教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/14 NHK 歴史探偵「謎の芸術家・本阿弥光悦」

マルチアーティストだった本阿弥光悦

 琳派を代表する(と言うか創始者である)芸術家である(割には一般の知名度は若干劣る)本阿弥光悦について。

本阿弥光悦

 本阿弥光悦の特長の1つは実に多芸多才であることで、番組では「日本のダヴィンチ」などとも表現している。実際にその活躍は書、茶碗、漆器など多様な芸術ジャンルに及んだという。

 番組で最初に登場する作品は国宝の舟橋蒔絵硯箱の複製なんだが、硯箱なんてただの四角い箱でも良さそうなものだが、何やらこんもりと膨らみのある独得の形をしているのが光悦流らしい。

独特の形状をした国宝の舟橋蒔絵硯箱

 

 

光悦の作品に秘められた仕掛け

 本阿弥家の菩提寺に光悦の書が残っているが、非常に達筆である上に書体が自由自在である。光悦は寛永の三筆に挙げられる書の達人である。またこの寺には光悦による重要文化財の螺鈿細工も残っているが、これもなかなかに斬新なデザインである。それどころか光悦が手がけた庭園まであるとのことで、しかもそこには「日蓮」の文字を庭石と蓮池に託して隠してあるという凝りよう。

 番組ではこの後、光悦の作品を脳科学の観点から分析するとして研究室を訪れて脳の働きを見ている。まあそれはどうでも良さそうなものだが、とりあえず光悦の作品の特徴の1つとして「違和感」が挙げられるという。人は目にした映像に違和感を抱いた時に脳の反応が強く出るという。で、光悦の作品も注意を惹くために意図的にそういう違和感を演出しているのだという。先ほどの硯箱の奇妙な形態などはまさにその違和感だという。

 2つめに掲げているのがアハ体験と称しているが、要は気付きである。何やら分かりにくい写真を見せて、それが何であるかが理解できた時に脳が反応して活性化するという現象である。そう言えば最近になって怪しげな脳科学者がテレビでやたらに宣伝していたのを思い出す。それともかくとして、こういう体験があると急にその作品について興味が湧くというのは人間の心理である。先ほどの硯箱にもその仕掛けがあり、硯箱の面に様々な言葉が並べてあるのだが、それは実は古今集の有名な歌(多分、当時のある程度の教養がある人なら知っているはずの歌なんだろう)の言葉なんだが、その中で舟橋という言葉だけがなく、よく見ていると硯に描かれている絵が実は舟橋というオチだそうな。

 

 

研ぎ師として芸術完成を磨き、晩年には芸術村を作った

 光悦の原点であるが、本阿弥家は元々刀剣の研ぎや鑑定を行う一族だったらしい。秀吉の時に光悦は刀剣の鑑定などを任されるようになったという。研ぎ師は単に刃物を研げば良いと言うものではなく、日本刀は刃紋などの芸術性があるので、それを判断できる芸術的感性が必要であるという。実際に本阿弥家の末裔は今でも研ぎ師をやってる模様。

 段々と名声が上がって大名らからも一目置かれるようになった光悦。特に加賀の前田家からは禄を受けるほどの親密な関係だったらしい。しかし58才の時に家康から京都の洛外の鷹峯を与えられる。そこは辻斬りや追いはぎが出るといわれていたような場所だという。これは光悦の存在に脅威を感じた家康による体の良い追放ではないかという。

 この鷹峯に光悦は屋敷を構え、光悦の元には多くの職人らが移り住んで、鷹峯は一種の芸術村のようなものになったという。彼らを指揮しながら光悦は多様な美術品を制作したという。晩年に手が震えるようになった光悦は、晩年には手が震えても作れる茶碗制作に力を入れ、斬新な茶碗を作るようになったという。光悦はこの地で80才で亡くなった。

 

 

 以上、本阿弥光悦について。芸術界での存在感は大きいのだが、一般の知名度は千利休や円山応挙なんかよりも低いというところ。あまりにマルチで多芸だったことが、逆に光悦のイメージを分かりにくいものにしたような気もする。実際に私も「本阿弥光悦って何が本業?」って思ったことがありましたから。利休との関わりから茶道の人かと最初思ってたんですが、それだけではなかったし。なお本阿弥光悦は「へうげもの」にも登場してますね。あの作品って、千利休は当然として、本阿弥光悦や小堀遠州、さらには織田有楽斎に岩佐又兵衛とかまで出てますからね。ちなみに私はこの作品のせいで、今まで全く興味がなかった茶道具とかが分かるようになったという単純な人間です。

     
最終的に予想外の大作になった「へうげもの」

 

 

忙しい方のための今回の要点

・本阿弥光悦は書、茶碗、漆器など多様なジャンルを手がけたマルチクリエイターだった。
・光悦の作品には違和感や発見が仕掛けられており、それによって人の注意を惹くように設計されているという。
・本阿弥家は研ぎ師の家であり、光悦も秀吉の元で刀剣の鑑定などを手がけた。研ぎ師は刀の刃紋の扱いなどに芸術的感性が重要であり、これが光悦の芸術的素養を磨いたと考えられるという。
・名声があがって大名などからも一目置かれるようになった光悦だが、それが家康に警戒されて京都洛外の鷹峯の地を与えられて体よく追放されることになる。
・光悦が鷹峯に屋敷を構えると、光悦を慕って多くの職人らが移り住んで、芸術村が出来上がった。光悦は彼らを指揮して多様な美術品の製作を行った。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・千利休なら茶道、小堀遠州なら造園というように大体誰でも専門分野がハッキリしているのでイメージ出来やすいんですが、本阿弥光悦は広すぎるが故にイメージしにくててつかみ所がないというのが私の正直な感想。
・琳派の創始者になるんですけどね。ただ俵屋宗達の方がピンときたりする。

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