無能ではなかった今川義元
桶狭間の合戦で敗者となってしまったために、とかく無能な武将のようにいわれ、京かぶれの軟弱大名とまで罵倒されることのある今川義元であるが、その実像はかなり異なっている。今年は大河ドラマでいきなりちょい役ながらなかなかの存在感を示したことで、それに関連して戦略家としての今川義元を扱おうという話。
義元は今川家の御曹司として生まれたが、彼は京都で僧侶の道を進んでいた。それは彼は五男だったために、家督争いを避けるために出家させられたのである。僧として生きるはずだった義元だが、家の事情でわずか数年で呼び戻される。彼は善得寺という寺に入るが、この寺は甲斐と駿河を結ぶ街道を抑える要所であり、最前線の防衛拠点でもあった。これは今川家の内部のゴタゴタによる人材不足を物語るという。
そこでさらに混乱に拍車が掛かる事件が起こる。義元の兄で当主の氏輝が24才で急死したのである。後継ぎに義元が選ばれるが、この決定に兄でありやはり僧侶だった恵探が異を唱える。こうして骨肉の争いが始まることになる。恵探軍は断崖絶壁久能山を拠点の1つとしており難攻不落であった。
ここで義元は足利将軍の権威を使用する。将軍に家督相続を認めてもらったのである。さらにこれを手がかりにして将軍家と関わりのある北条家を味方につける。結果として北条家が恵探軍を亡ぼして義元が家督を継ぐことになる。京に居た時のコネクションをフルに活用したのである。
文化を政治に使う
こうして今川家の当主となった義元だが、今川家は武田や北条のような有力大名に囲まれた土地であり、これを守っていくのは大変である。義元は京を模して駿府の城下を整備すると共に、歌の名人といわれた冷泉為和などの京の文化人を呼び寄せる。これらの文化人は歌会などで武田氏と接触するなどして情報収集に働いていたのだという。義元は文化を戦略に使用していたのである。
そして甲総駿三国同盟が締結される。この同盟は10年以上の長期にわたって締結され、三国関係を安定化することになる。
桶狭間の戦いの裏にあった壮大な戦略構想
そして桶狭間の戦いである。この戦いはそもそも大高城の救出に端を発している。最前線の拠点である大高城救援に向かった軍は2万5千、義元にすると総力戦だった。大高城は織田方の砦で囲まれていた。とは言うものの囲む軍勢は2000ほどで、義元の動員は明らかに多すぎる。この裏には義元の戦略構想があったという。
当時の大高城は海沿いの城郭であり、ここを抑えていた鵜殿氏は水軍の関係者であったという。ここから船を使うと尾張の経済的拠点である熱田や津島などを襲撃することができ、織田氏に経済的に大ダメージを与えることが可能なのである。また義元が出陣した6月は追い風であり、風に乗ると大高城から20分程度で熱田に到着することができるという。
しかし6月であったが故に突然の嵐に遭い、それに紛れた織田軍の本陣奇襲を許すことになってしまうのである。これは義元にとっても想定外の不運であったろう。
以上、今川義元は決して無能ではなかったというお話。まあ今更改めていわれるまでもなく、海道一の弓取りの名は伊達ではありません。それにしても大河では第1話でさっさと殺されるにしては、家康に「覇道でなくて王道」と指導するなど、なかなかに度量のある武将というところを描いていました。今までの義元の描き方では一番良い描き方されているのでは。
忙しい方のための今回の要点
・桶狭間で敗戦したが故に無能扱いされることが多い今川義元だが、実はかなりの戦略家であった。
・今川家の五男であった義元は、家督争いを避けるために京の寺で僧としての修行をしていたが、数年で呼び戻されて駿河の街道の拠点の防御に当たることになる。
・当主の兄が急死したことで義元は後継に選ばれるが、兄の恵探との家督争いが発生することになる。
・要害に拠点を持ち恵探軍に対し、義元は京でのコネを活かして将軍の家督承認を取り付け、北条氏を味方につけることで恵探軍に勝利する。
・当主となった義元は駿府を京をモデルにした文化都市にし、京から多くの文化人を招く。彼らはサロンを通して周辺国の情報収集などにも活躍する。
・桶狭間の合戦では義元は大高城から船で熱田や津島などの尾張の経済拠点を攻撃する構想を持っていた。しかしそれを実現するま前に桶狭間で討たれる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・義元が無能でないっていうのは、まあ今更って話です。どうしても負けた方はボロクソに言われるのは常なので。実際のところ、信長も義元に勝ったといっても薄氷の勝利で、作戦が見事に決まったというレベルですから、一つ間違っていたら結果は大きく変わっていたところです。こういうところが歴史の妙ですが。
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