教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/23 BS11 歴史科学捜査班「明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか?」

 今回は歴史の永遠の謎の一つ、本能寺の変はなぜ起こったかである。

謎の多い光秀の前半生

 まずは光秀の人物像に迫ろうとしている。一般的に光秀と言えば裏切り者の怖い人、真面目で報われなかった人などのイメージを持たれていたりするが、そのようなイメージとは少々違う光秀像が浮かび上がっている。

 光秀の前半生については実はほとんど分かっていない。土岐氏の一族だと言うことは確かなのであるが、光秀は土岐氏の庶流であり、没落して越前でかなり困窮した生活を送っていたという。それが足利義昭を通じて織田信長と出会い、そこから光秀の人生は大きく飛躍していくことになる。

光秀は比叡山焼き討ちに賛成だった?

 信長と言えば比叡山焼き討ちの蛮行が有名であり、これを実行したのは光秀であるが、光秀は焼き討ちには反対だったと言われている。しかし近年の研究の結果は、光秀はむしろ積極的に動いていたことが分かってきたのだとか。またルイス・フロイスが光秀については、謀略を好む人物であり、戦では目的のために手段を選ばない人物であるという評を残しているという。つまりは意外に策略家だったようである。

 

築城の才能を持っていた光秀

 また光秀は築城の才能も持っていた。信長の配下で初めて城を与えられた光秀は坂本城を築いている。坂本城は湖岸に建てられた城であるが、本丸へはびわ湖から直接にアクセスできるようになっていたとか。さらにこの城には安土城に先駆けて天守閣が建てられており、実は近世城郭の基礎を作ったのは光秀だったのかもしれないとの話である。

f:id:ksagi:20190924224245j:plain

今は公園となっている坂本城跡

f:id:ksagi:20190924224304j:plain

そこに立つこれじゃない感の強い光秀像

 さらに光秀は自身の領国であった丹波を固めるために多くの城を作っており、その中の一つである周山城は、東にある総石垣の城と、西のある土の城を組み合わせた非常に大規模なものであったことが近年の発掘の結果判明している。

f:id:ksagi:20190924224408j:plain

周山城には石垣が残っている

 

本能寺の変の動機は?

 よく分からないのは本能寺の変の動機である。光秀は変の1年前には「落ちぶれていた自分を引き立ててくれた信長の恩は子孫に至るまで忘れてはいけない」という主旨の文章を残しており、信長に強い恩義を感じていることが覗える。また半年前には信長から与えられた茶器で茶会を行っており、やはり信長への崇拝の様子が覗えるという。ではその後の半年の間に何が起こったのか。

 番組では四国政策転換説を採っている。これは明智光秀はそれまで友好関係を保っていた織田信長と長宗我部元親の間を取り持っていたのだが、この頃から東四国を巡って両者が対立するようになり、ついに信長が長宗我部征伐を決意したことである。このことによって光秀は自身の地位が低下することを恐れたのだという。

 さらには家康を接待した宴席で信長が光秀に暴行を加えて、その時に光秀の付け髪が外れて大恥をかかされたとか、信長が光秀の丹波の領地を取り上げて毛利領であった山陰に国替えを命じたという話もあるが、この辺りは真偽の怪しいところでもある。

愛宕神社で自身の決意を語る

 とにかく光秀は信長に命じられた秀吉への援軍のために亀山城入りした時、愛宕神社に戦勝祈願のために参拝している。その時に詠んだ歌というのが「時は今、天が下知る五月かな」という歌で、これは土岐氏が天下を取るという意味で、信長を討つことを決意したことを示すと言われている。この後、光秀軍は本能寺を襲撃する。

 番組では愛宕神社を実際に訪ねてみたり、本能寺の後から発掘された焼けた瓦などを紹介しているが、これは番組の本筋とはあまり関係ないところ。

 

このタイミングだった理由

 なお一番最後に、光秀をこのタイミングでの反乱に駆り立てたのは信長の嫡男の信忠がこの時に京都入りしていたので、今決起したら信長と信忠の両名を討ち取ることが出来るという考えが光秀の脳裏をよぎったのではとしている。つまりは反乱の下地は前から徐々にあったのだが、実際の反乱はかなり衝動的に実行したのではないかという考え。確かにそうだとすれば、あれだけの切れ者の光秀にしては反乱後のことをあまり考えていなかったように思われることの説明にはなる。


 以上、本能寺の変の原因についての考察。まあ世間に思われている以上に光秀というのは優秀な人であったということとが話のメインでしたが、その辺りはそう新しいことではなかったです。ただ最後の信長と信忠が揃ったので、光秀に「時は今」と思わせたというのは興味深い考えです。結果として光秀は天下を取ることは出来ませんでしたが、少なくとも確実に織田家を没落はさせました。

 

忙しい方のための今回の要点

・明智光秀は謀略を好み、目的のためには手段を選ばない人物であるという評が当時に残っている。
・光秀は築城の名手であり、近世城郭の基礎を作ったのは実は信長ではなくて光秀であったかもしれない。
・光秀の反乱の動機は、それまで仲を取り持っていた長宗我部元親と信長が対立したことにより、自身の地位の低下を恐れたからと言う説が近年では有力となっている。
・またこの時、信長と嫡男信忠が共に京に揃ったことで、今決起すれば両者を共に葬ることが出来るという考えが光秀に浮かび、衝動的に反乱に至った可能性もある。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ反乱の真相なんて、実際は光秀に聞かないと分からないかもしれません(笑)。ちなみに大河コメディ「江」では本能寺の変を起こした光秀に江ちゃん突撃インタビューしたらしいが、反乱の理由を聞かれた光秀は「分かりません」と爆笑コメントをしていたとか。やはりとことんコメディだったんだな、あの大河。
・最近は今回登場した四国政策転換説が有力なようですが、これ以外にも、この頃から信長が昔からの家臣よりも自分の身内を重用しだしたので、古参の家臣達に「このままではいつかは自分達も粛正されかねない」という危機感が浮上してきたという説もあります。