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4/24 NHK 歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」

 この度興福寺の金堂が再建なったが、実は今回で8回目の建設になるのだとか。興福寺の伽藍は今まで7回の火災に遭い、その度に不死鳥のごとく甦ってきた。その不屈の興福寺の物語。

藤原氏の氏寺として建立

 興福寺がそもそも建立されたのは710年、平城京遷都と同時である。平城京を見下ろす高台に藤原不比等が藤原氏の氏寺として豪華絢爛な寺院を建立したのである。この時の金堂のサイズは実は平城京の大極殿よりわずかに小さいだけであり、これは藤原氏の権力のほどを物語っている。

 この興福寺が最初の火災に遭ったのは300年後の1047年。平安中期の藤原道長、頼通が権力を握っていた頃だった。この時には伽藍のほぼすべてが焼失したのだが、権力者藤原頼通の意向で何と1年4ヶ月で再建している。この時には各国ごとに分担を決めて作業を割り当てたのだという。

 しかしその12年後に再び火災が起こる。灯明の火から出た火災は広がり、中金堂などの主要な建物を燃やしてしまう。

 さらに36年後にも僧坊から火が出て、またも中金堂を含む主要部が焼失してしまう。この頃には貴族や僧侶の生活が夜型になり、灯明などをよく使うようになったのが火災が増えた原因だとか。

あの運慶も再建に協力

 4回目の火災は源平の争乱の中で発生している。平重衡と興福寺の僧兵が対立した時に、平家軍が奈良の町に火をつけ、それが興福寺に延焼したのだという。この際に興福寺は完全に焼け野原になってしまったのだが、阿修羅像などの仏像の多くは軽量な乾漆像だったために何とか運び出されたという。

 この半年後に朝廷によって再建の分担が決められたのだが、その際に東金堂と西金堂は再建計画から漏れる。この決定に西金堂を守る僧侶達の堂衆は憤慨する。そして彼らは自ら西金堂を再建することにする。そしてこの堂衆の中の一人が運慶だった可能性が非常に高いらしい。彼らは金堂の再建よりも早く西金堂を再建する。そして本尊を刻んだのが運慶。彼は阿修羅像などの天平仏のリアルな造形から学び、写実的な描写の仏像を作り上げる

世阿弥登場

 1277年には落雷によって5回目の火災。この時にまた国ごとに分担を割り当てようとしたが各国がそれを拒否、結局は再建は堂衆や宗徒(彼らは戦闘もするので僧兵と呼ばれる)が手がけることになる。彼らはかなり強引な力技(無理矢理に資金を取り立てたりしたらしい)で24年後に落慶法要にこぎ着ける。このような祝いの場では僧侶達の踊りが披露されており、これが後の能になったとか。

 しかし鎌倉時代末、1327年に6回目の火災が起こる。今回の原因は何と寺の内部抗争。争いの末に火が出て中金堂を焼失してしまう(何やってるの!?)。

 この時代は南北朝時代だったために再建もままならず、結局再建がなったのは南北朝統一後に足利義満の支援によってだという。この時に義満を接待するために披露されたのが世阿弥による能だったという。こうして火災から72年後にようやく再建がなる。

興福寺最大の危機

 そして江戸時代の1717年に興福寺最大の危機となる7回目の火災が発生するが、これは何と忍び込んだ盗賊によるものだとか。この時に仏像が運び出されたが、本尊は運び出すことがかなわず、せめて頭だけでもと運慶の手になる仏像の頭だけが運び出されたのだという(これは現在国宝)。

 興福寺は再建を将軍の吉宗に頼むが、享保の改革中の吉宗は「寺に回している金はない」。藤原氏ら貴族に頼もうにも、没落してしまっている彼らは「助けて欲しいのは麻呂達の方や・・・」という状況。やむなく仏像などを持ち出して集まってきた人たちから寄付を募る出開帳で資金を集める(今なら大興福寺展とでも言うところか)のだが、再建に必要な額には到底届かなかった(享保の改革中で庶民も不景気だったんだろう)。結局、規模を大幅に縮小した仮金堂を立てるしか仕方なかった

 そして明治になると神道原理主義者達による天下の愚策「廃仏毀釈」の嵐が吹き荒れる。この中で興福寺の僧侶達は春日大社の神官へのジョブチェンジを強要され、興福寺の金堂も役場に転用されたり、食堂が取り壊されたりと興福寺自体が廃棄される危機に瀕する。1881年にようやく興福寺の再興が許可される(「廃仏毀釈」が結局頓挫したからでしょう。そもそも神道の総本山の伊勢神宮自体が本地垂迹なんだから、神仏分離なんて出来るわけがなかった)。しかしその時には興福寺の規模は大幅に縮小されてしまうことになった(かつての領域の大半は奈良公園になった)。

 そして平成、老朽化のために仮金堂の立て直しが不可欠になったことから、この際に興福寺は元の金堂を復元することを考える。そこでその資金集めの一環で行われたのが平成の出開帳こと「国宝阿修羅展」だったとか。

 こうして興福寺の歴史を眺めると、当初はもろに権力のメインストリームだったので何度でもすぐに再建されているが、時代が進むにつれて没落して再建が大変だったのが分かる。そして実際に一番の危機は「廃仏毀釈」だったようだ。あの愚策によって多くの日本の文化的価値の高い仏像が破壊され、大いに日本自体の文化的価値を毀損することになりました。あの時に海外のコレクターに蒐集されて海外流出したことで難を逃れた仏像が少なくないというのが皮肉です。アフガンでイスラム原理主義のタリバーンが、バーミヤンの大仏を破壊するという天下の愚行をやりましたが、宗教勢力に権力を握らせては絶対にいけないという好例となっています。

 「阿修羅展」をやっていたのは記憶にあるが、あれにはそういう背景もあったのか。見事に成功して阿修羅ブームで興福寺も結構潤ったと思います。となるとやはり「大ノートルダム展」もあるのかな?

 


忙しい方のための今回の要点

・興福寺は今まで7度の火災の度に再建されてきた不屈の寺院である。
・興福寺の再建には、仏師の運慶、能を創設した世阿弥なども関与している。
・江戸時代の火災では資金不足で再建がままならず、明治期の廃仏毀釈では興福寺消滅の危機にまで直面するがなんとか切り抜けた。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・今回は妙なアニメを中心に話を進めていました。今までの寸劇スタイルからこちらに変更するつもりでしょうか?
・近年、ちょっとした阿修羅ブームになってましたよね。グッズなんかいろいろ出ていたようですが、ああいうのの版権使用料は興福寺に入るんでしょうか?