教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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12/26 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「江戸の大店 大儲けの秘密」

当時の商売の常識を破って成功した三越

 今回は結構唐突な印象があるが、三越の創業の話である。それまでの大店の常識を破壊したことによって成功した新興焦点であるが、どこにポイントがあったか。

 新興都市であった江戸は生産力が低く、日用品などは商業が発達した京や大阪などからの「下りもの(だからつまらないものを「くだらないもの」と言う)」が中心だった。そこでこれらの商品を扱う商人が大阪の商人が続々と江戸に進出して店を持ち「江戸店持ちの上方商人」と呼ばれていた。三井越後屋の創業者である三井高利もその一人である。

 松阪で生まれた高利は1673年に日本橋に小さな呉服屋である三井越後屋を開く。新規出店なので馴染み客のいない高利は、一計を案じて画期的な商売形式を実施する。その1つがまず店前売り、いわゆる店頭販売である。当時の商売は訪問販売が中心だったのでこれは新しいやり方であった。この斬新さによって新たな客を取り込んでいった。さらにつけ払いが常識だった時代、さらに定価はなく上乗せした掛け値を交渉で下げるというのが普通だった時代に現金掛け値なしの商売を行う。いわゆる定価販売である。価格がハッキリすることで客は目利きの必要がなく安く買えるわけである。これで越後屋で買うと得だと客が押しかける。その上に「切り売り」も実施。それまでの一反売りの常識も破壊した。よい生地を好きなだけ買えるのは庶民に受けた。さらには反物を買った客には仕立てまで一貫で手がけるようにオーダーメイド制も取った。そのような斬新な商法は大繁盛につながる。

 

 

嫌がらせなどもあったがそれでも大繁盛を続ける

 しかしそうやって繁昌すると妬む輩も出てくる。厠を三井越後屋の台所に向けて作ったり、新商法を差し止めるように幕府に訴訟を起こす(スラップ訴訟の元祖だな)などもあったという。店を爆破するという犯行予告の脅しまで入ったという。それでも越後屋は繁昌を続け、10年後には日本橋駿河町に移転して店を拡大する。これでさらに客が増える。そして4年後には幕府の着物御用に選ばれる。幕府の後ろ盾がついたことで嫌がらせは止むことになったという。その結果、他の呉服屋も現金掛け値なしの店頭販売を導入することになった。高利はそれについて「真似されることは利益」と語ったという。とは言うものの、ライバルとの競争は激化、大黒屋との安売り競争などが繰り広げられ、薄利多売でそれに勝利したという。ちなみに越後屋も高級店とファストファッション店に分けるなど、客のニーズに答えた展開を行ったという。

歌川豊春による越後屋店内の図

 

 

先進的人材育成システムに巧みな宣伝活動

 三井越後屋では人材育成にも力を入れていたという。越後屋は1000人を越える奉公人を抱えていた。14才頃から子供という住み込みで雑務をこなしながら商売を覚え、17才で手代となってそこからさらに上がっていき、20代で名目と呼ばれるようになり、支配にまで出世すると自分の家を持って家庭を持てるようになるという。ただこの時には40才手前になるために長い修行に耐えられずに5人に2人は手代になる前に止めたという。越後屋では離職者を減らすために福利厚生に力を入れ、健康管理を実施すると共に、伊勢参りや芝居見物などのレクリエーションも取り入れ、さらにはボーナスの支給も行ったという。長期勤務者には退職金も支給したという。

 また三井越後屋では店員は勤務評定もされていて、それがボーナスに反映するから店員は必死だったという。また接客もマニュアル化されていたという。このような接客は高利の母の姿勢が反映していたという。人を知るという精神を重視していた。また繁昌しても溺れることはなく倹約に努めていたという。

 さらに宣伝にも長けていた。看板には「現金掛け値なし」が記載されて分かりやすくなっていたという。このような看板は明暦の大火の後に江戸で増加したという。判じ物の看板なども洒落好きの江戸っ子には受けたとのこと。三井越後屋は新商法の宣伝を引き札というチラシを配ってPRしたという。越後屋はこのチラシを長屋に配って大評判になった。また版元に金を払って越後屋の宣伝入りの錦絵を作ったという。これにはライバル店も追従したという。また店の名前入りの番傘を貸し出したりなど宣伝に余念が無かった。また江戸の大水害の際には炊き出しをするなどの社会貢献も行い、信頼を得ると言うことにも力を入れたという。


 以上、三越始まりの物語です。それにしても大丸や白木屋ってこの頃からライバルだったらしい。三井高利が始めた商売の方法ってかなり先見的(日本だけでなく世界にも先駆けていたという)だったようだが、いずれもすべて現在の商売の普通のやり方であり、三井高利が実は転生者だったなんてファンタジーまで頭に浮かんでしまったぐらい。「江戸時代に転生したサラリーマンが、現代ビジネススキルでチート商人に」ってネタが浮かんでしまった・・・(笑)。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・三井越後屋の創業者である三井高利は松坂出身の商人である。
・最初は日本橋に小さな呉服屋を開くが、新規参入で馴染み客がいなかったことから、現金掛け値なしの店頭販売、さらには反物の切り売りなどの当時としては画期的な商売方法で繁昌する。
・それが他店からの嫉妬を呼び、様々な嫌がらせなどもされたが、それでも繁昌を続け10年後には大幅に店舗を拡張、さらにその4年後に幕府の着物御用に選ばれ、幕府という後ろ盾を得たことで嫌がらせは止むことになる。
・次々と現金掛け値なし商売の追従者が出ることになったが、三井高利は「真似されることは利益」と語ったという。
・また三井越後屋では従業員の福利厚生として健康診断やレクリエーションなどを取り入れたり、退職金やボーナスの支給などで離職者を減らす工夫もしていた。
・さらにはチラシを配ったり店名の入った番傘を貸し出すなどの宣伝にも長けていた。
・江戸水害の際には炊き出しを行うなど社会貢献も実施したという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・いちいち驚くほどに現代的なんですよね。この当時の常識とはかけ離れたアイディアはどこから出てきたんだろうかということは興味深いところ。

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