教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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9/26 BSプレミアム 偉人たちの健康診断「伊能忠敬 第2の人生の歩き方」

 今回は江戸末期に正確な日本地図を作成した伊能忠敬。彼が地図作成に取り組んだのは50歳を過ぎてからという当時の寿命から考えると人生最晩年期にさしかかってから、その彼の健康の秘訣について。

地球の大きさを求めるために地図作成を始める

 伊能忠敬は元々は佐原の商人で、地図の作成を始めたのは隠居した50歳からである。天文に興味を持った彼は、最初は地球の大きさを測量しようと考えたのだという。そこで自宅のある深川から浅草まで歩いて地図を作成し、それから地球の距離を求めようとした。しかしその計算結果を持ち込んだ幕府天文方の高橋至時に「深川と浅草では距離が近すぎて正確な値を求めるのは難しい。せめて蝦夷地との距離を測れれば。」と言われる。そこで忠敬は幕府お抱えの天文学者の仲介で蝦夷地の地図を作ると言うことで、蝦夷地に渡る許可を幕府から取り付ける

 

忠敬の長距離歩行の秘密ナンバ歩き

 こうして伊能忠敬は蝦夷地に向けて旅立つことになるが、その時既に忠敬55歳。しかし彼は1日40キロというハイペースで蝦夷地に向けて移動している。この長距離歩行が可能であった理由だが、当時の日本人の普通の歩き方であったナンバ歩きに理由があるとしている。

 ナンバ歩きは同じ側の腕と手を出す歩き方であり、現在の歩き方に比べると腰のひねりがなくて足もかかとからでなくて全体を着くので、腰の負担が少なく、かかとやひざへのダメージも少ないことから特に長距離歩行に向いているという。実際に1日に40キロというのは当時では女性でも標準的なペーストのこと。このナンバ歩きは腰のひねりがないために和服の着崩れが起こらないという和服に向いた歩き方でもあったのだが、洋装化などによって消えたと番組はしている。しかし私の見解では、ナンバ歩きの消滅は軍隊の西洋化に伴う行進などの導入のせいと見ている。実際に当時の軍隊で行進を行うと、ナンバ歩きのせいで同じ側の手足を上げてしまう者が多く、それの矯正が大変だったという話を聞いたことがある。現在でも学校などによって行進式の歩き方が指導されているはずである。

苦労しながらも蝦夷地の地図を作成

 さて忠敬の蝦夷地測量であるが、それは困難を極めたという。蝦夷地では宿泊地の確保さえままならないし、襟裳岬などでは険阻な地形に行く手を阻まれ、さらに釧路湿原では足が地面に沈んであることさえままならない状態で、測量を断念せざるを得なかったという。しかしそれでも180日で3225キロを歩いて西別までの測量を終えて江戸に戻ってくる。そして忠敬は当初の目的であった地球の大きさについて3万8173.06キロと、現在の4万0007.86キロと大差ない驚異的な数字を求めている。忠敬が提出した蝦夷地の測量地図はその正確さや緻密さで幕府を驚かせた。そこで幕府は忠敬に他の地域の地図も作成するように命じる。この時に忠敬56歳。

 

東日本測量に向かった忠敬を苦しめた持病

 そこで忠敬は東日本の測量を始めるのだが、ここで忠敬は持病である痰の病に苦しめたられたという。その記録から診断すると忠敬の病は気管支ぜんそくだったと推測される。気管支が慢性的に炎症を起こすことで呼吸が困難になる病で、最悪の場合には命を落とすこともある。現在ではステロイドを吸引して炎症を抑える治療を行うが、当時は当然のようにそのような薬はない。しかしここで忠敬が病をおして測量を続けていたのがむしろ健康の点ではよかったのではとしている。というのは、運動をすることによって心肺機能が高まり、呼吸が楽になるという効果があるのだという。また運動を続けることは重要であり、特に運動習慣がない場合には筋力が年に1%の割合で低下すると言われており、60歳を過ぎると寝たきりを防止するためには、定期的にきつめの運動をすることは重要とされている。番組推奨は3分速歩をしてから、呼吸を整えながらゆっくり3分歩くのサイクルを繰り返す運動。これを速歩が合計15分になるように行う。この運動を週に3~4回実践すると筋力低下を防止できるとのこと。

さらに全国の測量に向かうが・・・

 忠敬の測量を嫌う藩に協力を拒まれたりなどの問題はあったが、忠敬が作成した地図は幕府に提出され、将軍家斉もこれを見ることになる。そしてこの功績で忠敬は幕臣に取り立てられ、60歳になった忠敬は残った西日本の地図の作成に挑むことになる。この時には幕府から忠敬の測量に協力するようにとのお達しが各藩に回り、忠敬の測量には多くの人間が協力してくれるようになる。忠敬は国家的プロジェクトのリーダーになったのである。

 ただ皮肉なことにこれが忠敬の健康にはマイナスになったという。忠敬の仕事は調整や手配などが多くなり、現地の測量は忠敬の弟子が行うことが多くなったため、忠敬が歩くことが少なくなり、それが彼の体力低下に拍車をかけることになってしまったという。63才の時にはぜんそくが再発したという記述も見られるとのこと。忠敬はだんだんと測量の最前線に立ち会う体力がなくなっていき、伊豆大島の測量の時には同行を断念せざるを得なかったという。70歳の時に江戸に戻ってきた時には彼は疲労困憊していた。

 

デスクワークの忠敬を襲ったもう一つの持病

 江戸に戻った彼は71歳から測量データに基づいて地図の作成に打ち込むことになる。しかしデスクワークが多くなった彼をもう一つの持病が襲う。それは。彼がその痛みを和らげるために使用した方法がヒルを使ったものだとか。イボ痔で鬱血した血液をヒルに吸わせることで患部を縮小させ、また炎症が起こることで血流が止まるので患部が固まって痛みが緩和されるのだという。今でも医療用ヒルというものが存在し、指などの接合手術の後で鬱血が起こった時に、その血をヒルに吸わせるということを行っているとか。ヒルが分泌するヒルジンには血液が固まらないようにする効果があるので、鬱血した余計な血液が24時間に渡って出血するので鬱血が解消されるとのこと。確かにヒルにかまれた傷はなかなか血が止まらないというのは山歩きする者には有名な話である。

 忠敬は地図の作成に打ち込むがその道半ばの74歳でこの世を去る。忠敬が作っていた地図は弟子たちによって完成され、その3年後に幕府に提出される。これが今日にも残っている伊能図である。


 第二の人生を日本地図作成に捧げた究極のオタ・伊能忠敬の生涯でした。しかし当時の50代からこんな大事業を始めるとはまさに驚異。ただ忠敬自身は別に名を残すとか栄達するとかを考えておらず、単に自分が興味があって好きであることを極めただけという認識であったようであり、実に尊敬されるべきオタであります。いわゆるオタ気質の人間という者は、それが有益か無益かはともかく、他の誰もまずはできないような事を成し遂げる場合が多いです。伊能忠敬の場合は、それが後の世にも極めて有用なものであったという幸福な例であると言えます。

 

忙しい方のための今回の要点

・伊能忠敬は50歳を過ぎてから、地球の大きさを求めるということを目的として地図の作成を開始する。
・彼が歩いて作成した蝦夷地の地図はその精密さで幕府を感心させ、さらに他の地域の地図の作成も命じられることになる。
・忠敬は1日に40キロもの長距離を歩いていたが、その秘訣は腰やひざに負担をかけないナンバ歩きにあったと考えられる。
・56歳で東日本の測量を開始した忠敬は、持病のぜんそくで苦しめられるが、歩いて体力を付けていたことがぜんそくの症状を抑えるのにも効果を上げ、無事に東日本の測量を終えることが出来る。
・功績で幕臣に取り立てられた忠敬は、西日本の測定では各藩の協力を得ることが出来るようになるが、皮肉なことに忠敬の仕事が測量の現場を離れてしまうことで彼の体力の低下が促されることになってしまった。
・江戸に戻った後、地図を作成するというデスクワークに励んでいた忠敬は、痔で苦しめられることになる。彼はヒルを使って鬱血を押さえるという治療法を受けている。
・忠敬は地図作製中の74歳でこの世を去り、彼の地図は弟子たちによって完成されて3年後に幕府に提出された。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・世の中の役に立ったオタクの話でした(笑)。大抵のオタは何か凄いことをしでかしますが、大抵は世の中の役には全く立ちません(笑)。というわけで「オタと偉人は紙一重」です。
・当初は忠敬の測量はかなり各藩に警戒され、妨害なんかも受けたとのことですが、これは忠敬が隠密であるという説が流布していたからとか。忠敬の地元の佐原では「伊能忠敬を大河ドラマに」という運動がありますが、忠敬を大河ドラマにするとしたら、私も忠敬が隠密だったという設定にするでしょうね(笑)。でないと、1年の尺を持たせるのはかなりツラい。せめて半年ぐらいのドラマなら、佐原での前半生も加えるとどうにかなるかもしれませんが・・・。ただその間に視聴者が離れてしまって「いだてん」以下の低視聴率大河になる可能性が高い。

 

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