教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/25 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「なるほど!南北朝時代 勝者は南朝か?北朝か?」

 南北二つの朝廷が並び立ったという、日本史の中でも特にグダグダだった時代が南北朝時代。いかにして朝廷分裂などということが起こり、それがどうやって終息したのかを紹介。

鎌倉幕府打倒を果たした後醍醐天皇

 南北朝分裂のきっかけとなったのは後醍醐天皇の建武の新政である。天皇に権力を取り戻したいと考えていた後醍醐天皇は、鎌倉幕府に対して反旗を翻す。そもそも後醍醐天皇が倒幕を考えたのは、自分の息子に天皇位を継がせたいという意志があったからだという。この時の朝廷は鎌倉幕府の調停によって持明院統と大覚寺統が交互に皇位に就くことに決まっていたので、大覚寺統の後醍醐天皇の次の天皇は持明院統から出る決まりになっていたわけである。そこで後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒してこの決まりを撤廃したかったのだという。

 しかしこの計画は事前に漏れて後醍醐天皇は隠岐に流されてしまう。だがその8ヶ月後に後醍醐天皇の息子の護良親王が吉野で倒幕の兵を挙げると、これに各地の武士が呼応する。権力を独占していた北条氏に対する不満が各地で高まっていたのである。そして後醍醐天皇も隠岐から脱出して挙兵する。これの討伐に幕府が派遣したのが足利尊氏だったのだが、尊氏が幕府方の形勢不利と見て寝返ってしまう。さらに新田義貞なども寝返ったことで鎌倉幕府は滅んでしまう。

 

建武の新政の失敗が南北朝成立の原因に

 こうして念願の権力を掌握した後醍醐天皇だが、独裁色が強い上に貴族を重視して武士を軽視したことから世の中は大混乱し、武士たちの不満が高まることになる。そしてついに鎌倉幕府の残党が鎌倉を占拠する事件が起こる。足利尊氏は鎮圧のために征夷大将軍に任じて鎌倉に派遣されることを願うが、征夷大将軍などは作りたくない後醍醐天皇はこれを認めない。しかし足利尊氏は勝手に鎌倉に向かって反乱分子を鎮圧する。尊氏は先に辺りを鎮圧してから後醍醐天皇に事後承諾をもらうつもりだったようだが、これに対して後醍醐天皇は反乱と受け取って新田義貞を討伐に派遣する。尊氏は新田義貞の軍勢を破って京都に攻め上るが、そこで北畠顕家に敗北して九州に敗走する。しかしそこで味方を増やして体制を立て直し、再び京に上る。そして湊川で新田義貞の軍勢に勝利(この戦いで楠木正成が戦死している)する。しかし京に逃げ戻った新田義貞は後醍醐天皇と共に比叡山に立て籠もる

 京に入った尊氏は持明院統の光明天皇を擁立、後醍醐天皇に対して次の天皇を大覚寺統から立てるという条件で和睦を図る。後醍醐天皇はこれに応じて三種の神器を光明天皇側に引き渡すが、2ヶ月後に京を脱出して吉野に着くと、引き渡した三種の神器は偽物であり、本物は自分が持っていると宣言する(つまりは自分が正当な天皇だと宣言したわけである)。そして自らの朝廷を設立、これが南朝である。

 後醍醐天皇は京を取り戻すべく軍事行動を開始するが、北畠頼家、新田義貞が相次いで敗死してしまう。また地方の南朝勢力に皇子を送り込んだりもしたが、これも失敗。結局は軍事的には劣勢に追い込まれてしまう。後醍醐天皇は皇太子の義良親王を皇位に就けた1ヶ月後に失意の内にこの世を去る。死ぬまで幕府打倒に執念を燃やしていたという。

 

観応の擾乱での幕府の混乱

 これで北朝側が圧倒的に有利になったのだが、ここで幕府の中でゴタゴタが起こる。幕府で分担して政務を司っていた尊氏と弟の直義の間がおかしくなるのである。

 九州で南朝方の挙兵があり、尊氏はこれを高師直に攻めさせる。見事にこれを鎮圧した師直はその勢いを駆って、南朝の吉野まで攻め入って皇居や公家の邸宅や寺社まで焼き払う。しかし師直のこの行為に直義が憤る。しかし師直はこの功績で影響力が強くなり、直義の不満はさらに高まっていく。そしてとうとう直義が師直を討つべく兵を挙げる。これが観応の擾乱である。

 しかもこの時に直義は南朝に降伏するという手を取る。南朝方を味方につけることを考えたのである。これは結果として南朝を復活させることになる。直義は師直を守る尊氏の軍勢に勝利、尊氏と和睦した後に師直に刺客を差し向けて殺害したという。直義は尊氏の嫡男の義詮の補佐役として要職に復帰する。こうして表面上は一旦は事は収まる。だがこの間に幕府内では尊氏派と直義派の対立が深まっていった。そして直義と義詮の関係も上手くいかず直義は孤立、政務からの引退を宣言して北陸に逃亡してしまう。

 この頃九州では南朝方が勢力を拡大していた。これに対して尊氏は驚いた手をうつ。何と尊氏が南朝方に降伏したのである。これはこうすることによって南朝に付いていた直義との関係修復を図るという考えもあったのではという。この時に北朝の天皇を廃止して、北朝が持つ三種の神器も南朝方に引き渡すということになっていたという。これを正平の一統といって、一旦南北朝の分裂は解消することになる。

 しかしこの後、尊氏軍を直義軍を破って直義を捕らえた直後に直義は謎の死を遂げ(普通に考えれば処刑されたか、自害したかであろう)、尊氏が京を離れた隙に南朝方が義詮を追放して京を占拠するという事態が発生する。京は間もなく幕府に奪還されるが、南朝方は三種の神器を持ち去ると共に、北朝の上皇や皇太子らが連れ去られてしまう。この事態に義詮は三種の神器のないまま、光厳上皇の第二皇子を後光厳天皇として即位させる。正平の一統は南朝方の和睦破りで反古となってしまうのである。結局は南北朝問題は解決しないまま尊氏はこの世を去る。

 

動乱の中での庶民の暮らし

 このように世の中が乱れる間に庶民はどう暮らしていたかだが、困難な時代を乗り切るために町民や村民は結束する方向に向かっていたという。京の町民が祇園祭を大々的に行うようになったのはこの頃であるし、農村では惣を結成して領主と年貢の交渉をするといった動きも出ていたという。社会の形態が変化し始めていたのである。

ようやく南北朝の統一へ

 二代目将軍の義詮は南朝討伐のために何度か軍勢を送っている。そんな中、南朝の後村上天皇は幕府と和睦を図るが、その内容に義詮が激怒、結局ここでの和睦は頓挫する。その一年後、義詮はこの世を去り義満が将軍に就任する。しかし今度は和睦派の後村上天皇が亡くなり、和睦反対の長慶天皇が後を継いだことで和睦の話はしばらく上がらなくなってしまう。しかし南北朝分裂47年後、長慶天皇が譲位して和睦派の後亀山天皇が即位したことで事態が動き始める。この頃には南朝にはもう既に軍事的能力がなくなっていたこともあり、義満の和睦の申し出に後村上天皇が応える。この時の和睦の条件は両統迭立を復活させることだったらしいが、結果としてその後も北朝方が皇位を譲らなかったために、南朝方はダマされた形になるが、これはそもそも北朝はこの交渉の蚊帳の外であり、条件を後から聞かされていたので守る気にならなかったのだろうとのこと。

 結局はこのグダグダで南朝は権力を失うことになり、北朝も幕府の影響下でしか存在できない状態になってしまったので、結果としては室町幕府が勝利したという形になるというのがこの番組の結論。


 日本史でもわかりにくさでは有数といわれる南北朝のゴタゴタの経緯についてでした。実際のところ学校の授業などでも、後醍醐天皇の建武の新政がずっこけて南北朝時代が始まりました。足利義満がそれを統一しました。という話ぐらいしか出てこないように思う。とにかく複雑かつ分かりにくい時代である。しかし事の経緯を見ていると、そもそもの元凶は足利尊氏の優柔不断さにあるような気がしてならない。すべての局面において尊氏は果断な行動をとらずにグダグダと逡巡していることが多く、それが結果としてことごとく事態を複雑にしてしまった感がある。尊氏に付いていた武士たちも「あんた、どっちに付きたいねん!」と思わずツッコミを入れたくなったことは何度もあるのではと思われる(笑)。この尊氏のグダグダのせいで、天皇に付くと最後まで一貫していた楠木正成の分かりやすさが後に評価されることになったのではという気もする。

 

忙しい方のための今回の要点

・南北朝時代は共に鎌倉幕府を倒幕した後醍醐天皇と足利尊氏が対立し、後醍醐天皇が吉野に逃亡したことから始まった。
・南朝方は武力的に劣勢となり、北朝が優位になるが、幕府が尊氏と弟の直義が対立した観応の擾乱で混乱したことで、結果として南朝が生き残ることになる。
・観応の擾乱の際に尊氏が南朝に降り、南北朝が統一される正平の一統があったが、南朝方が和睦破りをしたことで反古になり、尊氏の存命中にはこの問題は解決しなかった。
・その後もグダグダは続いたが、南朝方は軍事的実力を失ってしまい、幕府の足利義満が和睦を持ちかけた時に南朝の後亀山天皇がこれに応じ、南北朝の統一がなる。
・しかしその後、南朝方に天皇位が渡ることはなく、結局は南朝は権力を失うことになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・観応の擾乱の件は以前にヒストリアでも扱ってましたが、やっぱり知れば知るほどグダグダっぷりが半端ない。何でこんなに面倒臭くてややこしいことになるのかと言いたくなるぐらい。
・この番組では大分状況を整理して分かりやすく説明してくれていたのだが、それでもまだよく分からない部分はある(笑)。とにかく後醍醐天皇の執念だけはよく分かったが(笑)。優柔不断のグダグダな人物が多い中で、彼と楠木正成ぐらいしか一貫している人物はいない。

 

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