教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

10/19 NHK 新プロジェクトX~挑戦者たち~「革命の自転車 つなげ、感動のバトン~電動アシスト自転車~」

変人が提案した電動アシスト自転車

 今回のテーマは電動アシスト自転車。例によって平成プロジェクトXらしい微妙なテーマである・・・。

 80年代初め、オートバイの市場を巡ってホンダとヤマハが壮絶な戦いを繰り広げていた。しかし市場制覇を目指して増産戦略に出たヤマハはそれが裏目に出、大量の在庫を抱えた挙句に赤字に転落、ホンダの軍門に下ることになるという敗北を喫する。巻き返しを図るヤマハは事業開発室を立ち上げる。事業開発室長に命じられたのが藤田武男。笑顔を見せないことで知られる実直な男だった。

 そこに変人で知られる菅野信之がアイディアを出してくる。それが電動アシスト自転車だった。フィットネスブームで自転車こぎがあるが、あれだと面白くないからモーターアシストで戸外を走る方が楽しいという発想だったという。しかしかつてホンダが似たようなものを開発してたことを知ってる藤田の表情は動かなかった。ホンダの製品は自転車をエンジンで走らせるものなので、原付免許が必要で全く普及しなかった。

 しかし本部長で「ヤマハにこの人あり」と知られた長谷川武彦の反応は違った。「風の強い中で買い物に行く人が坂を上ったりするときに役に立つ」と彼は考えた(流石に着眼点が違う)。

 1989年春、菅野は試作に着手する。電動アシストにちょうど良いモーターを探す菅野はパワステのアシストモーターに辿りつく。事業開発室で製品化に辿りつけるのは1000のうち3つあるかないか。「お前たちは稼いでない」と言われていた菅野には罪悪感のようなものがあったという。何か一発当ててやろうという思いがあったという。

 

 

試作車が完成、新規リーダーを迎えて出発するプロジェクト

 1年後、試作車が完成する。恐る恐る菅野がペダルを踏むと自転車はスーッと動き出す。そこには感動があったという。菅野に言われて試してみた藤田も強い感動を覚えたという(ただしその表情は全く変わらなかったとのこと)。これは大きな事業になるかもと考えた藤田だが、その矢先に菅野が自分をプロジェクトから外すように願い出る。菅野はもうこのプロジェクトは道筋が見えたので新しいことをやりたいとのことだった。

 いかにも変人らしい行動だが、何か裏がある気もしないでもない。確かに道筋は見えたが、実際の開発はここからが大変である。アイディアマンの菅野としてはここからの血道な作業には興味がなかったことも考えられるが、あまりに無反応で何を考えているか分からない藤田の下で働くことに疲れを感じたとかいう可能性もなきにしもあらず。まあ真相は分からない。

 菅野に代わって新たな開発リーダーに就任したのは小山裕之。花形であったレース部門から藤田が引っ張ってきた男だった。試作車を一漕ぎした小山は自分がスーパーマンになったかのように感じて衝撃を受け、これでホンダに勝てると考えたという。パリ・ダカールラリーにエンジニアとして挑んだがホンダに勝てずに解任された小山は、ホンダに対する特別な思いがあった。

 小山はアナログ制御のコントローラーをデジタル制御に変えることに取り組む。これは強い力で漕ぎ出した時の暴走を防ぐためであったが、すると今度は漕ぎ出し時の感動がなくなるという問題があった。それを解決するには様々な走りのデータを集めるしかない。静岡の斜面の茶畑の私道を小山たちは走り回ってデータを集める。時には転倒して前歯が欠けたり、崖から落ちそうになったりしながらも走り続けたという。小山は遠く離れた畑まで毎日通っていた母を、完成した自転車に乗せたいと考えていた。しかしバイクメーカーにとって自転車は日陰者として冷たい扱いを受けていたという。

 

 

課題だった役所の許可を取り付けるがまだまだ課題が

 しかし藤田が考えていた問題はもっと深刻だった。モーターアシストを付けることで原付とされたらとても売れない。渉外担当の中村晴夫も否定的な一人だった。彼は99%無理だと言ったが、藤田はそれでも退かなかったという。自転車の範疇に収めるため小山たちの苦闘は続いていた。

 秋、藤田は中村を本社の屋上に連れ出して試乗をさせる。一漕ぎした中村は感動し、考えを変える。そして二人は運輸省を訪ねて試乗を願い出る。1991年6月28日、合同試乗会が警察の施設で開催される。運輸省と警察庁から17人の担当者が参加、試乗が開始される。滑らかに走る自転車に担当者の表情が和らいでいく。担当者の一人が「これは自転車だよな」と語る。そしてほどなく「自転車の範疇である」という連絡が正式に入る。

 しかしまだまだ問題があった。女子社員に試乗してもらったところ「こんなものあげると言われてもいらない」と言われる。フレームの位置が高くて乗りづらいという苦情が噴出した。バッテリ内蔵のフレームが巨大化してまたぎにくくなっていた。しかし設計は決定済みで変更は不可能だと誰もが考えていた。しかし藤田は設計変更のために動く。設計担当の元に向かって変更を要請する。設計担当の明田久稔は頭を抱えながら、試行錯誤の結果バッテリーをサドルの下に移動、車体設計を一から見直す。

 

 

普及のために特許の独占をしないという決断

 開発を続けるプロジェクトだが、売れるのかという不安が付きまとっていた。自転車なのにハイテク搭載のために価格はオートバイ並みになってしまっていた。これだと本当に必要とする人々に届かない可能性がある。そこで藤田は長谷川に対して特許は独占しないことを宣言する。様々な企業が参入して価格が低下することで必要とする人々に届く。しかしこれは会社の利益を優先しないことを意味する。少し考えた後に「分かった」と答えた長谷川は、最強の自転車生産ラインを持つブリジストンに藤田と出向いて力を貸してほしいと依頼する。そして1993年11月、ブリジストンの協力を得たヤマハは電動アシスト自転車を生産してテスト販売する。反響は大きく、1000台の予定が3000台売れる。翌年の全国販売でも予定の3倍の3万台が完売する。購入者からの喜びの声も多数届く。

1993年に発売された初期型PAS(出典:;YAMAHAのHP)

 以上、電動アシスト自転車開発物語だが、この時に特許を独占しなかったために、電動アシスト自転車は広く普及し、今では普通の自転車以上に売れているという。ただ事業自体は最初から10年赤字続きだった。社長になった長谷川はそれを咎めなかったという。なお新たな感動を届けて続けようと号令をかける中で、菅野が電動アシスト車いすを完成させたという。プロジェクトを離脱した後に彼が生涯をかけたのがこれだったらしい。

 ただ特許を独占しなかったことでヤマハは国内シェアトップを明け渡す。この技術は30か国に広がったと言うが、その結果として中国製の粗悪品が横行。それらはもはや電動アシストではなく電動バイクそのもので、各地で問題を起こしているということを考えると、果たしてこの結末は目出度し目出度しと言って良いものやら・・・。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・ホンダとのバイク戦争で敗れたヤマハは、事業開発室を立ち上げて新規事業を模索していた。そこに変人と言われていた菅野信之が電動アシスト自転車のアイディアを持ってくる。
・事業開発室長の藤田武男はこの案にピンとこなかったが、本部長の長谷川武彦はこの案に可能性を感じる。
・1年後、菅野が制作した試作車に試乗した藤田は衝撃を受ける。彼は早速本格開発を決定するが、プロジェクトに道筋を付けたとして菅野は自ら希望してプロジェクトから離脱する。
・菅野に変わって開発リーダーとなったのは、バイクのエンジニアだった小山裕之。彼はかつてパリ・ダカールでは勝てなかったホンダに、これなら勝てると意気込む。
・しかし一番の問題は、この自転車が原動機付きと判断されると免許が必要となって売れないことだった。藤田は渉外担当の中村晴夫と共に、運輸省の役人に試乗を依頼する。
・試乗した運輸省や警察庁の関係者は、まるで自分の力が増したかのようなその乗り心地に感動し、これが自転車であるということに納得、ついに許可が下りることになる。
・しかしハイテクを満載した自転車はバイク並の価格になってしまって、これでも本当に望む人達に届けられない。藤田は特許を独占せずに各社の参入を促すことによる価格低下を目指すことを決断、それに納得した長谷川はブリジストンに協力を要請する。
・1993年、ついに電動アシスト自転車が発売され大反響を呼ぶ。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・どうも平成プロジェクトXは開発のその後が良くないという話が多いが、実際にこの回もそういう雰囲気が濃厚。電動アシスト自転車の世界も、現在は中国製の粗悪品が氾濫している状況である。
・菅野がプロジェクトから外されて冷や飯食っているというオチなら嫌だなと感じていたのだが、どうやら彼は電動車椅子というニッチな分野に注力した模様。しかしこれって、ビジネス的には電動アシスト自転車以上にどうなのって分野だな。社会的な価値は非常に大きいんだが。
・滅多に笑ったことがない藤田も、引退してからは柔和な爺さんになっていたのが一番印象に残ったな。年を取ったためなのか、成功した人間の余裕なのか。

前回のプロジェクトX

tv.ksagi.work