教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

3/20 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「武田二十四将・穴山梅雪と徳川家康」

武田の重臣として信玄を支えた穴山信君

 戦国最強武田家臣団の中でも中核の二十四将の中で高い地位にいながら、最終的には武田を裏切って家康に付いたことで武田家滅亡を招いたのが穴山梅雪である。この「アナ雪」こと穴山梅雪がなぜ最終的に武田家を裏切るに至ったかを紹介。

武田家を滅ぼすこととなった穴山梅雪

 穴山梅雪(信君)は武田信玄が父の信虎を追放して甲斐の当主となった1541年に甲州の河内領で生まれる。能力重視で家臣衆を再編成した信玄が武田軍団を構成したのだが、その中心が二十四将であった。穴山信君はその中でも一目置かれる存在だった。それは信君がそもそも国衆であって武田家とは対等な関係にあった上に、信君は信玄の甥に当たり、さらに信玄の次女を娶るなど信玄と強固な血縁関係にあったためであるという。信君は御親類衆の筆頭であった。

 信君は文化に通じ外交に巧みだったという。桶狭間の合戦後、今川が弱体化して周囲の狩り場となる中で信君は今川家中の調略に活躍して、今川氏真は抵抗も出来ないままに駿河を脱出する羽目に陥ったという。さらに家康との同盟交渉でも中心的役割を果たしたという。その役割は本陣での信玄を守ることであったために華々しい戦での活躍はないが、第三次川中島の合戦では本陣に迫る上杉軍を突き崩す活躍をしたという。

 そして信玄の西上作戦に従事する。三方ヶ原の戦いで徳川軍を打ち破るが、この時に徳川軍が夜襲をかけた時に、混乱する武田軍の中で信君は防戦に当たって奇襲隊を壊滅させたという。なおこの時に信君は300丁の鉄砲を動員しており、武田家臣団の中では鉄砲の有用性に注目した人物だったという。

 

 

信玄の死後に歯車が狂い始める

 しかしこの西上作戦中に信玄が病に倒れ、甲斐に戻った後に信玄が亡くなる。後継には勝頼がつくが、そもそも勝頼は正式な後継者でなく、息子が正式に跡を継ぐまでの後見だったという。これが勝頼に焦りを生んだのか勝頼は積極的攻勢に出るが、徐々に信長の圧迫を受けるようになる。そして1575年、織田・徳川と雌雄を決するべく出陣する。ただしこの戦いには信君は反対だったという。こうして長篠城での合戦が始まる。この時に長篠城への徳川の援軍を伝える使者であった鳥井強右衛門を捕らえる。勝頼は強右衛門に「援軍は来ない」と城中に伝えると褒美を与えると言ったのだが、強右衛門は援軍が来ることを伝えて処刑される。これを聞いた信君は「武田の命運はこれで尽きたかもしれない」と考えたという。

 実際に長篠城はこれで士気を取り戻して包囲戦に耐え、三日後に3万の織田・徳川連合軍が到着する。こうして設楽が原の戦いが始まるが、武田の騎馬隊は馬防柵で行く手を塞がれ、3000丁の鉄砲で狙い撃ちをされる。これで武田の多くの宿将が命を落とす。二十四将の実に1/3がこの戦いで命を落としたという。なおこの戦いで信君は戦闘をせずに撤退したことから卑怯者と罵られることになったという。これは織田軍の3000丁の鉄砲を見た時点で勝ち目がないと考え、被害を最少にするために撤退したのだという。しかしこれで高坂昌信が信君に切腹させるように勝頼に進言するという事態になったとのこと。ただし勝頼はこの大敗の上に信君を失うわけにはいかないととこれを認めなかったとか。

 

 

勝頼との亀裂が広がる中でついに寝返りを実行

 信君は江尻城の城主となり、徳川と最前線で睨み合うことになる。この頃に家督を息子に譲って自身は隠居して梅雪と名乗るようになる。梅雪は武田家を守るために外交交渉に精を出すが、この頃に勝頼との間に亀裂が生じ始めることになる。この原因としては勝頼が織田との決戦を望み、梅雪の反対意見に耳を傾けなかったことと、自分の息子と勝頼の娘との婚姻が勝頼の家臣の讒言で破棄されたことなどがあるという。また梅雪としては、諏訪家の勝頼よりもむしろ信玄の甥で娘婿の自分の方がより正統な後継という意識もあったという。

 そして1582年、織田・徳川連合軍が武田領に侵攻すると、梅雪は徳川に寝返る。甲陽軍鑑には1年前から梅雪は家康に内通していたとある。家康からは寝返ったら川内領と江尻領を安堵するとの提案がなされていたという。そして勝頼が亡き後は梅雪が武田を継ぐことを認めるとも伝えていた。結局は国衆であり自身の領土を守る必要があった梅雪としてはこの提案に乗ったのだという。この裏切りで既に離反者が続出していた武田家臣団はガタガタになってしまい、勝頼は自刃に追い込まれる。信長と会見した梅雪は、川内領江尻領の安堵と武田を名乗ることを許される。

 梅雪は家康と共に安土城で信長に謁見、その後堺に逗留するが、その最中に本能寺の変が勃発する。この時、家康は慌てて逃亡、いわゆる神君伊賀越えで一命を取り留める。一方の梅雪も逃亡しようとするが病のために家康とは別行動になり、半日遅れで少人数での出発となる。しかしこれが災いして落ち武者狩りにあって命を落とす。享年42歳、勝頼の死からわずか4ヶ月後だった。家康は梅雪の息子である勝千代に武田姓を名乗らせるが、その勝千代が死去、家康は自分の五男の信吉に武田家を継承させるが信吉も亡くなり、武田家は途絶えることになってしまう。

 

 

 と言うわけで裏切り者と罵られることも多い穴山梅雪の生涯でした。梅雪には梅雪としての理由があったのだが、結局は自身が武田家を残すという意志はまさかの本能寺の変であえなく終わってしまったという不憫さもある。

 まあ一番の問題は信玄が後継者問題をキチンと片付けていなかったことである。長男の義信が継いでいたら問題がなかったと思われるのだが、結局は信玄は義信と対立した結果、彼を処分してしまっているのだから。そうなったらなったで勝頼を後継としてしっかりと確立しておくべきだったのだが、それが不十分な内にドタバタと後継者になってしまった勝頼の不幸である。もっと勝頼が後継者として地位をしっかりと固めていたら、梅雪の対応もまた変わっただろう。

 武田と上杉という戦国でも最強だった武将が、共にその強烈なカリスマ故に後継問題で没落してしまったのは歴史の皮肉ではある。そう言えば信長も強烈なカリスマだったが、彼の場合は後継として長男の信忠をしっかりとした後継者に確立していたにもかかわらず、本能寺の変で彼が信長と共に亡くなってしまうという大誤算の結果、織田氏は没落してしまうということになっている(ちなみこの時に信忠が織田家を残すということを最優先にして、京から早急に脱出して柴田勝家の元辺りに落ち延びていたらというのも、面白い歴史上のifではあるが)。結局は天下を取った家康は、この後継者問題には徹底して配慮しているのは彼らの失敗を見てのことだろう。

 なお今回がこの番組の最終回だとか。どうも昨今は良い番組ほどなくなってしまって、くだらない番組ばかりが増えるというのがテレビ界の共通現象の模様。私のこのブログも扱うべき番組がドンドンとなくなってかなり厳しいところです。ちなみにこのブログでは番組数の加減で扱ってませんでしたが、BS11で「偉人・素顔の履歴書」という歴史番組があって、「にっぽん!歴史鑑定」がなくなるんならこっちを正式に扱うか(番組自体は今までもずっと見ていた)という考えもあったんですが、こっちの番組も今月で終了してしまいました。大げさな言い方ですが、ドンドンとダメになる国ニッポンを象徴しているようにも感じます。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・穴山梅雪(信君)は甲州河内領の国人領主で、武田信玄の甥に当たるため、御親類衆の筆頭として二十四将の中でももっとも重要な位置にいた。
・文化に通じて外交に長けていた梅雪は、戦での華々しい活躍はないが、今川への調略工作などで大きな実績を上げている。
・しかし信玄の死後、勝頼が武田家を継ぐと梅雪の反対を押しきって織田・徳川との全面決戦に望み、設楽が原の戦いで武田軍は大敗北を喫する。
・梅雪はこの戦いの時に織田の鉄砲の数を見て、このままだと兵を無駄死にさせるだけと撤退するが、そのことが卑怯者と罵られて周囲の猛反発を食らう。
・梅雪は徳川との最前線である江尻城の城主となるが、勝頼との亀裂が段々と深まったことと、そもそも自分の方が勝頼よりも武田の本流であるという意識から、家康の領地安堵と武田を継ぐことを認める条件で寝返ることになる。
・重臣である梅雪の寝返りで武田家臣団は大きく動揺して壊滅、勝頼は自刃し、梅雪は武田を名乗ることを許される。
・しかし堺に逗留中に本能寺の変が勃発、病のせいで家康よりも半日遅れで少数の供と共に逃亡を図った梅雪は、落ち武者狩りにあってこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・梅雪は梅雪で言い分も思うところもあったはずなんですが、結果としては武田家を滅ぼしただけで何も出来ず、後世に裏切り者の汚名を残しただけってところがあるんですよね。もう少し長生きしていたら汚名返上できるチャンスもあったでしょうが、さぞ無念な最期だったでしょう。

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