教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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3/13 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「秀吉の誤算 なぜ豊臣家は滅びたのか?」

豊臣家滅亡につながった秀吉の誤算

 天下人にまでなった豊臣秀吉だが、その豊臣家は秀吉の死後に呆気なく滅んでいる。ここには秀吉の誤算があったはずだが、どのようなポイントが誤算だったのかについて、この番組では1.ひとたらし 2.参謀の死 3.無謀な野望 4.秀次の死 5.徳川家康 の5つのキーワードを掲げて分析している。

天下人・豊臣秀吉

 人たらしというのは秀吉の人の心を掴む能力。人たらしの「たらし」には欺くという意味があったと言うが、確かに単なるお人好しと違って、秀吉は巧みに人を騙して操る面もあった。それが最も発揮されたのは織田家の跡目争い。最初は信忠の息子の三法師を立てて実権を握ることにした手口などはまさに見事。その後、柴田勝家と対立すると信孝を担ぐ勝家に対して信雄を担ぎ、勝家を破って信孝を自害に追い込む。そしてその後は信雄を亡き者にしようとする。信雄が家康と組んで小牧長久手の戦いとなるが、戦いが苦戦になると信雄と講和して家康の大義名分を失わせている。立場としては秀吉は逆臣であったのだが、秀吉の巧みな人心掌握でそのイメージを持たれていないのが一番上手いという。ただこの秀吉の技術は秀吉個人のものであるので、秀吉が亡くなると人たらしで政権を維持できなくなったのだという。

 次の参謀の死とは弟の秀長のこと。成り上がりで腹心のいなかった秀吉にとっては、唯一の全幅の信頼を置ける参謀だっただろうという。また秀長は温厚で気が利く人物で秀吉と家臣の間を取り持つ働きをしていた。さらには派手に金を使う秀吉の財政を裏で尻ぬぐいのための金策に走っていたのも秀長だという。しかし秀長は小田原征伐の頃には体調を崩し、その後に亡くなっている。そして秀長の死の直後に利休を切腹させているが、利休の後ろ盾も秀長だったという。秀長の死によって秀吉は一気に参謀を失って秀吉が暴走すると共に、さらに家臣を調停する人物がいなくなったことになるという。

 

 

秀吉の晩年の暴走と家康に対する計算違い

 3つめの無謀な野望とは言うまでもなく朝鮮侵攻のことである。当初は快進撃を続けた日本軍だが、明の援軍の到着で苦戦に陥る。結局は2度に渡っての攻略は大失敗に終わる。秀吉のこの無謀な侵略の理由は家臣に恩賞を与えるため、東南アジアの交易を押さえようと考えていたなどが推測できるということだが、結果としては家臣達に大きな負担をかけ、その不満が石田三成らに向かい、武断派と文治派の対立を激化させたのがこの戦いであり、最終的に関ヶ原につながっている。

この人が生きていたら・・・の豊臣秀長

 4つ目は関白となっていた秀次を切腹させたこと。秀吉は甥の秀次を一旦は後継者にしたものの、秀頼の誕生によって秀頼を後継者にするために秀次を排除しようとしたことに端を発している。秀吉としては秀次に謀反の疑いをかけて実権を奪うだけで良かったのだが、秀次が無実を訴えて切腹してしまったので、あくまで秀次の謀反の事実があったとして秀次の一族まで処刑したことで、家臣や民衆の心を離れさせてしまったのは大誤算だったのではという。

 最後は結局は豊臣家を滅ぼした徳川家康の存在。秀吉は家康をかなり警戒しており、関東への国替えまで行ったが、実際にはこれは逆効果だったのではという。元々関東は自立の気風の強い地だったので、元々天下への野心を持っていた家康がこの地の気風に影響を受けることで余計に後押しされたのではとの分析がなされている。なお朝鮮出兵が成功していたら、征服した明の領土を家康以外の子飼いの武将に与えて家康を牽制できる勢力にしたいという思惑もあったのでという。

 

 

 以上、まあそんな特別な内容は上がっていません。1については成り上がりで腹心の部下のいない秀吉としては、天下を平定するにはとりあえず敵対勢力でも取り込むしかなかったので、豊臣政権は秀吉の絶対支配ではなく大名連合政権的な性質が残っていたところが最大の弱点だったように思われる。そこにカリスマたる秀吉がいなくなれば、その大名連中をまとめることが出来なかったと言うことである。

 私が実際には一番の問題だったと思っているのは2とそれに関連しての4である。秀長がもう少し長生きしていれば、利休の切腹も秀次の切腹も共に起こらず、さらには3の朝鮮出兵もなかったと見ている。秀長が秀吉よりも長生きして秀次を後見していれば、家康の付け入る隙は全く生じなかったろうし、朝鮮出兵などの暴挙がなかったら諸大名の忠誠心のあそこまで揺らぎもないので、そのまま豊臣政権が続いただろうというのが私の考えである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・豊臣家滅亡につながった秀吉の誤算として、1.ひとたらし 2.参謀の死 3.無謀な野望 4.秀次の死 5.徳川家康の5つをキーワードにして分析している。
・人たらしは秀吉の上手さでもあるが、秀吉というカリスマを亡くすと代わりがおらず、政権の求心力がなくなった原因としている。
・参謀とは弟の秀長で、各大名と秀吉との関係を調整したり、利休の後ろ盾でもあったことから、秀長の死が利休切腹などにつながり、豊臣家臣団のまとまりを失う原因となったとしている。
・無謀な野望は朝鮮出兵。結果として失敗に終わった遠征のせいで、諸大名の不満が高まった上に武断派と文治派の対立を招き、それが関ヶ原につながった。
・秀次の死は関白秀次を自害に追い込んだ件。結果として秀吉の苛烈な処分が家臣や民衆の心が離れる原因となった。
・最後の徳川家康は、警戒して関東に追いやったところ、関東の自立の気風が家康の野心を後押ししてしまったとしている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ豊臣政権の最期に関しては、晩年に耄碌した秀吉にブレーキをかけられる者が誰もいなかったということに尽きる。秀吉の死後に豊臣家が傾いたというよりも、秀吉が晩年に自ら傾かせてしまったというのが事実。そういう点で秀長が先に亡くなってしまったことが非常に大きいと考える。

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