教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/23 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「日本の運命を決めた昭和天皇・マッカーサー会見」

 日本の敗戦後、GHQの総司令官として日本に赴任したダグラス・マッカーサー。彼と昭和天皇との会見が戦後の日本を変えたという話。

天皇の訪問を待ったマッカーサー

 エリート軍人だったマッカーサーは永らくフィリピンに駐留しており、アジアの文化に対する理解が深かった。GHQの司令部に入ったマッカーサーは天皇との会見は不可欠であると考えていたが、天皇を呼びつけるべきという周囲の声を押して、あえて天皇が自ら訪問してくるのを待ったという。天皇を呼びつけるというような相手を平伏させるような形を取れば、未だに天皇崇拝の残っている日本人の反発を招いて統治が困難になることを警戒していたのだという。

 一方の日本の側も天皇とマッカーサーの会見は不可欠であると考えていた。しかしそれが可能かどうかが分からない。そこで外務大臣の吉田茂がマッカーサーに天皇と会見するかと話をもっていったところ、マッカーサーは喜んでと答える。これで天皇とマッカーサーの歴史的会見が実現することとなった。

 

新しい時代が来たことを知らしめた写真

 GHQ総司令部を訪れた天皇は、通訳と二人だけ中に招き入れられる。そしてそこでいきなりマッカーサーお付きのカメラマンに記念写真を撮影されることになる。実はこの時は、突然のことに天皇が体勢を準備することが出来ず、写真は3枚撮影されることになったという。有名な2人が並んで立つ写真はこの3枚目であるという。

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この写真は多くの日本人に敗戦の事実を知らしめることにもなった

 マッカーサーはこの写真を新聞に掲載させるつもりでいたのだが、内務大臣が「不敬である」と差し止めてしまう。直立不動の姿勢の天皇の横に、開襟シャツで後ろ手を組んでリラックスした風に立つマッカーサーという図が気に入らなかったようである。しかしこれに対してGHQは依然として旧体制と変わらない思考を持った者がいると激怒、言論に対する一切の制限を解除する。2日後にこの写真は新聞に掲載されることになる。これは日本人に新しい時代が到来したことを知らせるものであった。

 

天皇とマッカーサーの会見

 二人の会見はまずはマッカーサーが自分の考えを10分ほどに渡って通訳を通して演説調で述べるところから始まったという。マッカーサーは天皇が戦犯としての訴追を免れるための命乞いに来たのではないかと警戒していたのだという。明らかに緊張している天皇に対し、マッカーサーは自分はかつてあなたの父に会ったこともあるというような話をして緊張をほぐす。そこで天皇から出た言葉は「自分は全責任を負う者として、あなた方の裁決に自分のみを委ねる」という言葉であった。命乞いどころか、自ら全責任を負おうとしている天皇の態度はマッカーサーを感動させる。そしてマッカーサーは天皇に戦争責任を負わせるべきではないと考えるようになる。

天皇の訴追を免れるための手配

 マッカーサーは天皇が戦争責任から逃れれるように各地に手配を始める。彼は日本が降伏したのは天皇制が維持されると考えたからであり、もし天皇が戦犯として裁かれるようなことがあれば、反乱が起こってゲリラ戦で発生しかねないということを警戒していた。マッカーサーは天皇に人間宣言を行わせることで独裁者としてのイメージを払拭しようとする。さらにキーナン主席検事に天皇の戦争責任を問わないという意向を伝える。さらにソ連やオーストラリアなどの天皇の責任を問おうとする国に対しても何とか説得をする。

 しかしいざ裁判が始まると矛盾が出てきてしまう。特に大問題となったのは東条英機に対して検事が「天皇が望んでいないのに戦争を選択したことにどう思っているか」と質問した時に、東条は「自分は忠実な軍人で陛下に背いたことはない」と答えてしまう。天皇の責任は問わない方向で裁判を進めていたのに、これはとんだちゃぶ台返しとなる。東条英機、とことんまで無能な男である。この事態にキーナン検事は検察の尋問を打ち切り、法廷が正月休みに入った間に東条の回りの官僚や軍人を通して東条を説得させる。そして東条は渋々と「全責任は自分にある」と証言することになる。

 

日本の民主化を進めたマッカーサー

 一方でマッカーサーは着々と日本の民主化を進める。教育内容の変更や戦争に関係した財閥の解体などを進め、さらには旧体制の象徴であったような大日本帝国憲法を変更することにする。しかし日本政府から出てきた草案は大日本帝国憲法をわずかに改定した程度のもの。そこでGHQが草案を作成する。それはまずは天皇の地位を確定させ、国民の権利を謳い、さらには戦争の放棄も明記した当時でも先進的で実験的でもあった民主的な内容のものであった(今日の日本国憲法)。

 マッカーサーは天皇と会談を重ね、互いに親密さを増していく中で天皇も憲法に対して積極的に意見を述べたという。天皇は自らの中に民主主義を取り込もうとしていたという。

解任されて帰国するマッカーサーを見送る日本人たち

 しかしマッカーサーは突然に解任される。朝鮮戦争への対応を巡ってトルーマン大統領と意見が食い違ったことが原因だったという。本国に帰ることになったマッカーサーを多くの日本人が見送ることになった。占領軍の司令官としてやって来て、占領地の国民にこれだけ慕われるのは異例のことであるという。それは食料などに困っていた日本国民に対し、マッカーサーが本国から食料などを送らせたことを国民が知っていたからだとのこと。後にマッカーサーは日本の統治が成功したのは天皇の協力が大きいと述べており、天皇はマッカーサーについて、彼は誠実な人間で約束は絶対に守る人物だったと述べたという。


 実際にここでマッカーサーの日本統治が成功したおかげで、日本は鬼畜米英から一転して親米国家になったのだから、実はアメリカにとっても非常に大きいことであったと言える。もしここでやって来たのがトランプのような男だったら、親米国家どころか国全体が反米で固まって日本国中で泥沼のゲリラ戦が発生するなんてことになっていた可能性もあり、これは日米双方にとって非常に不幸なことになっていただろう。そういう点では東洋の機微に通じていたマッカーサーという男の存在は実に大きかったと言える。

 

忙しい方のための今回の要点

・マッカーサーは天皇との会見の必要性を感じていたが、天皇を呼びつけるという侮辱した態度は日本の反発を生むと考えて、天皇の側から訪問してくるのを待った。
・天皇と会見したマッカーサーは、もしかして命乞いをしてくるのではとの予想に反し、自ら全責任を負って我が身をあなた方に委ねると語った天皇の態度に心服し、二人は親密さを増していくことになる。
・マッカーサーは天皇の戦争責任は問わない方向で戦後処理を進めるべく様々な手をうつ。しかし東京裁判で東条英機が戦争開始は天皇の意志である主旨の証言をしたことでちゃぶ台返しとなりかけるが、何とか東条を説得して彼に全責任を負わせることにする。
・トルーマンと対立したマッカーサーは司令官職を解任されるが、帰国する彼を大勢の日本人が見送る。彼は日本国民の心をつかむことにも成功したのである。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・占領地の統治というのは実は一番難しいです。厳しくしすぎたり占領民のプライドを踏みにじるようなことをすれば反発を呼びますし、あまり弱腰だと今度は逆に舐められることになる。この時のマッカーサーは飴と鞭をなかなかに巧みに使っています。恐らく政治家としてだけでなく、経営者としてもトランプなどよりは数段上の人物でしょう。

 

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