教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

10/28 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「天下人が恐れた海の軍団 村上海賊」

 戦国時代、瀬戸内海に独自の勢力を張った村上水軍。その村上水軍の盛衰を紹介するのが今回の内容。

「海の桶狭間」で瀬戸内の覇者へ

 村上水軍が天下に躍り出たのは毛利元就と陶晴賢が戦った厳島の戦いである。陶軍は厳島に上陸して毛利方の城を攻めたのだが、その時に毛利に味方した村上水軍が陶の水軍に奇襲をかけて壊滅させ、厳島に孤立した陶晴賢は討ち取られてしまう。鮮やかな奇襲攻撃の成功から、この戦いは海の桶狭間とも言われるという。

 村上水軍の戦力は全長20メートルの安宅船に、全長5メートルほどで機動力に富む小早船。さらに15メートルほどの関船と呼ばれる船団だった。村上水軍はこれらの船団を駆使して、潮流が複雑な瀬戸内海で船を自由に操って戦っていた。

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村上水軍の船(出典:因島水軍まつりHP)

 

能島村上氏の当主・村上武吉

 村上水軍は因島村上氏、能島村上氏、来島村上氏の三家が存在したが、これらが協力して瀬戸内海の覇権を握っていた。この中で能島村上氏の当主・村上武吉は恐れられる存在であった。

 瀬戸内海の要衝にある小島である能島に難攻不落の要塞を築いた村上武吉は、船に対する略奪行為を禁じ、船から通行料である帆別銭を徴収することにした。また上乗りといって水軍の者を船に乗せて警護料を徴収した。これによって村上武吉は大名の石高に匹敵する経済力を手にすることが出来た。

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能島城

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周囲は断崖である

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小さな島だが全島が要塞化している

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山上には多数の曲輪が

 

織田水軍を壊滅させた第一次木津川口の戦い

 そして村上水軍が織田信長と激突する。織田軍に包囲されて兵糧攻めを仕掛けられた石山本願寺に対し、毛利輝元が援軍を送ることにする。その時に兵糧を運び込む船の警護を村上水軍に依頼したのだった。村上武吉の嫡男・元吉が率いる船団は毛利水軍を含めて800艘。これが木津川口を守る織田水軍200艘と正面から衝突する。第一次木津川口の戦いである。この海戦で村上水軍は、まず射手船が接近して火矢や鉄砲で敵船を攻撃、混乱したところにほうろく船が接近してほうろく玉という爆弾を投げ込んで敵船を炎上させる。さらにそこに兵士を乗せた武者船が横付けして白兵戦を行うという組織だった戦闘により、織田水軍を完膚なきまでに打ち破る

 

第二次木津川口の戦いで信長の鉄甲船に敗れ去る

 しかし2年後、再び信長が本願寺に兵糧攻めを仕掛ける。これに対し、今回は村上武吉が自ら600艘を率いて援軍に出たのだが、その前に立ちはだかったのが信長が作らせた6隻の鉄甲船だった。鉄板を貼った鉄甲船にはほうろく玉が通用しない。しかも村上水軍の船が接近したところで、鉄甲船に搭載していた大砲が火を吹く。村上水軍は大きな被害を受けて撤退を余儀なくされる。この第二次木津川口の合戦の敗北で、石山本願寺は織田信長に明け渡されることになる。

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 さらに毛利攻めを進める信長は村上武吉に対し「望みは何でも聞く」と懐柔を試みてくる。信長は毛利攻めを担当している秀吉に村上水軍の調略を命じ、秀吉は「味方につけば四国を丸ごと与えても良い」と勧誘すると共に、村上家の分断工作も実行、これによって来島村上氏が織田方に寝返ってしまう

秀吉による村上水軍弾圧

 村上水軍を分断して弱体化に成功した信長だが、その直後に本能寺の変で倒れることとなる。一息ついた村上武吉だが、今度は信長に代わって天下人となった秀吉が立ちふさがることになる。中国、四国、九州を支配下に置いた秀吉は、「海の刀狩り」とも言われる海賊停止令を発して一切の海賊行為を禁ずる。これで村上武吉は財源を失うことになってしまう。さらに能島水軍が海賊行為を働いたとして村上武吉は瀬戸内海からの追放を命じられ、武吉は一族郎党を引き連れて筑前の糸島に移ることになる。

 

再起を期した海の関ヶ原の結末

 しかし間もなく秀吉がこの世を去り、村上武吉は再び毛利の元に戻って所領2万石が安堵され、竹原鎮海山城に拠点を置くことになる。そして関ヶ原の合戦が勃発。武吉は毛利輝元から瀬戸内海沿岸の東軍諸将の城を攻略することを命じられ、蜂須賀氏の猪山城を攻略の後に、加藤氏の松前城に押し寄せて降伏を迫る。しかしこの時には既に関ヶ原の勝敗が決していたことを武吉は知らなかった。松前城の留守居役は開城を受け入れ、一旦兵を引いた武吉は近くの民家に陣を張って、その夜に勝利の宴会を開いていたのだが、そこを兵を整えた加藤氏の軍勢に急襲される。この戦いで武吉は嫡男の元吉を失い撤退を余儀なくされる。そこでさらに西軍の敗北を知ることになるのである。

 武吉はその後、周防の屋代島に移るが、2万石の石高は1500石にまで減らされる。そして多くの家臣らが武吉の元を離れていく中、72才で波乱の生涯を終えることになる。


 以上が瀬戸内海を支配した村上水軍の当主・村上武吉の物語である。陸の権力とは一線を画した海の権力も、周囲の陸がすべて押さえられてしまうと、その権力に従わざるを得なくなってしまったということである。瀬戸内水運の権益をも一手に支配しようとした秀吉にとって、当然のように村上水軍はつぶすべき相手であって、徹底的に弾圧されたのも当然のところ。所詮は海賊のロマンなどは地上の絶対権力には勝てないと言うことでもある。

 

忙しい方のための今回の要点

・村上水軍は毛利に味方して参戦した厳島の合戦の勝利で一躍瀬戸内海の覇者に躍り出る。なおこの戦いは鮮やかな奇襲により海の桶狭間とも言われている。
・能島村上氏の当主・村上武吉は船から徴収する通行料や警護料により、大名に匹敵する財力を誇っていた。
・村上水軍は石山本願寺を支援した第一次木津川口の戦いで織田水軍を完膚なきまでに撃破するが、第二次木津川口の合戦では信長が新造した鉄甲船の前に敗北する。
・毛利攻略を目指す信長は村上水軍の取り込みを図る。武吉はそれを拒絶するが、来島村上氏は織田方に寝返る。
・秀吉は中国、四国、九州を支配した後、海賊停止令を発して村上水軍の海賊行為を禁じると共に、村上武吉を瀬戸内海から追放する。
・秀吉の死後、再び毛利の元に復帰した村上武吉は関ヶ原の合戦に乗じて東軍諸将の城を攻略するが、西軍の敗北によって石高を大きく減らすこととなり、そのまま72才でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・能島周辺は非常に潮流が激しく、まさに渦を巻いていたりします。ちなみに私の訪問した頃には能島に上陸する観光船は花見シーズンしか運航されておらず、まさに幻の名城だったのですが、現在は続100名城にも選定されたためか、水軍博物館のところから潮流体験の観光船が出ているとのことです(番組取材班が乗っていた船はそれのようだ)。また土・日・祝には上陸クルーズも行われているようです。

 

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