教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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12/5 BSプレミアム ザ・プロファイラー「劉邦」

 中国で最長の400年も続いた漢帝国を築いた劉邦。しかし彼は名門貴族の出身で軍人としても優れていたライバルの項羽と比較すると、40を過ぎて酒と女が大好きなダメ親父に過ぎなかった。その劉邦がどうやって漢帝国を築くことが出来たのかという話。

 

ダメ親父からリーダーになった劉邦

 ダメ親父であった劉邦だが、王者の相であるという竜顔であり、なぜか人徳だけはあって人に慕われたという。当時は秦帝国の圧政下で国民は苦しんでいたが、始皇帝が亡くなった後に一気にその不満が爆発し、各地で反乱が起こることになる。やがてその反乱軍は秦に滅ぼされた楚の王を担いで結集するが、劉邦もそこに農民たちの兵を率いて参加する。このようにして参加した中には楚の名将軍の孫の項羽も存在した。楚王は関中に一番乗りしたものを王にすると宣言する。

 項羽は2万の兵を率いて鉅鹿で秦軍20万と激突する。ここで項羽は3日分の食料のみを残し、ここまで乗ってきた船は壊して不退転の決意を示す。負ければ後がない兵たちは奮起し、10倍の秦軍に勝利する。ここで項羽は捕らえた秦兵を全員生き埋めにするという残虐行為を行う

 一方の劉邦は南から関中に迫っていた。南陽の司令官は秦の旗色が悪いと見て命が助かるならと降伏するが、劉邦はそれを受け入れる。劉邦の寛容な姿勢はすぐに知れ渡って、拠点の司令官が次々と劉邦に降伏。結局劉邦はほとんど戦わずして関中に一番乗りしてしまう。そして秦の皇帝も劉邦に降伏、劉邦は彼を助命する。なお決して聖人君子ではない劉邦は後宮の美女や財宝に目が眩みそうになったが、そこは軍師の張良が「天下のために動こうとするならば、目の前の快楽に我を忘れてはなりません」と諫めたという。心の奥に大望のあった劉邦はここはグッとこらえてそれらを封印したらしい。

 ここで劉邦がなぜリーダーになれたかを議論しているが、要は劉邦は部下としては担ぎたくなるような魅力があったのだろうという話になる。これがいわゆる広い意味での人徳であると思う。実際に劉邦は部下の意見を良く取り入れる上司でもあり、能力に自信のある部下としては「彼の元でなら自分の能力を発揮することが出来る」と考えたと思われる。一方の項羽は本人の能力が高いがゆえに何でもかんでも自分で即断するタイプであり、家臣としては進言を聞き入れてもらえない可能性が高い。カリスマに盲従するタイプの臣下は付いてきても、自らの才幹を活かしたいと考えるタイプには仕えにくい主君であると考えられる。岡田氏が「項羽がいたからの劉邦」という言葉を言っているが、実際に劉邦の存在価値は項羽のアンチテーゼという意味は強かった考えられる(敵兵を皆殺しにした項羽に対し、投降する者はすべて許す劉邦)。

 

項羽には連戦連敗の劉邦

 しかし項羽は劉邦が一番乗りしたことに激怒した。劉邦は臣下の言に乗って項羽を防ぐために関を閉じてしまうが、項羽は武力でそれを突破して関中に乗り込んでくる。項羽の軍は40万に対して劉邦軍はわずか10万。劉邦は項羽の元に出向いて臣下の礼をとって、自分は刃向かうつもりはないと釈明する(鴻門の会)。項羽はそれを容れて宴席が設けられるのだが、そこで項羽の軍師の范増が余興の剣舞にかこつけて劉邦の暗殺を試みるが、そこに劉邦家臣の樊カイが乱入して劉邦を助ける。その樊カイに対して項羽は「壮士なり」と語ったと言うが、とにかくこれで劉邦は暗殺現場から抜け出して命が助かることになる。

 劉邦に変わって都に入った項羽は、王族たちを処刑、宮殿に火を放って燃やし尽くすと楚に引き返す。そして自ら領土を分割、劉邦には辺境の蜀の地を与える。そして邪魔になってきた楚王を殺害してしまう。項羽の暴虐な振る舞いに諸侯の不満が高まったところで、劉邦が打倒項羽を掲げて立ち上がり、それに応じて集まった諸侯の連合軍56万で、項羽が遠征中で留守の項羽の本拠地の城を落とす。しかし戦勝で浮かれていたところに項羽が3万の兵を率いて戻ってきて、不意を突かれた諸侯の連合軍は大敗、劉邦も命からがら逃げ出すことになる。劉邦はこの時に自らの馬車から3度に渡って子供を蹴り落としたという。なりふり構わぬ逃亡劇である。

 ここで劉邦はなぜ項羽に負け続けたのかが議論されているが、これについては項羽が強すぎたんだろうという気が私はするが、岡田氏も同じようなことを言っている。またメンツなどを気にしないでなりふり構わずに逃げることが出来るのが劉邦の強さでもあり、意外にタヌキ親父であるという言もゲストから出ていたが、これも全く同感。これはプライドの高い項羽には逆立ちしても出来ないことであり、項羽は結局はそのために命を落とすことになる。項羽のプライドの高さを劉邦はよく心得ており、鴻門の会で劉邦が助かったのも、徹底して平身低頭することで項羽のプライドをくすぐったからと思われる。項羽としてはそこまでして許しを請う相手を殺すというわけにもいかなかったのだろう。

 

なぜか家臣に慕われた劉邦

 この劉邦を支えた臣下に漢の三傑と言われる三人が居る。後方担当で常に補給を欠かさなかった蕭何、軍師として活躍した張良、将軍として連戦連勝した韓信である。特に韓信は元々は項羽に仕えていたが、自分の進言が聞き入れられないので見限って劉邦に付いた。結局劉邦は蕭何の推薦に従って韓信を大将軍に任じて北方諸国の平定を命じている。そして韓信はその軍略の才を発揮、背水の陣などの戦法で諸国を次々と平定していく。しかしその時に斉を治めるために自分を仮王にしてくれと劉邦に頼んでいる。これに対して劉邦は韓信が裏切るつもりではと疑うが、張良の進言に従って韓信を仮王でなく正式に王に任じている。韓信はこれにいたく感謝したという。そして広武山で項羽軍と向き合っている劉邦の元に30万の兵を率いて援軍に向かうことになる。

 ここで劉邦はなぜ部下たちに慕われたかが議論となっているが、やはりそれは部下の進言をよく容れたということに尽きるだろうと思われる。上でも言ったように、能力のある部下にとっては劉邦の元は実力を発揮しやすい環境だったと言うことだろう。

 

ついに項羽に勝利して漢帝国を建国する

 広武山で睨み合いを続けていた両軍だが、睨み合いが1年を過ぎると項羽軍は兵糧が乏しくなってくる。それに対して劉邦軍は後方の蕭何が補給を絶やさなかったために兵糧が欠乏することはなかった。そしてついに項羽は劉邦と和平を結び楚に引き上げるが、この時に張良の「今こそ項羽を討つための好機」との進言で劉邦軍は項羽軍の背後を突く。これで項羽軍は総崩れとなって垓下の城に逃げ込む。この垓下の城については永らくその場所が不明だったのだが、最近の発掘調査でかなり大規模で堅固な城であることが判明したという。劉邦軍はこの城を囲んでしばし睨み合いとなるが、ここで一計を案じる。兵たちに楚の歌を歌わせたのである。それを聞いた項羽は自らの本拠地である楚も既に落ちたと考えて涙する。そして800の兵を率いて決死の最後の突撃を行って戦死する。31歳であった。なおここで項羽が劉邦のようになりふり構わずに逃亡すると言うことが出来たなら、生き延びることは十分可能だったと思われるし、再起の可能性もあったと思われるのだが、これは項羽のプライドが邪魔をしたのだろう。

 こうして劉邦は漢帝国を建国する。皇帝となった劉邦は自分の能力は蕭何・張良・韓信などには劣るが、自分は彼らを使いこなすことが出来たと語ったと言うが、これは本音だろう。ただこの後の劉邦はかつての功臣達を次々と粛正していき、韓信も結局は謀反の罪で処刑されてしまう。この辺りが劉邦の評判を落とす原因でもあるのだが、これについてゲストが「狂っちゃたんだと思いたい」と語っていたが、劉邦のファンなら当然の真理だろう。ただこれは「苦労をともにすることは出来ても、富貴を共にすることが出来ない主君」のタイプだったんだろうという気もする。また項羽が存在する時には項羽に勝利するためにと一致団結した主従も、項羽がいなくなるとその軸がなくなってしまったのだろう。トップに立ってしまうと、次は自分がターゲットになる立場となるので、往々にしてトップに立った者は猜疑心に駆られることになる。この辺りはゲストの一人が言った「器が小さかったということ」というのはある種の事実ではある。


 項羽と劉邦は歴史小説にもなっていることなどもあって人気の話ですが、いくら本人の能力が優れていたとしても、優れた部下に支えられなかったら結局は敗北するというビジネスの教訓として語られることも多いです。

 また劉邦の晩年の粛正もひどいですが、劉邦死後の妻の呂雉(中国三大悪女の一人)やその一族による粛正もさらにひどかったです。結局は漢王朝はいきなりこのドタバタで出だしから蹴躓くことになってしまうんですが。

 

忙しい方のための今回の要点

・楚の名将軍の孫だった名門の項羽に対し、劉邦は酒と女が好きな40過ぎの典型的ダメ親父であった。
・圧政をしていた秦を打倒する機運が盛り上がった時に、劉邦は農民兵を率いて反乱に参加する。
・項羽は秦の10倍の大軍を打ち破って、敵兵をすべて生き埋めにする。一方の劉邦は降伏した者を寛容に受け入れることでほぼ抵抗なく関中に一番乗りすることにする。
・激怒して関中に押しかけた項羽に対し、劉邦は臣下の例を取って謝罪(鴻門の会)。辛くも命を全うすることになる。
・秦の王族を処刑して都を焼き払った項羽は、所領を自ら分割して配分する。また邪魔になった楚王を殺害してしまう。このような項羽の暴虐に対する諸侯の不満が高まり劉邦が反項羽を上げて挙兵すると多くの諸侯がこれに合流する。
・諸侯連合軍は項羽の本拠を落とすが、引き返してきた項羽軍急襲されて惨敗、劉邦も命からがら逃走することになる。
・連戦連敗の劉邦だが、彼を助けたのは漢の三傑と呼ばれる蕭何、張良、韓信の3名だった。
・結局は彼らをうまく使いこなした劉邦が項羽を破って漢帝国を築くことになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・劉邦はある種の人たらしだったんでしょうね。そういう意味では豊臣秀吉を連想しますが、秀吉は本人自身もかなりの能力を持っていたのに対し、劉邦は本人自身はかなりの無能です(笑)。ただ本人がそれを自覚してすべて部下に任せていたのが彼の一番の強みとなります。
・実際にこういう「回りに担がれることによってトップになるタイプ」というのも存在するのは事実です。もっとも最近はそういうタイプはなかなか通用しにくい時代になってますが。
・なお劉邦の粛正に対し、蕭何はあえて自らの評価を落とすような行為を働くことにより、張良は劉邦から離れることによって難を逃れてます。これに対して韓信は劉邦に完全には向かうことも出来ずに結局は処刑されてしまいます。この辺りは彼らのいわゆる政治力の差というものでしょう。韓信は将才は図抜けてありましたが、こういう政治的謀略は弱かったようです。

 

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