宇宙飛行の野口聡一氏も宇宙に持っていったという「風姿花伝」。それを記したのは能を完成させた世阿弥である。今回は世阿弥について。
足利義満の寵愛を受けた少年時代
室町時代、足利義満の時代。まだ能が存在せずその前身である猿楽の時代である。世阿弥の父・観阿弥はこの猿楽の名手として知られていた。彼は少年から老人、女性まであらゆる人物を演じることが出来る演技力を有していた。観阿弥は猿楽を大成させた人物でもあった。観阿弥の表現力によって猿楽はより複雑な内容を表現できるようになっていた。
この観阿弥の猿楽を足利義満が見に来る。ここで義満は観阿弥の息子で12歳の美少年である世阿弥を気に入る。そして世阿弥は義満の寵愛を受けてそばに仕えることになる。このことにより観世座は一躍京文化の中心となる。
事態が急転する中で新しい舞を確立する
しかし10年後、観阿弥が巡業先で急死する。世阿弥は弱冠22歳で観世座を率いることになってしまう。しかし既に世阿弥は美少年の時を過ぎ、義満の関心も別の人物に移っていた。世阿弥は再び義満に認められるため、自身の芸を見直すことになる。彼はなるべく体の動きを抑えた幽玄な舞を目指していたという。
義満は将軍位を息子に譲り、自らは北山で盛大な猿楽の舞台を設けた義満の前で舞を披露したのは世阿弥だった。世阿弥の新しい舞は義満に認められたのである。
この時に世阿弥が記したのが風姿花伝だという。これに魅せられた人物の一人にジャパネットの高田社長もいるという。彼によると風姿花伝に記されている世阿弥の言葉はまさしく自身が常に言っていることと同じことがあったのだという。600年を経てもこの書は人々に共感を呼んでいるわけである。
というわけで、今この風姿花伝を購入するとさらに高枝切ばさみがついて・・・きません(笑)。
試行錯誤の中で能を完成する
しかし世阿弥の試行錯誤はこの後も続く。世阿弥が46才の時に足利義満が世を去る。さらにこの頃、増阿弥という強烈なライバルが現れる。増阿弥の芸は禅の文化の影響を受けて、最小の動きで表現するということを行っていた。またこの頃から世阿弥は能の脚本を書くということを始めていたという。源義経などの敗者や弱者を描いた作品を完成させたという。これには死者に対する弔いの意味を含むものであった。戦乱の時代を終えての癒やしだったという。こうして能が完成した。
後継者問題で思わぬ波紋が・・・
だが世阿弥の後継者の育成で問題が起こる。最初は実子のいなかった世阿弥は、弟の子を養子にして後継者に育てた。しかしその後に実子が生まれる。そして養子は三郎元重、実子は十郎元雅で共に優秀な能役者に育つ。しかしこのことが彼の運命を揺るがすことになってしまう。
60歳で世阿弥は出家して観世大夫の座を退く。後は養子の三郎元重が継ぐはずだったのだが・・・ここで実子の十郎元雅が跡を継ぐ。どうやら三郎元重は独立する形になったらしい。既にこの時点で養子と実子の確執があったのが覗えるが、三郎元重の後見でもあった足利義教がくじ引きで将軍になってからその問題が沸騰する。感情の起伏が激しい(要するにキレやすい暴君だったということ)義教は十郎元雅と世阿弥の能を禁止してしまう。なお世阿弥が十郎元雅を後継にしたのは、単に実子というだけでなく、元雅は能の本を書く優れたライターとしての才能を持っており、その能力を世阿弥が重視したのだという。一方の三郎元重は世阿弥をも凌ぐといわれるほど芸が達者であったという。足利義教は元重を重視して、元雅は京の舞台から排除されてしまう。不遇の中で元雅は京への復帰を願いつつも叶わず32歳の若さでこの世を去る。そして三郎元重が観世大夫となる。この頃、70歳を過ぎた世阿弥は将軍の命で佐渡に流されていたという。その後の世阿弥の消息は残っていない。
元重は後に音阿弥と名乗って晩年まで活躍するが、元重の死後に戦乱の世に突入し、能は次第に忘れ去られ、再び復活するのは江戸時代になってからだという。そして世阿弥の存在は明治になって初めて再発見されたのだとか。
うーん、かなり根深いトラブルがあった模様。元重贔屓の義教が暴走したのか、それとも背後に元重の意向があったのか。まあ普通に考えて、義教だけの意志とは思いにくいです。となると元重と元雅の間に相当深い確執があったと考えるのが妥当でしょう。後継者問題というのはいつの世でも難しいものです。元重としては元雅の方が芸では自らよりも劣るのに、実子というだけで後継者になってしまったという気が強かったんだろうと思われる。しかも自分は既に世阿弥をも凌いでいるという意識もあっただろう。
しかし世阿弥の存在が明治まで完全に忘れ去られていたというのは初耳でした。つまり風姿花伝が表に出たのはそれからということのようです。これがもし表に出てなければ、未だに能の発祥については謎のままになっていたということか。
忙しい方のための今回の要点
・能は猿楽の名手であった観阿弥の息子の世阿弥が、新しい舞を求めて大成させた。
・世阿弥は同時に新しい能の本を書くことに力を入れ、多くの演目を作り上げた。
・しかし後継者問題で養子と実子の間に軋轢が生じ、後継に指名した実子は養子の後見であった足利義教が将軍となったことで京を追われ、自らも佐渡に流されることになる。
・世阿弥の存在は明治になってから再発見された。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・能の成立の過程云々よりも、「後継者選びは慎重に」ということだけが印象に残る回でした(笑)。しかし実際にこれが原因で滅びたり弱体化してしまった家というのは昔から多いです。上杉家なんかが典型ですし、中国でも三国志の袁紹が後継者選びに迷ったせいで袁家は滅びてしまいます。蜀の劉備のところは、後継者争いはありませんでしたが、その後継者がボンクラすぎたせいで滅びましたが。
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