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7/15 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「奥州藤原氏100年の興亡」

 平安時代末に東北地方に独立勢力として君臨した奥州藤原氏。その興亡を紹介。

過酷な運命を切り抜けた初代清衡

 奥州藤原氏初代の藤原清衡は過酷な運命を切り抜けてきた人だった。彼の父である藤原経清は陸奥の国府である多賀城に勤めていたのだが、奥州の豪族である安倍頼時が反乱を起こした時、頼時の娘を妻にしていた縁もあり頼時側に付く。

 当初は安倍氏が優勢だったが、国司の源頼義が陸奥のもう一つの豪族である清原氏を味方につけたことで形勢は逆転、安倍氏は敗北した滅ぼされてしまう。そして藤原経清は裏切り者としてわざとさびた刀で苦しめながら首を斬られて殺される。この時に清衡も処刑されるところだったのだが、清衡の母が清原氏と再婚したことで清原氏の養子となって辛くも命を取り止める。

 しかしその後、清衡の父違いの弟である家衡が清衡の命を狙って挙兵、清衡は妻子や一族郎党を皆殺しにされる。辛くも逃れた清衡は陸奥国司であった源義家の元に逃れて共に挙兵、家衡を金沢柵で討ち取る。こうして領主の亡くなった安倍氏と清原氏の所領は唯一のゆかりのものである清衡が治めることとなる

 清衡はこの殺伐とした人生に嫌気がさしたのかどうかは定かではないが、仏教を中心とした平和国家の建設を目指す。そして平泉の都市整備を行うと共に中尊寺を建立。誰もが極楽浄土にゆける国を理想としたのである。なお清衡のこの平和国家構想は陸奥国府とあくまで強調するという姿勢を示したものだとも言えるという。

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金色堂はこの中ですが、残念ながらテレビ局でない私は撮影禁止

毛越寺を建立した2代基衡

 2代目の基衡はさらに平泉の整備を進め毛越寺を建立する。彼はここに安置する薬師如来像を当時の都で最高の仏師であった運慶に依頼することにする。しかしこれには大問題があったという。奥州は当時は北方の野蛮国と見られていたので、奥州からの依頼となると軽く見られる恐れがあったのだという。そこで基衡が行ったのは奥州で豊富に産出する砂金などを大量に送りつける贈り物作戦。さらには名馬の産地でもあったことから、馬も送ったという。これらの贈り物構成が功を奏したのか、運慶は非常に素晴らしい仏像を作り上げる。しかし今度はその素晴らしい仏像を見た鳥羽法皇が都からの持ち出しを禁じてしまう。これに困った基衡は関白を通して働きかける(既に関白には大量の贈り物でパイプを作っていたとのこと)。その甲斐あって薬師如来像の持ち出しが許される。この大事を成してホッとしたのか、基衡はこの後すぐに亡くなったとのこと。

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毛越寺の庭園 撮影:鷺

 

最盛期を迎えた秀衡とその決断

 3代目の秀衡の時が奥州藤原氏の最盛期と言われている。秀衡は無量光院を整備するなどして平泉の整備を完成させる。相変わらずのあくまで平和国家路線だったらしい。しかし中央の状況がそれを許さなくなる。中央で平清盛が権力を握ると秀衡に頼朝の追討を要請してくる。秀衡は言葉ではそれを受けながら実際にははぐらかして誤魔化していたらしいが、平家が滅んで頼朝が権力を得ると、今度は頼朝から今後は朝廷に金や馬を献上する際には鎌倉を通すようにとの書面が送られてくる。要するに奥州藤原氏が頼朝の軍門に下ることを命じる内容だったわけだが、秀衡はやむなくそれを飲む。

 しかしここに秀衡を頼って義経が落ち延びてくる。義経をかくまうことは奥州藤原氏にも危険はあったのであるが、秀衡は義経を受け入れることにする。しかしその数ヶ月後、秀衡が病に倒れ、息子の泰衡に奥州軍を義経に任せて鎌倉と対決することを命じて死去する

奥州藤原氏の終焉

 秀衡の死後、頼朝は奥州征伐の動きを見せる。泰衡はそれを迎え撃つための砦の整備などを行うが、頼朝からの義経の首を差し出せば奥州には手を出さないという書面を信じて義経を討ち取ってしまう。しかし頼朝は元より義経には関係なく奥州藤原氏を滅ぼすつもりでいたのでそのまま侵攻、初戦で敗れた秀衡は自らの屋敷に火を放って平泉より逃亡、腹心の河田二郎を頼って北方に逃げたが、既に鎌倉方に寝返っていた河田に殺害されて奥州藤原氏は滅亡する。

4代泰衡は無能だったのか?

 番組では泰衡は無能だったのかという問に対して、頼朝は義経の首を差し出せば奥州に手を出さない約束をしていたので、泰衡の判断は奥州を守るための妥当な判断だったとしているが、ということが約束を反故にした頼朝が外道だったということか。ただ頼朝の外道っぷりを見抜けなかったのだから、やっぱり無能と言わざるを得ないと思うのだが。

 その辺りのことを先代の秀衡はさすがに見抜いていたのだろう。ただ鎌倉方と戦いとなると奥州は永らく平和を続けていただけに戦に長けた司令官がおらず、戦い慣れた鎌倉軍に勝利することは困難ということも分かっていたに違いない。だからこそ戦の天才とも言われた義経を司令官として鎌倉方と一戦構えるという考えに至ったのだと思われる。実際に泰衡がそのつもりで腹を括っていたら、奥州藤原氏の運命はまた変わっていただろうとは思われる。

 


忙しい方のための今回の要点

・奥州藤原氏の初代清衡は、身内の中での殺し合いなどの壮絶な経過を経て、奥州の安倍氏と清原氏の領土を引き継ぐことになり、ここに平和国家の建設を夢見て平泉の町を整備する。
・2代目の基衡は毛越寺を建立、運慶に依頼して薬師如来像を作成してもらうが、出来上がった仏像が素晴らしすぎたために鳥羽法皇が持ち出しを禁ずるトラブルが発生。基衡はその危機を奥州で産出する砂金などの贈り物構成で関白に働きかけて解決する。
・3代目の秀衡は平泉を完成させるが、中央の政治状況の影響を受けることになる。平清盛や源頼朝からの要請や命令をうまくかわしながらなんとか奥州の独立を維持、また逃亡していた義経をかくまうことにする。
・4代目の泰衡は秀衡の遺言で義経に奥州軍を任せて鎌倉と戦うことを言い残すが、泰衡は頼朝からの義経の首を差し出せば奥州に手を出さないという約束を信じて義経を殺害してしまう。しかし頼朝は元より約束を守る気などなく、奥州藤原氏は滅ぼされてしまう。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・泰衡がもっと毅然と頼朝と対峙していたらという展開は、義経ファンでなくても歴史ファンなら誰でも思うところです。もしそうなっていたら、しばし奥州は半独立地域としての歴史が続くことになったと思います。そうなると後々の歴史はいろいろと変わったでしょうし、ひいては今日の東北の状況も変わったかもしれません。
・まあこの頃から、東北は常に関東に収奪される立場だったと言えるかもしれません。