教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

11/13 NHK 歴史秘話ヒストリア「網走監獄 最果ての苦闘」

 日本最北の網走監獄は一度入ったら二度と出られないと言われた監獄で、多くの作品にも登場している(予想通り高倉健登場)。現在は博物館となって公開されているが、この網走監獄が今回のテーマ。

囚人を動員しての過酷な道路建設

 網走監獄の囚人は地形を覚えさせないように編み笠を被せて連れられてきた上に、足には5キロのおもりを付けられていたという。

 明治23年、重罪の者を収容するために作られたのが網走監獄である。初代責任者は警察官出身の有馬四郎助で、国のために役に立ちたいと自ら志願しての就任だった。その有馬に対して明治政府から囚人を使って旭川から網走を結ぶ道路の建設が命じられる。有馬は3年はかかると見積もられていた工事を8ヶ月で終えるように迫られていた

 そこで彼は総勢1115人の囚人を道路建設に駆り出す。囚人の脱走を防ぐために2人ずつを鎖でつないで工事をさせることにする。そして機械もない状態で人力だけで幅6メートルの道路を建築する作業に従事させる。1日15時間もの強制的な労働に脱走する囚人もいたが、囚人服は森の中でも目立つようにオレンジ色をしていた。さらに工事現場に移動式の小屋を建てて、囚人をそこで寝泊まりさせて工事に従事させることにする。有馬は鬼と言われることになる。

 政府が道路建設を急がせたのはロシアに対抗するために北海道に屯田兵を派遣するための道路が必要だったのだ。道路は8ヶ月で完成するが、囚人211人が命を落とす(滅茶苦茶な話である)。今でもその道路は使用されている。

 ハッキリ言って、この時代の日本が囚人をどう扱っているかを端的に示している例ではあります。扱いとしては完全に牛馬以下ですね。どうせ重罪で処罰されている人間なので、もし死んでも国の負担が減るというようなことまで指令書には書いてあった模様。まあ人権なんて概念はありませんでしたから、この時代の日本には。しかしこんなひどいことをやったという内容、有馬四郎助の親族とかからはクレームはないのでしょうか?

 

網走監獄から脱獄した昭和の脱獄王

 脱走は不可能と言われていた網走監獄だが、それでも脱走はあったという。囚人14人が看守を襲ってその服を奪い逃走するという事件もあったそうだが、時期が冬だったせいで結局は半数が凍死するということになったという。

 そしてこの監獄に送られた脱獄王もいた。白鳥由栄。青森出身で蟹工船で働いていたが、その時に賭博を覚えて金に困り、強盗殺人で捕まった男である。しかしその後何度も脱獄を繰り返し、網走監獄に送られてきたのである。彼は特製の手錠をかけられて牢に放り込まれる。人間を人間とも思わない扱いに彼は脱獄を決意して策を巡らす。

 彼は連日扉の鉄格子に味噌汁を吹きかけて錆びさせ、さらには手錠は1年間何度も噛みついて前歯を2本折りつつもついに手錠をはずす。そして錆びた鉄格子をはずして、その穴から外に抜け出す(その際に自ら肩の関節をはずすということまでしたらしい)。そして天井のネット入りのガラス窓を頭で叩き割って逃げ出したのだという。

 その後の彼は、戦後になってから警官からタバコを与えられたことがきっかけとなって自ら自首したという。戦後になって刑務所は重罪人に処罰を与える場所から、犯罪者の更生を図る施設に変わっており、刑務所で人間的な扱いを受けたことから模範囚として刑期を終えたとのこと。

 ちなみに彼の脱獄エピソードは非常に有名で、この味噌汁を吹きかけて鉄格子を錆びさせるという方法は、「アルスラーン戦記」でアンドラゴラス王が地下牢から脱出する方法の元ネタであろうと思われる。

 

囚人達の更正に尽力した僧侶

 網走監獄では皇族の死去に伴う恩赦によって監獄から釈放された囚人達によるトラブルが発生していた。この囚人達を引き取ったのが寺永法専。網走の寺の住職だった。彼は囚人達に食事を振る舞って寝場所を与えた。彼がこのような行為を行ったのは親鸞の影響であるという(そもそも親鸞は悪人正機説を唱えた人物でもある)。そして寺永は彼らが社会に復帰できるように仕事先の手配にも奔走した。なかなか理解を得ることは難しかったのであるが、何かあれば自ら駆けつけると約束して主人達の仕事先を見つける。トラブルが起こる度に寺永は走り回ったという。そんな寺永の血道な活動のおかげで段々と囚人達の働き口も確保されていく。そして10年後、明治天皇が亡くなったことに伴う恩赦の際、かつてない人数の囚人が釈放されると言うことで街の人々が相談に来る。その時に寺永は囚人達を迎え入れるように街の人々に頼む。街の人々もそれに同意して囚人達は網走の町で開拓などに働くことになった。この時に囚人達が開拓した畑は現在も残っているという。

 

 網走監獄の歴史と共に、刑務所が囚人に罰を与える場から更正施設に変化していく歴史を描いた内容です。ただこの時代のように「貧しいから犯罪を犯した」というタイプの犯罪者は生活基盤さえ整えば更正が可能なのですが、現在のように「人を殺したくて殺した」という類いの変質者や、京アニの青葉真司のような一方的な逆恨みで人を殺すような異常者は、この方法では更正は無理です。根本的なところで壊れてしまっているので、それこそ脳手術か何かで正常化する方法でも開発されない限りは更正は不可能でしょう。結局はこういう連中は、社会全体のことを考えると死刑にするしか方法はないということになってしまいます。

 

忙しい方のための今回の要点

・網走に明治23年に重罪の犯罪者を収容するために監獄が設置される。
・囚人を使って8ヶ月で道路を建設するように命じられた初代責任者の有馬四郎助は、囚人を工事現場で泊まり込みさせ、1日15時間の重労働の結果道路建設に成功するが、囚人の2割は死亡する。
・脱獄不可能と言われる網走監獄に送られた白鳥由栄は、鉄格子を味噌汁をかけて腐食させ、手錠は歯でかみ切るという方法で脱獄を果たす。彼は戦後に自ら自首して、更正施設と変化した刑務所で模範囚として刑期を終える。
・恩赦で町に出てきた囚人達を引き取って更正に尽力したのが住職の寺永法専。彼の行動は最初は街の人々にもなかなか理解されなかったが、彼の努力の結果、やがて人々の同意を得られるようになり、明治天皇崩御に纏わる恩赦の際には囚人達は開墾作業に従事することとなった。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・犯罪者の更生というのは実は難しい問題です。実際のところ「こいつが本当に更正できるのか?」という思うような輩もいますし、「こんな奴は更正なんかどうでもいいから、さっさと殺してしまえ」と感じるような外道もいます。ましてや被害者の応報感情なんかもあります(現在の日本は加害者の人権は守られるのに、被害者の人権が守られないという妙に歪なところがあります)。そういう意味で私は死刑廃止論には反対の立場です。
・オウムの松本智津夫とか、京アニの青葉真司とか見えてると、こんな奴らが更正できるなんて思えないし、罪の大きさを考えるとさっさと殺すしかない(本音を言うと死刑でさえ生ぬるいと感じる)というのが本音。更正可能な犯罪者と更正不可能な犯罪者をどう分別するかというところが難しいところです。
・それにしても恩赦というのは独裁者の時代の非常に不合理な制度です。現代においては何の妥当性もないので運用するべきではないでしょう。それにも関わらず、今回も新天皇の即位に纏わって密かに恩赦がなされたようです。それも選挙違反とかの連中に対して。明らかに政権の都合が透けて見えます。

 

次回のヒストリア

tv.ksagi.work

前回のヒストリア

tv.ksagi.work