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7/24 BSプレミアム 英雄たちの選択「真相!戦国山城合戦!知将・毛利元就の決断」

 守護から戦国大名となった大内氏と守護代から戦国大名になった尼子氏という二大勢力に挟まれた弱小国人領主の一人に過ぎなかった毛利元就が、一躍戦国大名へと飛躍するきっかけとなった戦いの一つが郡山城の合戦である。これは尼子氏が3万の兵を動員して毛利元就の居城を攻めた戦いである。この戦いについて最新のデータを元に検証している。

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吉田郡山城にある百万一心の碑

新たに見つかった大規模な山城

 最新のデータというのは、この周辺の地形を航空機からレーダー光で測定した結果である。本来はこの地域の災害の危険性を予測するためのデータのようであるが、このデータを調べると今まで知られていなかった山城の存在も明らかになったのだという。というわけでこういう時には必ず登場する城郭考古学の千田氏が現地に飛んで調査している。

 その結果によると、毛利の郡山城を取り囲む形で尼子氏が大規模に築城している痕跡が確認されたという。尾根筋には明らかに曲輪の削平の跡があり、竪堀まで完備した大規模なものであったとのこと。今まで尼子氏の兵力3万というのはかなり盛った数字だというのが通説だったのだが、今回の築城の規模から見ると尼子氏は実際にかなりの兵力を動員していたのが間違いないということが明らかになったという。

戦いの始まり

 毛利は尼子と大内の間で状況によって双方の距離感を見積もってバランスを取っていた。しかしこの頃には元就は明確に大内氏に付くという立場を示しており、尼子詮久はそれに怒って毛利を攻めるべく、一族内からの反対意見をはねのけて大軍勢を起こしたのだという。尼子勢の3万という大軍に対して、毛利勢は2400。ここに城に避難してきた領民らを加えて8000という人数だったという。

毛利元就の選択

 毛利元就としてはここで選択としては、尼子に寝返るか、大内について戦い通すかを迫られるのである。まず尼子に付くという選択だが、その場合には大内に人質に出している嫡子の隆元が処刑される可能性が高いという問題があった。大内に着く場合は、果たして大内が援軍を送ってくれるかが微妙だった。この時の大内の当主である大内義隆はいわゆるバカ殿であったらしい。

 毛利元就は結果として大内に付くことを選ぶ。ただしただ城に籠もっているのではなく、積極的に戦を仕掛けることで毛利が善戦していることを大内にアピールすることを考える。そこで大内の軍に攻めかかってから退却し、追ってきた大内軍が川を渡ったところで伏兵が攻撃して大打撃を与えるなどという戦果も挙げたという。それにはこの地域に合戦の時期である9月~1月頃に良く発生する霧が影響したと推測されるという。毛利元就は地元の地の利を最大限利用していたようである。

戦意の低い尼子軍に大内からの援軍の到着

 また尼子の側も郡山城を包囲していると言っても遠巻きに眺めているような陣形で、今ひとつ戦意の高さが感じられない状態であるとのこと。これは多分、無理矢理動員されている国人領主達の戦意が低かったのではないかとのこと。また彼らに元就が籠絡の手を伸ばしていた可能性も考えられる。

 尼子詮久はこれではまずいと考えたのか、本陣を郡山城の正面の山上に移して毛利軍とにらみ合う形にする。しかしそれでも毛利軍は尼子軍が城下への攻撃に繰り出した時に本陣への攻撃を決行するなどかなり積極的な攻勢をかけていた。これは大内氏へのアピールと共に、小さな勝利を重ねることで味方の士気を鼓舞し、さらには敵方の士気を挫く効果もあるとのこと。

 そして12月になってようやく大内の援軍1万が現れる。元就はこの援軍と共に尼子の本陣を攻撃、尼子氏は大打撃を受けて敗走することになる。この戦いで毛利元就は大いに名を挙げることになる。そしてその後、大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれるという事件が起こり、その陶晴賢を毛利元就が厳島の合戦で破って、大内氏の旧領をほぼ吸収、さらには尼子氏を月山富田城攻めで攻略して毛利は中国の大大名となるのである。


 以上、毛利元就飛躍のきっかけとなった郡山城の合戦について。新事実と力が入っていた割には、千田さんが初めての山城の発見で浮かれていただけで、そんなに劇的な真実が分かったと言うほどでもなかったような・・・(笑)。

 とにかく毛利元就はかなりの戦巧者であったことは間違いなく、それは戦略的に優れているという話だけでなく、情報戦や謀略戦に長けていたというところが大きいです。ですからこの戦いでも水面下での情報操作などはいろいろとあっただろう事は間違いない。意外とこの戦いも実は尼子詮久が毛利元就の謀略で引っ張り出されたものだったなんて可能性も・・・。実際に陶晴賢を破った時は、巧みな情報操作で陶晴賢を厳島に引き出したんですから。

 


忙しい方のための今回の要点

・尼子詮久が毛利元就の居城である吉田郡山城を攻めた戦いでは、尼子氏はかなりの大軍を動員していたということが、周囲に築かれた山城跡の調査などから明らかとなった。
・毛利元就は尼子に付くか大内に付くかの選択を迫られるが、結局は大内の援軍を待って籠城戦を行うことを選択する。しかし味方の士気の鼓舞と、大内氏へのアピールのために積極的に戦いを行って相手にダメージを蓄積させる策を取る。
・12月になってようやく大内氏の援軍が到着、元就は援軍と共に大いに尼子氏を討ち、これが尼子氏の凋落と後の毛利元就の飛躍につながることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・番組中で「どうも秀吉以降ぐらいから籠城戦は負けというイメージがついているが、この頃は籠城戦は有利」という話が出ていましたが、実際に本来は籠城戦は圧倒的に有利です。秀吉がそれを覆したのは、とにかく動員できる兵力が半端でなかったことと、圧倒的な経済力によって兵站を整備して半永久的に包囲できる体制を作ったことです。だからさしもの小田原城でさえ手も足も出なかったと言うこと。それまでは半年も籠城すればあの軍神上杉謙信でさえも撤退せざるを得ませんでしたから。そういう意味で秀吉はそれまでの戦の常識を変えたとも言えます。