教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/16 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「信長より先に天下人になった男 三好長慶」

 今回の主人公は、信長よりも先に天下人になっていたという三好長慶。しかしアンケートを取ってみても誰も三好長慶については知らない・・・ってこの展開は6/19のヒストリアとテーマから冒頭まで全く同じ。

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恨みを忍んでの若き雌伏の日

 さて三好の長慶の人生であるが、三好長慶の父である元長は阿波を治めており、細川晴元の重臣だった。細川晴元は管領である細川高国と対立していたが、元長はその高国を討つなどの功績を挙げる。しかし元長の力を警戒した晴元が策を巡らせる。元長は一向一揆の大軍に攻められて命を落とすことになる。長慶は辛うじて阿波に逃れるが、わずか11才の長慶に三好家の命運が託されることになるのである。

 ここで長慶がとった手は、あえて父の敵である細川晴元に仕えることであった。元長と多くの家臣を失った三好家には細川家に対抗する方法はなかったのである。長慶は晴元の元で恨みをこらえて功績を挙げていくことになる。

チャンス到来、ついに立ち上がる

 1539年、18才で越水城の城主となった長慶は、じっと父の敵を討つ機会を窺っていた。そしてその機会が訪れたのは1548年だった。細川晴元が池田信正を裏切ったとして自害に追い込み、側近の三好政長が池田信正の領地や財産を勝手に押収したのである。この暴挙に機内の武士たちは強い不信の念を抱く。ここで長慶が「自分こそが武士の利益を守る」と立ち上がったのである。周囲は武士は続々と長慶に味方し、晴元は12代将軍の足利義晴、13代の足利義輝と共に近江に逃れる。ただしこの時に長慶はそれを追討するところまでは行わなかった。この時点では長慶には天下を覗うつもりはなかったのだという。

 

将軍を追放してついに天下人に

 足利義晴が亡くなった後、足利義輝は三好長慶の暗殺を目論んで刺客を送り込む。これに対する長慶の対応は驚いたことに、義輝と和睦して京都に迎え入れるということだった。三好長慶の心情を物語る言葉として「理世安民」が残っている。これは道理が通った民が安心して暮らせる世の中と言う意味で、長慶は足利家が分裂して対立するのが世が乱れるもとと考え、将軍家の権威を高めることで世の中を安定させたいと考えていたようである。しかし長慶のこの考えは義輝には通じなかった。義輝は再度長慶に襲いかかってくる。もうこうなっては仕方ないと長慶は義輝を追放してしまう。さらには「将軍に付き従う武士の領土はすべて取り上げる」と宣言、これで義輝に付いていた武士たちは次々と長慶側に寝返って、将軍に付き従うのは40人程度になってしまったとか。義輝を京から追放した長慶は、代わりの将軍を立てることなく自らが京を支配することにしたという。この時に長慶は畿内を制圧していたので、天下人となったのだという。まだ全国を押さえていたわけではないが、当時は天下といえば機内周辺のことだったので、天下人という呼び方は正しいというわけらしい。

三好長慶の先進的政策

 さて織田信長は三好長慶を畏敬していたという話がある。実際に信長が初めて行った画期的政策とされているものの多くは、実は三好長慶が先に実行しているのだという。
1.身分に関係なく能力を重視した人材登用 これで松永久秀などを登用している。さらには弟たちを周辺国に配置するなどして三好家の安泰を図っている。
2.鉄砲の導入 法華宗のネットワークを利用して遠く東南アジアまで交易ルートを持っており、そのルートから大量の鉄砲を購入していた。これは長篠の戦いの25年前である。
3.キリスト教の保護 キリスト教の布教を認め、宣教師を保護することで南蛮貿易も行っている。
4.居城の移転 支配地の変化に伴い、越水城から芥川山城、飯森城と居城を移転している。これはこの時代には珍しいことである。
5.石垣を用いた築城 飯森城の最近の発掘調査の結果、全山で石垣を用いていたらしきことが判明した。これは織田信長が小牧山城を築城する3年前のことである。
 以上、三好長慶が行った先進的政策。これらはすべて信長も全く同じことをしているのはよく知られている通り。

 

三好家の終焉

 三好長慶は朝廷から桐の紋の使用が許され、正親町天皇からは改元の相談を受けるなど、実質的に武家の頂点として認められることとなる。しかしこの三好長慶の天下は長くはなかった。弟2人を相次いで失った挙げ句に、嫡男の義興も病で失う。後継者を選ぶ必要に迫られた長慶は、一番下の弟の息子で母親が名家の出身である義継を選ぶが、家中の分裂を恐れて生き残った弟の安宅冬康を殺害してしまう。これが心理的にもキツかったのか、その2ヶ月後に三好長慶は病死する。この時、義継は15才。長慶の死後に家臣の松永久秀と三好三人衆が対立して家中は分裂、若き義継にそれをまとめる力はなく、結局三好家は織田信長に攻められて滅ぶこととなる。


 以上、信長に先駆けて天下人となりながらも儚く終わってしまった三好長慶についてでした・・・が、内容が6/19のヒストリアをほぼ寸分違わずそのままなぞってしまっています。そうなってしまった原因は、ヒストリアと全く同じ天理大学の天野忠幸准教授の元に取材に行っているから。全く同じ研究者の見解に基づいて番組を組み立てたら、その内容もほぼ同じになるのは当然というもの。恐らく天野准教授もNHKの取材陣にしたのと全く同じ内容を説明したであろうと思われる。それにしても内容がここまで丸被りしてたら、先に放送されたヒストリアを見たスタッフは慌てなかったのだろうか? それとも誰もヒストリアを見てなかった? まあ慌てたとしても今更作り直しも別ネタも用意できなかったろうが。

 何やらこの番組の3時間前に放送された「歴史科学捜査班」と言い、今週の番組は「大人の事情」が垣間見える内容だったな。昔の「発掘あるある大事典」はよく「ガッテン」からネタを発掘してくるなんてことがあったが、まさかこの番組はヒストリアからネタを発掘したということはないだろうな? 正直なところ、ヒストリア放送から3ヶ月という間隔はかなりグレーなんですよね・・・。

 


忙しい方のための今回の要点

・三好長慶は将軍を京から追放して自らが京を支配した。この頃の天下と言えば機内周辺を指す言葉であったので、三好長慶こそが最初の天下人であったと言える。
・信長が行ったとされる能力主義、鉄砲の導入、キリシタンの保護、本拠の移転、石垣作りの築城はすべて三好長慶が先に実行している。
・しかし三好家は長慶の死後に家中が分裂し、織田信長に滅ぼされる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・この番組がヒストリアが放送される前から製作が始まっていたか、ヒストリアが放送されてから企画が定まったかなんですよね。ヒストリアを参考にしたのなら、全く同じ先生のところに取材に行くというのはあまりに安直すぎ。知らなかったのなら不運です。私はテレビの制作について知っているわけではないので判断しようはないですが。ただ論旨が同じなのは仕方ないとしても、番組の作りまで非常にヒストリアと類似しているのは引っかかります。

 

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