教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/14 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「なるほど!戦国合戦」

 今回の歴史鑑定のテーマは戦国合戦。戦国時代の合戦の実像とはいかなるものであったかを、主に雑兵の立場から紹介。

合戦が始まるまでの段取り

 まずはいかにして合戦が始まるかであるが、これは戦国大名を中心とした軍評定(早い話が戦略会議である)が行われ、ここで軍を行うべきかどうかが話し合われる。そして評定の結果、軍を行うとなるといわゆる物見を出して敵に関する情報を集めることになる。これが戦略を決定するための材料となるのだが、この番組では軍評定がなされてから物見が出る順序になっているが、そもそもは軍を行うかどうかの判断材料として、事前に情報は集められているはずなのだが?

 こうして軍が定まると、具体的に出陣の日程を判断するために吉凶を判定する占いが行われる。これを行うのが軍配者と呼ばれる者で、これが後の軍師につながったという。つまりはこの時代の軍師は作戦立案者だけでなく、占い師だったわけである(山本勘助などもこういうことをしていたらしい)。なお戦国武将は出陣に際していわゆる験担ぎを諸々するのでややこしかったようだ。身を清める必要があるので出陣の3日前から女色を禁じるなんてこともあったとか。島津義久などは占いをかなり重視したとのことだが、戦国大名の中には本音では占いなんか信じていなかった者もいただろう(織田信長はそうだっただろうと思っている)。そのような者は家臣の動揺を抑えるために(大名本人は信じてなくても、家臣もそうとは限らない)、最初から吉の結果が出るように手配した占いを形だけやっていたということも聞いたことがある。これも道鏡のご神託事件以来の日本の伝統か(笑)。

 次に行われるのは兵の招集であるが、家臣達は知行に応じて動員する兵数が厳密に定められており、これに反した場合には知行取り上げなどの罰則もあったという。ただ軍の規模が拡大すると共に武士だけでは足りないので、多くの農民が動員された。これも村ごとに人数の割り当てなどがあったという。武器は持参が原則なので、刀や槍などは自己負担でありこれは農民にとってはかなりキツかったようだ(だから落ち武者狩りなどで武具を奪っていたんだろう)。武器は槍が多いが、実際は竹槍で参戦する者も少なくなかったとか。こうして動員された農民たちの運命は過酷で、ある統計では戦死者1000人の内、武士は1割で後は動員された農民などの雑兵たちだったという。番組では触れていないが、当然こうやって動員された兵たちの戦意は高いはずがないので、優勢の時は褒美目当てで張り切っても、一度劣勢となったら自らの命を守るために総崩れになるということになるのは明らかである。だからこの当時の合戦を見ていると「なんでそんなことで総崩れになるの?」と疑問を抱くような展開が多いが、そこは職業軍人中心の軍と同じように考えてはいけないということになる。

 

合戦の進め方 1.野戦編

 戦いの進め方についてはまず野戦の場合。最初に行われるのは、大将などが檄を飛ばして兵の士気を上げる。いよいよ合戦が開始されるという合図でもある。ここでは多分大将のカリスマが大いに影響するだろう。そしていよいよ戦いとなると、まずは矢合わせといって双方で矢を打ち合う。これは源平の時代から変わらないが、多分に様式化していた源平時代と違い、この時代はもっと実戦的だったろう。基本的には最も射程距離の長い武器で少しでも敵兵を減らすという考えである。鉄砲導入後は鉄砲の射撃が弓に取って代わることになる。

 矢を打ち合った後は双方の長槍部隊が戦うことになる。これで敵陣を崩せば一気に騎馬隊などが突入して白兵戦の乱戦ということになる。だから吉川氏の伊勢での合戦の記録によると、怪我人の傷173カ所の内、鉄砲傷が93カ所、槍傷が58カ所、矢傷が22カ所に対して、刀傷は0だったとのこと。つまりは後のイメージと違って合戦での主力武器は刀ではなくて飛び道具だったということだが、一つだけ思ったのは、刀で斬り合うというのは合戦の最終局面なので、刀で斬られた者は怪我人でなくてトドメを刺されてしまったのではないかということ(そもそも刀は主に相手の首を取るのに使ったと言わている)。また傷口の小さい鉄砲、槍、弓と違って、刀傷はそれだけで殺傷能力が高そうである。まあ何にせよ、合戦における刀の比重は後の我々が思うほど高くはなかったのは確かである。それに刀を使いこなすには訓練を必要としたので、使いやすい槍は一番実戦向きの武器でもあったという(敵に肉薄せずに遠くで戦えるので、素人でも恐怖を感じにくいというメリットもある)。なお乱戦の際に同士討ちを避けるために合い言葉が軍ごとに定められていたという。

 

合戦の進め方 2.籠城戦

 敵兵よりも劣勢の場合には籠城戦が選択されることが多い。籠城戦の場合には籠城側の戦略は援軍が後詰めとしてくるまで持ちこたえ、後詰めの軍と共に挟み撃ちで包囲軍を殲滅すると言うのが基本となる。だから包囲軍は後詰めの軍が来るまでに城を落とす必要があるので、籠城軍の三倍の兵力が必要となったという。

 城を落とす戦略も様々。正面から強引に攻める力攻めに、火矢などを使う火攻めがある。武田信玄が得意としたのはトンネルを掘って城に潜入するもぐら攻め(城に侵入するだけでなく、井戸を枯らしたり城壁を崩したりなんかもしたはずだが)、もっと大規模でエグい戦略は秀吉が得意の水攻め兵糧攻めなどもある。

 一方の守る方も様々な奇策を繰り出した。記録に残っているのは羽柴秀長が播磨国淡河城を攻めた際、城主の淡河定範は城内の雌馬50頭を秀長軍に向けて放つという策を使用したという。当時の軍馬は去勢をしていなかったため、発情した雄馬たちが制御不能になってしまい、秀長軍は撤退を余儀なくされたとか。

 一方の攻める側もあの手この手で城兵を挑発する。周囲の田んぼの稲を刈り取る青田刈りなどは定番中の定番だが、さらに集落に火を放つ、集落の女子どもを拉致するなどの悪辣な手なども駆使する。それでも駄目なら最後は城内に向かって悪口で挑発するなんてことまで行っている。これに対して城内からも悪口を返してきて、さながら子どものケンカのような様相になるということもしょっちゅうだったようだ。

 

戦場での雑兵ライフはなかなか過酷

 このような戦場での雑兵ライフはいかなるものであったかだが、まず食料は基本的に3日分は持参するように定められていたという。だから干し飯や梅干し、焼き味噌などの保存食を兵糧袋に入れて首から吊していたという。戦闘が長引く場合は食料は配給されることになるが、これが滞る場合も多く、「雑兵物語」には他人の食料を奪ったり、野山では食べられるものは何でも食べるという気概が必要という記述があるという。まさにサバイバルである。

 また戦場で商売を行う商人などもいたという。お金があれば彼らから食料を購入するということも可能であるが、足下を見た商人が値段をつり上げるなんてこともあり、そこでのトラブルもよくあったようだ。なおトイレは穴を掘ってやっていたようだが、当然のように風呂はなく、また寝床も屋根がない野宿なので特に冬場などは過酷であったろう。

 戦場での娯楽となると「飲む、打つ、買う」。ばくちで負けて身ぐるみはがれて、竹槍一本で戦う兵士などもいたとか。また戦場は女人禁制だが、後方には女郎小屋なんかも来ていたりするので、金がある者はそういうところに行く(どこの軍隊でもある悪しき伝統である)。なおそういう金がない者はいわゆる春画を持参している場合が多かったとか。このような春画は勝絵と言われて縁起物でもあったという。この時代から3Dでなくて2Dに走る奴もいたということか? これも日本の伝統だな(笑)。

 戦場での怪我の治療となると、ある程度以上の者なら陣僧と呼ばれる医術を心得た僧侶の治療を受けられたが、末端の兵士は自助努力。雑兵物語には出血の多い者には馬の糞尿を飲ませろとか、傷口には焼酎か尿をかけろとかいう壮絶な治療法が記述されているとのこと。

 戦が終わって論功行賞となるが、ここでものを言うのは取った首。また一番槍や一番首なども高く評価されたという。また取った首を少しでも価値の高い首に見せるために化粧をさせたりお歯黒を塗るなんてこともされたとか(こういう化粧をしているのは上級武士であるという証明になる)。これらの首は首実検にさらされることになるが、大将は首をまともには見ないという決まりもあったらしく、これはいわゆる祟りよけとのこと。こうして首実検された首は後で祀られることになる(だから各地に首塚なるものがあるのだが)。

 

合戦に巻き込まれた農民たちの命がけの行動

 合戦に巻き込まれる農民たちも大変である。田んぼが踏み荒らされる上に下手をすると自らの身も危うくなる。関ヶ原の合戦では地域の農民は山に潜んで合戦の状況を観察していたのだが、合戦が終わっても村に戻ってこないということが起こって問題となったという。それは下っ端の兵たちは恩賞の代わりに略奪が許されているので、うかつに戻ると危なかったからだという。これを防ぐには有力な寺社や大名などに略奪を禁ずる禁制を出してもらう必要があるのだが、それには相応の金が必要であり、この時の関ヶ原の農民にはそんな金はなかった。そこで関ヶ原の農民は大津城の家康のところまで出向いて命がけの直訴をしたのだという。農民が大名に直訴というのは前代未聞でその場で処刑されることもあり得たのだが、家康は農民の訴えを聞き入れて直ちに禁制を発行して、関ヶ原に農民たちが戻ってきたとのこと。いつの世も戦になると一番大変なのは普通の人々という話。

 

 以上、戦国時代の合戦事情。戦国時代の合戦というと、トップの戦国大名だけに脚光が浴びせられるが実際に血を流して戦っていたのは下々の雑兵というわけなので、彼らのことを忘れては歴史の本質は見えない。単に大名が「命を懸けて戦え」と号令だけをかけても生活のかかっている彼らは簡単に命を捨てるわけもなく、当然ながら命を懸ける価値のある恩賞を用意する必要があるという極めて現実的な話である。これを用意せずに兵に命がけをさせようと思うと、戦前の日本(現在の北朝鮮)のように民衆を完全洗脳するかぐらいです。そういう意味でこの時代の戦いは、兵の命を消耗品としてしか考えていなかった第二次大戦なんかと違って、かなり「現実的な」戦い方をしているということ。国力を越えた戦いはしないし、ヤバくなるとさっさと逃げ出す。上から下まで「命あっての物種」ってことです。

 

忙しい方のための今回の要点

・戦国時代の合戦は、軍評定から始まり、占いなど合戦に至るまでの段取りがあった。
・兵の割り当ては家臣には知行高に応じて人数が決められており、雑兵は村ごとに農民が駆り出された。彼らの装備は自前だったために負担も大きかった。
・野戦においては弓(鉄砲)→長槍→白兵戦の順で戦われ、武器としての比重は飛び道具が一番高かった。
・籠城戦では攻める側はもぐら攻め、兵糧攻めなど各種戦術を繰り出したが、一方の守る側も奇策で対応。雌馬を敵陣に放って雄馬たちを発情させて混乱させるなどという戦術まで駆使されている。
・戦場での雑兵たちの娯楽は「飲む・打つ・買う」。勝絵と言って春画を持参している兵も多かったという。
・論功行賞では取った首を価値のあるものに見せるために、化粧やお歯黒を施すということまでなされた。
・関ヶ原の合戦では周辺の農民が雑兵による略奪を防ぐために、家康に直訴して禁制を発効してもらったということも起こっている。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・この時代の戦いは農民兵が多かったので、農繁期には戦えないという制約もありました。だから上杉謙信なんかも小田原城を包囲したものの稲刈りシーズンになると撤兵しざるを得なくなり、北条氏に勝利することが出来なかった。小田原城はこれを考えて鉄壁の城にしてあります。しかし秀吉は小田原城を何年でも囲めるという姿勢で包囲した。こういう点では秀吉というのは戦の常識を変えた人でもあります。秀吉の以降の戦は戦力と言うよりも経済力で戦うという側面が強くなった。また金さえあれば兵はいくらでも集められたということです。金で集めた兵なんて忠誠心を期待できないという話もありますが、そもそも動員した兵の忠誠心なんて傭兵と変わりませんから。「お国を守るために」とか「○○のために」なんてお題目だと誰も動かないのがこの時代です。

 

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