教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/18 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「戦国の女たち 山内一豊の妻・千代」

 戦国時代は女性にとっても大変な時代だったが、そんな中で良妻として知られるのが山内一豊の妻である千代。山内一豊が最終的に20万石の大名にまで出世できたのは、彼女の働きが大きいところとされ、司馬遼太郎は「功名が辻」で彼女のことを描いている。その千代とはどのような女性だったか。

 

千代と一豊のなれそめ

 千代は近江の浅井家の家臣の家に生まれ、幼名はまつといったという。戦で父を亡くした彼女は、一旦美濃に逃れるが、再び近江に戻ったところで山内一豊に出会ったのだという。

 山内一豊は、尾張北部を治める岩倉織田家の家老を務める山内盛豊の子として生まれる。しかし15才の時に尾張南部を支配していた織田信長に攻められ、主君と父を亡くして家臣と共に流浪の身となる。近江で土豪の山岡景隆に仕官することが出来たのだが、その山岡が信長に下ったことで、信長の家臣になったのだという。一豊にすると父と主君の敵の家臣になったわけだが、信長の家臣には既にかつての同僚も多く、実のところは大して抵抗はなかっただろうとの話である。

 一豊とまつを結びつけたのは一豊の母であるという。近隣の娘に裁縫を教えていた彼女は、10代ながらしっかりしているまつを「この娘なら一豊の妻に良い」と見込んだのだという。そして二人は結婚し、まつは千代と名乗ることになる。この時、一豊28才、千代16才だったという。なお千代は一豊に「必ずあなた様を近江の大名にしてみせます」と宣言したとのエピソードもあるといい、しっかり者というかかなりの野心家でもあるようだ。

 

千代の裁量で頭角を示した一豊

 ただ二人の生活はかなり苦しいものだったという。千代は節約を心がけていたという。その中であの有名な馬のエピソードがある。馬商人が連れてきた馬を一豊が気に入るのだが、黄金10枚(現在の金で百数十万円とのこと)と言われて諦める。しかしそれを聞いた千代が黄金10枚を一豊に渡してその馬を買わせたという話。当時は妻と夫はそれぞれ自分の財産を別々に持っており、千代が一豊に渡したのは嫁入りの時に持ってきた支度金だったのだろうとのこと。一豊はその馬で信長の馬揃えに参加し、信長の目にとまることになる。千代の計算通りに一豊の出世のきっかけとなるのである。

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高知城にある千代の像

 秀吉の配下となった一豊は、朝倉氏の重臣を討ち取るなど戦で活躍をして400石を与えられるが、まだまだ生活は苦しかったという。千代は髪を売ってまで生活を支えたとのこと。

 1580年に娘が生まれるが、一豊は戦場で連戦の日々を送っていた。しかしそこで活躍してついに長浜2万石の領主となる。千代が結婚時に言った「近江の大名にする」というのが実現したのである。また一豊は秀吉の信頼も厚く、秀吉の後継者であった秀次の宿老となっていた

 

二人を襲った悲劇

 しかしそんな二人を突然の悲劇が襲う。天正大地震で長浜は甚大な被害を受け、長浜城や屋敷が倒壊、6才だった娘が建物の下敷きとなって亡くなってしまう。将来は娘に婿をとって後継者にしようと考えていた一豊にとってもこれは痛手であった。しかしその悲しみを振り払うかのように、一豊は秀吉の下で仕事に励んでいた。一方千代は奥方のネットワークを通じて様々な情報を集めていたらしい(諜報のために忍者を雇っていたなんて真偽不明の話もあるそうだが)。こうした情報は一豊の出世に役立ったのは言うまでもない。

 子供を亡くした千代は城下で捨てられていた赤ん坊を拾って育てる。後継者のいない一豊はその子を養子にしようと考えるが、これには千代が反対したという。養子にしたらいずれは後継者にと考えるだろうが、元々素性の分からない子供なので、そのような者を後継者にしたら家臣が納得せずに家が乱れるというのである。千代はその子を出家させてしまったという。

 千代がここで養子に反対したのは秀次事件が関係しているという。秀吉が実子である(と秀吉は思っている)秀頼が生まれたことで、秀次が邪魔になってとうとう切腹させてしまったという事件である。千代はこのような問題に巻き込みたくないと考えたのだろうという。なおこの事件は明らかに秀吉が耄碌してきたことを示す事件であったのであるが、秀次についていた一豊もこの事件から秀吉と距離を取るようになり、やがては家康に接近することとなる。

 

関ヶ原での功績で高知20万石の大名に

 ついに秀吉が亡くなり関ヶ原の合戦が勃発、一豊は東軍についてその功績で高知20万石の大名となるのだが、実は一豊は戦場では家康の本陣の後に配置されていたので、ほとんど活躍らしい活躍はしていないという。ではなぜ一豊の功績がそんなに高く評価されたかであるが、これにも千代の働きがあるのだという。

 石田三成は大阪にいる大名の妻子を人質に取るが、千代はその時に三成から送られた書状と一豊に宛てた「私のことは気にせずに家康様のために働いてください」と書いた書状を共に文箱に入れて一豊に使者で送り、これをそのまま家康に渡すように伝えたのだという。家康はこれで大阪での動向が分かると共に、千代の覚悟を見て大いに感動したのであるという。家康はこの情報を使って、豊臣恩顧の大名たちの「三成憎し」の感情を煽り、また豊臣恩顧の大名の中で先陣を切って家康に付くことを表明したのが一豊であったのだという。つまりは豊臣恩顧の大名たちを味方につける際に千代と一豊が大きな功績があり、家康はそれを評価したのだという。

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高知城

 娘を亡くしてから二人は子に恵まれなかったので(一豊が忙しすぎたんだろ)、一豊の弟の長男の国松を後継者にしたという。二人が揃って家康に国松の正室を徳川家より迎えたいと願い出たところ、家康は弟の娘をわざわざ自分の養女にしてから国松に嫁がせたという。家康がどれだけ一豊を重視していたかを伝える話である。こうして山内家は幕末まで高知の大名としてこの地を治めることになる。


 現代でも妻の鑑のように言われる山内一豊の妻こと千代の話。確かに非常に聡明な女性であったのは間違いないようである。もし今の世にあれば、わざわざ夫を立てるなどと言う回りくどいことをせずに、自分自身がバリバリのキャリアウーマンとして大活躍したかもしれない。ちなみにあの時代にそれをしていたら、多分良妻としてではなくて悪女として歴史に名を残すことになってしまったでしょう。何だかんだ言っても昔は男尊女卑の時代ですから、出来すぎる女性は男社会目線で悪女と言うことになってしまいます。中国の則天武后なんかも多分にそれがあったようです。

 

忙しい方のための今回の要点

・山内一豊の妻である千代は、一豊と結婚した際「必ずあなた様を近江の大名にしてみせます」と宣言したという。
・有名な名馬を購入したエピソードに登場する千代が持っていた金は、彼女が支度金として持参していたものか考えられる。
・一豊はこの名馬をきっかけにして信長の目にとまり、その後順調に出世を重ねて長浜2万石の大名となり、千代は目標を果たしたことになる。
・その後、二人は娘を地震で失うなどの不幸に見舞われる。また一豊は使えていた秀次が秀吉に切腹されられたのをきっかけに秀吉と距離を置き、次第に家康に近づくようになる。
・関ヶ原の合戦時、千代は大阪の動向を家康に伝え、一豊は豊臣恩顧の大名の中で先頭を切って家康に付くことを表明するなどで家康に有利に流れを作った。この行為が高く評価され、一豊は高知20万石の大名に取り立てられる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・馬一頭百数十万円って、やっぱりこの時代の馬って、今の車の感覚そのまんまなんだなと妙なところで納得してしまった(笑)。
・もっとも百数十万円の車だったら、まあ普通の車で上司が驚くような車じゃないな。貨幣価値は計算方法で変わるのだが、実際の感覚はもっと高かったかも。ポルシェを買ってレースに出たぐらいの感覚だったかもしれない(笑)。
・山内一豊はなかなか上手に世の中を渡ったわけだが、そこにこそ千代の入れ知恵が一番あったかも。

 

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