そして山口で体勢の立て直しを図る。いよいよ「壇ノ浦の戦い」となるわけだが、その平氏の元に駆けつけたのが山鹿秀遠率いる山鹿水軍。宋との貿易を北九州の芦屋港で中継して財力を誇っていた山鹿氏は平氏との関わりも深かった。こうして平氏の水軍は500艘が集結する。

 一方の義経はそもそも平氏の配下であった水軍を味方に引き入れる工作を行っていた。そうして熊野水軍の長である湛増と交渉をする。彼は源平のどちらが勝つか見極めようとしており、義経の誘いに乗るつもりがあったが、ただ皆がそれに従うとは限らない。そこで彼は一計を案じ、御神託を聞くと言うことで源平になぞらえた闘鶏で決着をつけることにする。その結果、源氏の鶏が七勝して御神託が下る。なおこの闘鶏、未だに神事として行われるそうだが、常に源氏の鶏が勝つようになっているという。実は仕掛けがあって、平氏の鶏の方に布を被せておくのだという。すると中の鶏は暗くなるので寝てしまう。そしていきなり寝ぼけのままで戦わされることになるので必ず負けるのだとのこと。こうして源氏の水軍には熊野水軍や瀬戸内の河野水軍なども加わって840艘の大船団となる。

 

 

戦いを決したのは潮の流れの反転ではなく「環流」

 さてこの両水軍が壇ノ浦で激突したのだが、今までの定説では序盤は平氏が潮の流れに乗って優勢だったのだが、途中で潮の流れが反転、義経の漕ぎ手を射させる戦略もあって平氏の舟は潮に押し戻され総崩れとなったとされているのだが、どうもこの戦いの経緯は異なるという。

 海上保安本部では過去にまで遡って潮の流れを計算しているそうだが、それによると合戦当日は一貫して潮の流れは東向きであり、入れ替わっていないのだという。つまり通説と異なる。

 さらに田野浦の海岸に九州攻撃に来ていた範頼の軍が駆けつけており、ここから遠矢を射かけられる体勢を整えていたという。もっとも東向きの潮の流れだと戦場は海岸から遠く、弓の射程外である。

 ここでさらに潮の流れを詳細に調査したところ、東向きに強い潮流が起こる時には、その南に環流と呼ばれる時計回りの陸に押し寄せるような流れが生じるということが判明した。そこでこれらのデータを組み込んだ上で壇ノ浦の合戦をシミュレーションする。

 序盤は潮の流れに乗り、さらには海上戦に長けている平氏が源氏を押し気味で戦いが始まる。しかし義経が漕ぎ手を射る作戦を実行、すると推進力を失った平氏の舟は次々と環流に巻き込まれて田野浦の海岸近くに押し流されていくことになる。するとそこに範頼軍による遠矢の攻撃。平氏の舟は次々と壊滅していく。そしてついには総崩れという結果になった。恐らくこの潮流について義経は事前に調査して把握していたのではないかという。結果としては今までは注目されていなかった範頼軍の攻撃が平氏を壊滅させたことになる。

 結局はこれで平氏は滅亡するのだが、義経が奪還を命じられていた三種の神器と安徳天皇は時子が抱いて海に飛び込んだため、安徳天皇は死亡し、三種の神器の内の剣が失われてしまうことになる。このことが後々の義経の運命に大きく関わっていくことになるのであるが、これは平氏にとっては最後の意地のようなものだったのだろうという。

 

 

 以上、源平の合戦について通説を再検証するという企画。ちなみに今回に登場した説は非常に説得力があり、今後通説が切り替わっていくことになると思われる。とにかく昔の物語は伝説とか創作の部分がかなりあるので、科学的事実に基づいて検証していけば実は全く異なる事実が見えてくるという話である。

 なおこの決戦シリーズ(と今回名乗っていた)は、今まで関ヶ原、大坂の陣などが登場したのであるが、いずれもかなり気合いの入ったドラマが挿入されており、ある意味では腑抜け大河よりも力が入っていて見応えがあるのだが、今回も見事に熱いドラマが展開されており、最後の壇ノ浦で知盛が碇を巻いて飛び込むシーンなどひたすら格好良かった。

 大坂の陣の時は宍戸開が徳川家康を演じて、相当に力の入ったドラマを行っていたが、今回も俳優陣は私には分からないが、恐らく大河ドラマよりも熱いドラマになっていたのではなかろうか(大河は何しろあのコメディの三谷幸喜なのでヘナヘナ劇になるのは約束されている)。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・平氏は貴族化して弱体化していたと言われているが、実は都の治安を司るなど武で君臨しており、決して弱体化はしていない。まだ武具の調達などの点でも優秀な職人が集まる京は有利であった。
・また平氏は海戦に長けていたために、木曽義仲の軍を水島の合戦の水上戦で撃退している。さらに福原を都として鉄壁の防御を構えていた。
・一ノ谷で義経が逆落としをしたとされているが、これは創作である。実際は一ノ谷から離れた鵯越の峠道から多田行綱が奇襲をかけており、これで平氏が混乱する中を義経が一ノ谷を破っている。
・壇ノ浦の合戦では潮の流れが変化したことが平氏の敗北につながったとされてるが、実は潮の流れは一貫して東向きで変化していないことが判明した。
・この海域で東向きの強い潮流が発生する時には、環流という時計回りに陸に打ち寄せるような流れが発生することが分かっており、義経の攻撃で漕ぎ手を射られた平氏の軍船はこれで海岸近くに流され、そこを範頼の軍勢からの遠矢で殲滅されたと考えられる。