四代将軍は何をしたか?
徳川将軍と言えば、初代、二代、三代、五代は有名だが、その間で知名度も低ければ「何をした人」ということさえスムーズには出てこないのが4代の家綱。部下の提案に「左様にせい」とだけ言っていた無能という評さえある。しかしこの家綱、本当に世間で言われるほどの無能だったのか。
家綱(幼名竹千代)は家光の長男として生まれた。女性に興味を持たない家光のために、春日局が奔走して美女を集めてようやく生まれた長男だった。しかし病弱であり、将来に不安があったという。その後に家光は女性に目覚めたのか亀松、長松(おそ松とかチョロ松とかも出てきそうだ)と立て続けに男子を得る。のだが、竹千代を家綱と名を改めさせて5才で元服させると西の丸に移して、自分の後継者であることをハッキリとさせる。どうも家光は自身が秀忠の長男でありながら、母のお江が弟の忠長を偏愛したせいで危うく廃嫡の危機に瀕した経験があり、そのような争いを家綱にさせたくなかったのではと言う。
そうして次期将軍に定まった家綱だが、病弱なことが心配されたが聡明な少年ではあったらしい。6才の時に遠島になった罪人が食糧をどうして確保しているかが気になって部下に尋ねたという。実際に当時の流罪人には餓死が少なくなかったという。そこで家綱は「流罪に処して命を助けたにも関わらず、なぜ食糧を与えないのか」と言ったという。この発言に感心した家光は、流罪人に対して一定の食糧を与えるようにして、これを家綱の仕置き始めとしたという。
11才で将軍に就任するがいきなり危機を迎える
家綱11才の時に家光が亡くなる。家光は保科正之に家綱の後見を依頼する。家綱はそれまでの京都ではなく江戸で将軍宣下を受ける。幕府の権威がそれだけ強くなっていたのと、家綱が幼君であるためだが、これ以降これが慣例となる。家綱は幼君であるが、将軍としての自覚はあったという。幼君を支えたのは後見の保科正之に知恵伊豆こと老中の松平信綱、老中の酒井忠勝らであった。
こうして幼君を支える体制は整ったのだが、いきなり波乱の幕開けとなる。兵学者の由井正雪によるクーデター計画が勃発する。幕府による大名の改易によって溢れた浪人が40万人にも及び、彼らの不満が高まっており、それを組む形で正雪が幕府転覆を謀ったのである。その計画は駿府の東照宮の御用金を抑えて駿府城を制圧、さらに江戸城の火薬庫を爆破して混乱に乗じて忍び込んだ部隊が将軍家綱を拉致するというものであった。しかしこれは密告によって発覚、潜伏先を包囲された正雪一味は自害して乱は鎮圧される。正雪の動きを把握していた松平信綱が密偵を送り込んでいたのだとされている。ただこれ以降、幕府は大名に対する規制を緩和、末期養子を認めるなどして後継者不在で改易となる大名をなくすとともに、それまでの武断政治の姿勢を改めて文治政治に舵を取ることになったという。これは保科正之の方針のようではあるが、家綱もそれを認めたわけである。
クーデター計画は不発だったが、次には大火が江戸を襲う。家綱が17才の時に発生した明暦の大火である。
この大火については上の英雄たちの選択が詳しいが、この火災で江戸城の天守閣までが炎上し、家綱の避難が論議される事態となった。城外への避難の意見もあったが、将軍が軽々と江戸城から逃げ出すのは幕府の権威に関わるとのことで、結局家綱は西の丸に避難することになる。火災は2日後に鎮火するが、死者10万人で江戸の6割が焼失するという大被害が出る。この復興の際に保科正之は天守の再建を凍結して復興を優先することを提案、家綱はこの意見を採用、江戸は防火都市てとして生まれ変わることになる。
武断政治から文治政治へと舵を取りつつ、後を綱吉に託す
家綱は部下の意見に対して「左様せい」というだけの将軍だったという話もあるが、実際には家臣の意見を入れながら主体的に政務に携わっていたという。この頃に閣僚達の合議制の体制が整ったという。独裁的な家光などと違い、家臣の進言を採用するタイプだったので家臣達が能力を発揮するようになったという。家綱は殉死を禁止すると共に、大名の妻子を人質として江戸に置かせる大名証人制も廃止する。これに先の末期養子禁止の緩和を含めて家綱の三大美事と言われているという。
しかし家綱は後継者の問題を抱えていた。病弱だったためか子供が産まれず、後継者として弟である綱重や綱吉が候補にあがることになる。しかし綱重が30代の若さで亡くなり、宮家から親王を将軍として迎えるという案を大老の酒井忠清が出す。これは彼が綱吉の器量を不安視していたからだとも言われる。しかし結果としては水戸藩主の徳川光圀や老中堀田正俊の反対などもあり、結果として綱吉が後継者に定まる。そんな中、家綱は寝込むようになり40才でこの世を去ることになる。ただし家綱は幼児期から将軍位についていたことから、その治世は28年9ヶ月とかなり長い。
以上、四代将軍家綱について。要は独裁的な将軍ではなく、家臣の意見をよく聞いてそれを取り入れるタイプの人物であったから、家光がつけた保科正之などの働きもあって将軍を大過なく終えているということのようである。どうしてもトップは自分が先頭に立ってバリバリやるタイプの方が目立つが、このような幕府の体制も落ち着いてきた時期にはそれを守っていける良い意味で保守的な将軍だったと言うことだろう。
なお彼の後に五代将軍となる綱吉は、ある種の理想家であり、決して政治の手腕に長けていたというわけでもないのに、自分が先頭に立って何でも差配しようとするタイプだったが故に生類憐れみの令のような大混乱を生じさせて幕府の体制を傾けることになってしまう。なお今日ではあの生類憐れみの令は単に犬を大事にするというバカ法ではなく、世の中を武断政治から確実に文治政治に切り替えた賢明な政策という面もあることが注目されているが、綱吉のその理念は立派だが、実際の施策は完全に迷走しており、無駄な野犬の保護で幕府の財政を食いつぶしてしまったという失敗は否定できないところである。そう言う意味では将軍という立場には綱吉は向いていなかったとも言え、酒井忠清が器量を危ぶんだのは正解と言える。
忙しい方のための今回の要点
・家綱は家光の長男として生まれたが、病弱だった。
・家光は家綱が5才の時に元服させて後継者として指名した。これは自身が嫡男でありながら廃嫡されかねなかった経験に基づいている。
・家綱が11才の時に家光が亡くなり将軍となる。幼君を保科正之が後見し、老中の松平信綱、酒井忠勝が支える体制を形成する。
・家綱が将軍に就任してすぐに由井正雪の乱が発生、また17才の時に明暦の大火で江戸が焼失するなどの危機に直面する。
・家綱の代で幕府はそれまで大名に対する統制を緩め、武断政治から文治政治に舵を切ることになる。また火災復興の際に天守再建を凍結して江戸の防火体制を進める。
・家綱は家臣の意見を聞いて主体的に政治に取り組んでおり、決して政治に無関心なわけではなかった。
・ただし病弱だったために子供が出来ず、結局後継者は弟の綱吉になる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・特にこれをしたというインパクトのある将軍ではありませんが、この時代には最適な無難な将軍だったという印象ですね。この後の綱吉の大浪費がなければ幕府もまた少し違った経過を辿った可能性がありますが。
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