日本が幕末に列強と結ばされた不平等条約を改正するために活躍した、カミソリ大臣こと陸奥宗光が今回の主人公である。
坂本龍馬との出会い
陸奥は紀州の重臣の息子として生まれたが、その父が藩内の政争に敗れて失脚、その後はかなり生活に困窮することになったという。青年となった陸奥は神戸の海軍操練所に入るが、刀も振るわずに勉強に明け暮れる陸奥はやや浮いた存在だったという。しかしその時に陸奥にとっての大きな出会いがある。彼はそこにいた坂本龍馬と交流するようになり、彼のスケールの大きさに魅入られる。龍馬は陸奥の能力に目をつけて、亀山社中に彼を引き込むことになる。そこで陸奥は龍馬流の交渉術を目の当たりにする。特に紀州藩を相手に回して賠償金を勝ち取った龍馬の巧みな交渉術には驚かされる。
若き日の陸奥の大失敗
しかしその陸奥を打ちのめす出来事が起こる。龍馬が暗殺されたのである。紀州藩の犯行に違いないと決めつけた陸奥は仲間と共に紀州藩に討ち入ろうとするが、この計画は事前に紀州藩に察知され新撰組が待ち構えていた。これで海援隊の仲間たちも散り散りになってしまう。
また維新後は投獄もされている。外交官を目指していた陸奥だが、当時の新政府は薩長閥が取り仕切っており、陸奥のような他藩の出身者にはチャンスがなかった。そのことから今の政府を転覆するしかないと考え、その陰謀を巡らせていたのだが、政府の通信回線を利用して連絡を取っていたために察知され、禁固5年の刑を受けることになる。頭は良いがどうも詰めが甘いのが彼の弱点だったようだ。
自身の無力さを悟った陸奥は、獄中で世界の政治などを書物で猛烈に勉強する。そして4年7ヶ月後に恩赦を受ける。この背後には陸奥の能力に目をつけていた伊藤博文の計らいがあったという。
外交官としての活躍
そして伊藤の元で陸奥は外交官として条約改正に挑むことになる。その時に活躍したのが陸奥の妻の亮子。語学も堪能で教養もあり美人であった彼女は、ワシントンの社交界の華と言われ、日本のイメージ向上にも大いに貢献する。そして陸奥はメキシコとの間で平等な通商条約を締結することに成功する。
この勢いを駆って次はアメリカと交渉と思った矢先に、外務大臣の大隈重信が爆弾テロにあって辞任するという事態が発生。交渉は完全に中断してしまう。条約改正の前に国内の世論対策が必要であることを感じた陸奥は、メディアを使って条約改正の意義を訴える(要するにメディア工作をしたわけである)。
イギリスとの条約締結
その後、伊藤内閣の元で条約改正に望むことになった陸奥は、まずはイギリスとの交渉に入る。条約改正のポイントは治外法権の撤廃と関税自主権の獲得であったが、イギリスが条件を呑みやすいようにまずは治外法権の撤廃のみに絞って交渉をすることにする。この頃の日本では、イギリスの客船が沈没した際にイギリス人の乗組員と乗客は全員助かったのに、日本人の乗客が全員が船に取り残されて死亡するという事件が発生しており、しかもこの船長への判決が禁固3ヶ月という超甘々判決だったために国内では不満が爆発していたという。
最初の交渉は順調に進む。しかし2回目の交渉でイギリス側は急に態度を硬化させる。日本でイギリス人が反英感情を持つ暴徒に襲撃されて警官に助けを求めたが無視されたという事件が発生しており、イギリス国内での反日感情がわき上がったのだという。
ここで陸奥は手をうつ。彼は議会で日本は外国人を尊重することで世界からも尊敬される国になる必要があるという趣旨を訴える。当時は日本では議会が出来た直後であり、海外からも注目されていた。当然ながら陸奥の訴えは世界にも流れるということを計算してのアピールだった。これが奏してイギリスの態度も軟化、条約の改正についに成功する。
こうしてカミソリ大臣は日本の念願だった条約改正を実行できたのである。ちなみに関税自主権の獲得の方は彼の死後の明治44年のことであり、この時に活躍したのが小村寿太郎である。非常に難しい外交交渉を成し遂げた陸奥はその功績が評価されて外務省内に銅像が建てられている。陸奥は非常に骨のある外交官であるが、同時にしたたかな策略家であったというところがポイントだろう。やはり若き頃の血気にはやっての失敗から多くを学んだのだろうと思われる。政治においては常に策略というものが必要であり、その目的が正しかったとしても真っ正面からぶつかっただけなら何も進まないということになるものである。今の日本でも必要なのはこの正しい目的を持った策略家という奴だが、残念ながら私欲を満たすために策略を駆使する政治屋はいるが、正しい目的を持った者には策略がないという悲惨な状況が実態である。
忙しい方のための今回の要点
・不平等条約改正に後見した陸奥宗光は、海軍操練所で知り合った坂本龍馬から交渉術を学んだ。
・しかし若き日の陸奥は血気にはやって詰めが甘いところがあり、政府転覆を目論んで投獄されたこともある。
・陸奥は不平等条約の改正を治外法権の撤廃に絞ってイギリスと交渉、障害は多かったものの、巧みな世論工作なども駆使してイギリスとの条約締結にこぎ着ける。
・陸奥の活躍を裏から支えた存在として、才色兼備でワシントン社交界の華とも言われた亮子夫人の活躍もあった。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・つくづくこういった時代の日本外交を見ていたら、今のひたすらのアメポチ外交が情けなくなるんですよね。日本の外交力って、遣隋使の頃から比較してもひたすら落ち続けているのではという気さえします。
・陸奥宗光夫人の亮子も元芸者とのことでしたが、この時代の政府要人の妻って元芸者が多いんですよね。一渡りの教養を身につけていて、社交性もあるということで元芸者は即戦力だったらしいです。やはり社交界などがあるので、単なる深窓の令嬢だと役に立たなかったとか。現代人は芸者と言えば単なる売春婦という考え方が強いですが、実はそういうわけではなくて、芸者って本来は芸事が主なんですよね。まあ純粋な意味での売春婦と言えば芸者ではなくて女郎です。
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