教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/21 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「百人一首ミステリー 藤原定家からの挑戦状」

 藤原定家が選んだという百人一首だが、実はいつできたのか、何のために、どんな基準で選んだのかなど不明な点が多いという。

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藤原定家

 

百人一首は蓮生法師の依頼で選考された

 藤原定家が記した日記・明月記によると、定家の姻戚で歌仲間でもある蓮生法師から、山荘の襖障子に和歌の色紙を張りたいので良い歌を選択してくれと頼まれたことが百人一首選択の理由だという。なおこの頃には百人一首という名はついておらず、これは後に室町時代になってそう呼ばれるようになった記録が残っているという。

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蓮生法師

 

読み手を重視して選択された百人一首

 定家は百首を勅撰和歌集などから選んでいるので、選りすぐりの作品が選ばれている・・・と思うところなのだが、実のところは歌人としては決して評価が高くはない人物の歌も選ばれているという。百人一首には持統天皇の歌も選ばれているのだが、そもそも持統天皇は歌人としての評価は全くないという。このことから定家は歌の内容よりも誰が読んだかということを重視して選択したと考えられるという。

悲劇に遭った人を選んだ

 ではその選択の基準であるが、従来の説では天智天皇、持統天皇から始まり、平安の終わりを告げる後鳥羽上皇、順徳天皇の歌まで続いていることで、平安300年の歴史を描こうとしているというものがあったという。しかし百人一首を研究している草野隆氏が唱える説は「悲劇に見舞われた人や不幸な人生を送った人を選んだ」というものである。

 その理由はまず三条上皇。三条上皇は25年もの皇太子時代を経て即位するが、藤原道長の意向で譲位を迫られわずか5年で退位することになったという。そして何らの実権も得られないまま42才で崩御している不遇の人物である。その彼の歌が「心にもあらでうき世にながらえば、恋しかるべき夜半の月かな」というもので、そういう境遇を聞くとどことなくもの悲しい歌である。

 さらには保元の乱の結果流罪となった崇徳上皇、また菅原道真といった三大怨霊の内の2人を網羅している。その上に暗殺された源実朝と不幸な人物の目白押しである。このような人物に対する鎮魂の意味があるのではというのが草野氏の説である。そしてそれは依頼主である蓮生の意向だったというのである。

 蓮生はそもそもは宇都宮頼綱という豪族で鎌倉幕府の有力御家人であったが、北条時政の後妻の牧の方による実朝暗殺未遂事件への関与を疑われ、容疑を晴らすために一族郎党60人と共に出家して、浄土宗の僧侶となったという経緯があるのだという。蓮生は無念な人生を送った人々を追善供養するという目的で選択したのではというのである。

 

100首である理由

 ではなぜ100首なのかだが、これは藤原定家の人生が影響しているという。定家はそもそもは藤原道長の直系だったのだが、祖父が亡くなって父が他家に養子に出されたことから没落してしまったのだという。そんな定家の和歌の才能を見出して引き立てたのが後鳥羽上皇で、定家は勅撰和歌集の選考なんかに関与するようになったという。しかしやがて二人は和歌に対する価値観の違いなどから衝突、後鳥羽上皇の逆鱗に触れた定家を出仕を禁じられる。しかしその一年後に後鳥羽上皇が承久の乱を起こして隠岐に流されたのだという。後鳥羽上皇の側近も続々処罰される中、定家は後鳥羽上皇と袂を別っていたことで処罰を免れるどころか、逆に出世して勅撰和歌集の選考を任される立場にまでなったのだという。しかし定家は自分を引き立ててくれた後鳥羽上皇の恩を忘れていなかったので、この勅撰和歌集に後鳥羽上皇の歌を入れようとしたのだが、幕府に反旗を翻した人物の歌を入れるのは好ましくないと圧力がかかって断念したのだとのこと。その直後に蓮生からの依頼が来たので、こちらに後鳥羽上皇の歌を入れることを考えという。そしてその時に後鳥羽上皇が隠岐で編纂した「時代不動歌合」という100人の歌人の歌を3首ずつ選んだ歌集に刺激されて、100人の歌を選択すると言うことを思いついたのだという。そしてその中に後鳥羽上皇の歌を入れた・・・と考えられていたのだが、新発見でそれが覆ったとのこと(ややこしすぎる話だ)。

 

後鳥羽上皇に関する紆余曲折

 その新発見とは宮内庁で発見された「百人秀歌」という定家の百人一首の元ネタと思われる本。何とここに後鳥羽上皇の歌が入っていなかったことから話がややこしくなった。ではなぜ入っていないかだが、従来は鎌倉幕府の御家人だった蓮生に気を使ったのでという説だったのだが、草野氏の説では「蓮生は不幸な人生を送った人物の追悼という主旨だったので、まだ存命の後鳥羽上皇は加えなかった」というものである。では最終的に後鳥羽上皇が加わった経緯だが、これはその後に後鳥羽上皇の今日に帰りたいという嘆願が鎌倉幕府に拒絶されたことで後鳥羽上皇は隠岐で一生を終えることが確定してしまい、これは「不幸な人生を送ることが決定した人物」と判断しても良いのではないかと蓮生が考えたからだとしている。こうして後鳥羽上皇の「人をもし人もうらめしあぢきなく、世を思ふゆえに物思ふ身は」というどことなくもの悲しい歌が選ばれることになったのだという。

百人一首を改訂した人物

 ただ最後の問題として、百人一首に後鳥羽院と記載されていることがあるという。実は後鳥羽院というのは亡くなって送られる諡号であって、それが与えられたのは定家がなくなった後だという。つまりは定家が後鳥羽院と記載することはあり得ないのだという。となると百人一首が誰かによって改訂されたと言うことになるが、それは定家の息子の為家ではとのこと。為家はその時に順番なども変更したのでとのこと。


 以上、百人一首についてだが、定家からの挑戦状と銘打っているが、定家は何も挑戦状なんて出してないじゃんとツッコミを入れたくなるところである。それはともかくとして、百人秀歌の下りは話がややこしすぎてどうも腑に落ちない。これって、実は定家は最初から後鳥羽上皇を入れる気なんてなかったって可能性はないのか? 定家が後鳥羽上皇に強い恩義を感じ続けていたという証明は何か他の資料からもあるのだろうか? そこのところが怪しくなると、定家が「時代不動歌合」に刺激された100首を選ぶことにしたという下りも怪しくなってくるのだが・・・。

 

忙しい方のための今回の要点

・百人一首は定家が蓮生法師の依頼で100首の歌を選択した物である。
・定家は明らかに誰が読んだかを重視して選択しており、その選択の基準は従来は平安300年の歴史を語る人物を選んだという説が唱えられていた。
・しかし百人一首を研究している草野隆氏は「不幸な生涯を送った人物を追悼のために選んだのでは」という説を唱えている。この選択は浄土宗に帰依していた蓮生による追善供養の意味があったのではとしている。
・定家は後鳥羽上皇に恩義があったが、この時点で後鳥羽上皇はまだ存命だったために追悼という意味でははずしたが、その後に後鳥羽上皇の今日への復帰が拒絶されたことから、不幸な人生が確定した人物として加えても良いのではとの蓮生からの提案で後鳥羽上皇を加えたと草野氏は考えている。
・なお後鳥羽院という名は定家の死後に決まった諡号であり、詠み人を後鳥羽院という名に改めたのは定家の息子の為家であると推測される。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・百人一首は私も中学生の頃に暗記しましたので、今でも結構な歌を覚えていますが、意味の方はまともに勉強していないので意味を考えずに音だけを覚えてました。よくよく考えると、そろそろそれらの意味を勉強した方が良さそうです。正直なところ「ちはやふる」なんて落語の方の意味(竜田川という相撲取りが千早と神代という芸者に振られたと言う話)しか知りませんから(笑)。

 

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