病にむしばまれ死を意識しての人生
童話作家の宮沢賢治は花巻の豊かな商家に生まれている。彼の実家は質屋と古着屋を営んでいたが、貧しい農民が持ち込むなけなしの家財道具でわずかな金を貸して利益を上げている実家の商売に彼は嫌気がさしており、家業を継ぐことを拒絶、家業を継ぐのを当たり前と考えている父親と意見が衝突して家庭内ではゴタゴタが絶えなかったという。そんな賢治のことを理解していたのは2つ年下の妹のトシだった。年齢が近いこともあって二人は非常に仲が良かったという。
しかし21才の時、彼を病魔が襲う。胸の痛みで受診した彼に告げられた病名は結核だった。結核は空気感染する病気で、結核菌は肺などに潜伏して抵抗力が低下した時などに発症する。そして一度発症すると当時は治療方法がない死の病であった。大体発症するのは10~15年後ぐらい。賢治は自分の命が長くないことを感じずにはいられなかった。この頃から賢治は童話の執筆を始める。
結核で倒れた妹のための読み聞かせ
賢治が25才の時、トシが血を吐いて倒れる。彼女も結核を患っていた。結核の発作で寝込んでいる彼女のために賢治は自分が書いた童話の読み聞かせをしたという。すると彼女の体調が持ち直して起き上がれるようになったという。
童話の読み聞かせにはストレスを解消する効果があり、それが免疫力を高める効果が期待できるという研究があるとか。また読み聞かせは想像力をかき立てるために脳の働きを活発にさせ、子どもの場合には知能の発達を促すという説もあるようだ。
この後、賢治は農学校の教師となり、貧乏な農家の子どもたちを指導する教壇に立つことになった。賢治はこの仕事にやりがいを感じていたらしい。しかし間もなくトシの容体が急変する。賢治は彼女を看病するが、この時のやりとりが有名な「あめゆじゅとてちてけんじゃ(みぞれを取ってきてちょうだい)」である。最愛の妹を失って心にボッカリと穴の開いた賢治は、北海道や樺太に旅行に出かける。そこで星空を眺めながら書き始めたのが「銀河鉄道の夜」だという。主人公が「本当の幸せ」とは何かを追い求める話である。
農民となった賢治とトマト
賢治は29才の時に教師を辞めて農民になる。花巻の地は土地が痩せている上に冷害が多いので農家では餓死者が出ることなどもよくあったという。賢治は地元の農民のために荒れ地や冷害に強い作物であるトマトに目をつけ、これの栽培を自身で始める。なお栄養学的に見るとトマトは実に栄養豊富で、さらにトマトに含まれるリコピンは抗酸化作用を持つ上、トマトに含まれるエスクレオサイドAという物質がコレステロールが血管に溜まるのを防ぐ働きがあることも近年の研究で判明したという。つまり賢治がトマトに目をつけたのは先見の明があるという。
賢治は農民たちのために彼らを集めてレコードを聴かせたり音楽を演奏したりなどといった文化活動をしていた。彼の作品には「みんなの本当の幸せのためなら、自分の命なんてどうでも良い」という主人公がよく登場すると言うが、まさにこの時の彼の心境もそうだったのかもしれない。しかし残念ながら農民たちには彼はただの変わり者に見えたのか、彼の活動を理解しているものはあまりいなかったようだ。
彼の命を奪った極端な偏食
しかし彼が31才の時に結核の発作が起こる。彼がここで結核を発症したのは免疫力の低下が原因であり、それは彼の食生活が問題となっていたと考えられるとのこと。彼は21才の時にベジタリアンになるという宣言をしていたらしい。ただベジタリアンでもキチンとバランス良く食べていれば肉を食べなくても健康は保てるのだが、彼の場合はいささかその食生活が偏りすぎていたという。一応は穀類や大豆なども食べているのだが、その食べ方は納豆が手に入ると納豆ばかり食べるとか、豆腐だと豆腐ばかりというように極端にそればかりとしうパターンが多かったとのこと。どうも腹さえ膨れればそれで良いという考えで、食生活に無頓着だったようだ。このような食生活だと、五大栄養素がバランス良く摂られていないために栄養素がうまく機能せず、免疫力の低下につながるという。またそもそもカロリー自体が足りていなかった可能性も考えられ、こうなると体温維持能力が低下するために免疫力が低下する。
彼は病床でも童話を書き続け、37年の短い生涯を終えることになる。彼の「銀河鉄道の夜」が世に出たのは彼が亡くなって1年後とのこと。
宮沢賢治の生涯ですが、一つだけ気になったのは彼は教師を数年やっただけで、彼が書いていた童話はこの時点では商業ベースに全く乗っていなかったはずだから、収入らしい収入があるようには思えないのに、東京に勉強に行ったり、そば屋に来ては天ぷら蕎麦とそれより高いサイダーを注文していたとか、レコードを買い集めていたなど、金に困っている様子が見えないこと。家業を継がないと実家とはもめたはずだが、実家の支援は受けていたのだろうか? 何となくよくある「世に認められなくて極貧生活の中で亡くなった」というイメージではなく、どことなく余裕が見えるのであるが、その辺りの解説が欲しかったところではある。
なお童話作家として名前を残している宮沢賢治であるが、彼の経歴を見ていると社会事業家や実業家としての才能の方が何となく垣間見えたりする。もし彼が若くして亡くなることがなかったら、意外とこちらの方で名を残して童話製作は余芸のように扱われたかも。
忙しい方のための今回の要点
・宮沢賢治は花巻の豊かな商家に生まれるが、21才の時に結核の診断を受けて、それ以降は自身の寿命の身近さを痛感しながらの生活となる。
・その頃から童話を書き始め、妹のトシが結核で倒れた時には自作の読み聞かせをしている。
・なお読み聞かせにはストレスを低減して免疫力をアップさせたり、想像力を刺激することで脳を活性化するなどの効果が報告されているという。
・農学校の教師を辞めた後の彼は農民となって荒れ地に強いトマトの栽培に力を入れる。トマトは栄養的にも非常に優れた野菜であり、これに目をつけたのは賢治の先見の明とも言える。
・賢治は結核を発症して命を落とすが、彼の極端に偏った食生活が免疫力の低下につながったと推測できる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・彼の童話には常に「死の影」がちらつくんですよね。だからこそ「みんなの本当の幸せのためなら自分の命なんてどうなってもいい」になるんですよね。その辺りが多くの読者の心を打つんでしょう。
・ちなみに今日でも宮沢賢治は岩手の観光のために大活躍してます。私がつい最近乗ってきたSL銀河なんて宮沢賢治色一色で、あちこちに賢治ゆかりの展示がありましたね。そういう意味では死んでもなお地元に貢献している偉人ではあります。
次回の偉人たちの健康診断
前回の偉人たちの健康診断