教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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12/23 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「流人から将軍へ!源頼朝の生涯」

 鎌倉幕府を成立させた源頼朝は、平家に敗北して流人になった立場から平家を打ち破って将軍にまでなるという劇的な生涯を送っているのであるが、その頼朝について紹介。

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伝源頼朝像

 

 

平治の乱で敗北して流罪となった源氏のプリンス

 源頼朝は源氏の統領である源義朝の三男として産まれるが、母が藤原氏の血筋を引くという高貴な身分であったことから、嫡男として育てられる。そのような生まれの良さと源氏の力でとんとん拍子に出世して13才で初陣を迎える。その初陣が平治の乱。平清盛の留守中に父の義朝と藤原信頼が実権を握るために起こしたクーデターだった。義朝は後白河上皇と二条天皇を幽閉したのである。しかし平清盛が京に戻ってきた時に後白河上皇と二条天皇も脱出、義朝は朝敵になった挙げ句に清盛の武力の前に敗北する。そして義朝は敗走中に謀殺され、頼朝も囚われの身となる

 頼朝はこの時に通常なら処刑されるところなのだが、助命されて流罪になる。その背後には清盛の継母の池禅尼が「頼朝が亡くした実の息子に瓜二つであるから」と助命嘆願したと平治物語などには記されているらしいが、これは実際にはあり得ないという。池禅尼が助命嘆願したというのは事実だが、背後には後白河上皇とその姉の上西門院統子(かつて頼朝は彼女に仕えていた)の圧力があったのではと番組はしている。頼朝の母の一族から後白河上皇らに助命嘆願があり、それが後白河上皇を通して池禅尼への圧力となったのではと分析している。つまりは頼朝はその出自の良さのおかげで命を取り止めたのである。

 

 

流人の身から反平家の兵を挙げる

 頼朝は伊豆に流され、平家の有力武将の伊東祐親の監視下に置かれる。しかしここで祐親の上洛中にあろうことかその娘と恋仲になり、息子を作ってしまったという。祐親はこれに激怒して、二人を引き離すのみでなくその子を殺害したとされている。さらに頼朝自身の暗殺も計画したとのこと。この危機に際して頼朝は、祐親の次男で暗殺に反対していた伊東祐清の手引きでようよう脱出に成功したとのこと。そして蛭ヶ小島に移ってこの地の役人だった北条時政の保護を受けることになる。31才で時政の娘の政子と結婚した彼は、娘も儲ける。頼朝は平家打倒の考えはあるものの力不足のためにそれもかなわず、伊豆に流されてから20年が過ぎる

 1180年4月、後白河法皇の皇子の以仁王が平家打倒を各地の武士に呼びかける。チャンス到来と考えた頼朝だが、この乱はすぐに平家に発覚してわずか2ヶ月ほどで鎮圧されてしまう。当時は平家への不満は高まりつつあったが、未だに平家の力は強かった。そこでやむなく頼朝は伊豆周辺の武士たちの動向を見定めることになる。伊豆にも平家の支配が強まったことで北条氏らは反発、相模や上総でも同様に平家への不満が高まる。頼朝はこれらの武士を味方につけ挙兵、1180年8月平家方の大庭景親軍と石橋山で激突するも、圧倒的な兵力差で敗北してしまう。兵力不足を感じた頼朝は「平家を打倒して幽閉されている後鳥羽院を助ける」ということを旗頭に掲げ、上総の武士たちを味方につける。頼朝の元には平家に不満を感じる武士たちが集まり始め、その状況を見た平家方の武士からも頼朝につくものが現れ始める(傲慢になった平家がいかに嫌われていたかということでもあるのであるが)。そして頼朝は鎌倉に入る。この間、敗北から1ヶ月半(非常に目まぐるしい)。そして討伐に来た平家の大軍と相対することになるが、この富士川の合戦では平家方が一斉に飛び立った水鳥の羽音を源氏の奇襲と勘違いして撤退するというあり得ないような大失態(この時期の平家がいかに戦に疎くなっていたかということと、平家方の諸将の戦意の低さが覗われる)をしでかし、戦わずして勝利することになる。そしてこの合戦後に弟の義経と対面することになる。

 寄せ集めの軍をまとめるのに頼朝は新恩給与という仕組みを導入したという。要は手に入れた平家方の武士の領地を味方の武士に分け与えるというもので、これが後の鎌倉幕府の御恩と奉公につながったという。要するに非常に分かりやすい褒賞を用意して人参で釣ったということになる。

 

 

謀反人の立場を返上してついに平家を滅ぼす

 こうして実質的に関東を支配することになった頼朝だが、公的には立場はまだ謀反人のままだった。そこで平家を打倒して後白河法皇を救うという大義名分で、謀反人の立場からの脱却を目指していた。しかし平清盛急死の報が伝わる。これで頼朝の構想が狂う。統領を失って混乱した平家は政権を返上して後白河法皇の院政が復活、これで頼朝の大義名分がなくなってしまう。そこで頼朝が講じた策は平家との和平を申し入れること。ここで頼朝は後白河法皇に背く意志は毛頭なく、平家と和平がなれば東西を分割統治するということを申し入れる。実はこの案は平家が飲むことないだろうとの計算の上だった。そして清盛のあくまで頼朝を滅ぼすべしの遺言を受けた平家は和平案を拒否。しかしこのことから平家は後白河法皇の不信を招くことになる。

 こうして上洛の準備を整えた頼朝だが、今度もまた思わぬ方向から横やりが入る。やはり源氏の一門である木曽義仲が上洛して平家を京から駆逐してしまう。さらに義仲は後白河法皇から平家追討の宣旨まで受けてしまう。上洛して自らが官軍になることで謀反人の汚名を晴らそうと考えていた頼朝の構想が狂うことになる。

 しかし義仲の軍が京で乱暴狼藉を働いた(所詮は田舎者だったわけです)ことで後白河法皇が激怒、その機に乗じて頼朝は後白河法皇に対して忠誠を訴えて接近、これが功を奏してようやく頼朝は謀反人の立場を解かれ従五位下に任じられる。この時に名実ともに関東の支配権を確立する。そして義仲追討に対する期待に応えて義経を派遣する。義経は軍才を発揮して見事に義仲を討ち果たし、さらには平家の追討のために西国にまで遠征して平家をも滅ぼす

 

 

平家滅亡の功労者である義経との対立の原因

 この時点では義経は頼朝にとっては頼もしい弟であり、養子にして自らの後継者にもと考えていたという。しかしその両者の思惑はズレ始める。一般には義経が頼朝に無断で後白河法皇から検非違使に任じられたことが原因とされているが、この番組では義経の検非違使のへの就任は頼朝の働きかけによるものとしている。それよりも問題なのは、義経がいつまでも検非違使として京に滞在したことだという。頼朝は義経に伊予守の官職を与えて鎌倉に呼び戻すつもりだったのに、義経は伊予守受領後も検非違使の職を返上せずに京に居続けたのだという。恐らく頼朝は義経を呼び戻すことで、身近で監視することも考えていたのだが、義経がこれを拒絶したことから自立の意志を感じたのだと思われる。また頼朝に実子の頼家が生まれていたことから、息子に後を継がせるには義経が邪魔になったということも考えられるとのことだが、私はこっちが本命だろうと考える

 頼家はまだ幼かったと思われるので、一旦義経に継がせてから後に頼家に後を譲るということも考えられるが、義経が自分の子を置いて頼家に後を譲るかどうかは分からない。となると頼朝としては義経を排除するしかなかったろう。また最近は義経アスペルガー説も出ているが、どうも義経が頼朝の意図を汲んでいないという面がかなりあり、これが頼朝にさらなる不審感を抱かせることになったと思われる。そもそもこの二人は兄弟と言っても一緒に暮らしたことがあるわけでもなく、平家追討の時に初対面したようなものだから、最初から情は通っていなかったと考えられる。

 

 

義経と共に奥州藤原氏も滅ぼして武家の頂点に立つが・・・ 

 そしてついに義経は挙兵を企図するが彼に従う者はほとんどおらず(あの軍才にしてこの人望のなさが、義経が他人の感情を理解できなかったというアスペルガー説を補強することにもなるのだが)、逆に頼朝が義経追討令を出すことになる。そして義経は奥州に落ち延びていくことになるが、藤原秀衡が没したことで後継者の泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を討ち(ここでもあの軍才にしてこの人望のなさである)、その泰衡を頼朝は攻め滅ぼして武家の頂点に立つ。

 頼朝の最後の野望は自らの娘を天皇の后にして将来的に自らの血筋から天皇を出そうというものだった(まさに平家がやったことと同じである)のだが、その娘が病死してしまい、今度はその妹を后にと画策している内に自らが病で急死してしまう。結局はこの最後の野望はならないまま終わってしまう(さらにはその後に源氏の後継も絶えて、結局は北条氏に権力を奪われることになるのだが・・・)。波乱の生涯であった。


 まあ頼朝については苦労している人間だけに、人を利で釣るのは上手かったように思います。鎌倉幕府なんてまさにそれで成立したわけですから。ただ明らかに人間不信なところはあったようで、源氏が絶えてしまった原因もこの時に義経などの一族を排除しすぎたことでもあるし。なおそうまでして後を継がせた頼家は器量不足と北条氏の台頭で追放されるという悲惨な最期を迎えている。頼朝は体制を完全に固めきる前に急死しており、これは本人としてはかなり悔いの残る最後だったのではという気もする。もっとも没年は51才と言われており、当時の平均寿命を考えると決して早すぎるというわけではない。要は天下を取ったのが遅すぎたとも言えるわけでもあるが。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・頼朝は平治の乱の敗北でで罪人として流刑に処させる。本来は死罪になるところだが、頼朝の母が藤原氏につながる人物だったことから、そちらのルートからの嘆願、圧力があったと考えられるとのこと。
・流された伊豆で頼朝は挙兵の時機を覗っていた。以仁王の決起など、平家に対する不満が高まっているのを感じた頼朝は、周辺の武氏を味方につけてついに挙兵する。初戦では兵力不足で敗北するが、さらに味方を増やしてついには関東を押さえる。
・平家の討伐軍と富士川の合戦で対峙するが、平家軍が水鳥の羽音に驚いて撤退するという事件があり、戦わずして勝利する。
・頼朝は謀反人の立場を返上するために朝廷に対しての画策を行う。平清盛の急死、木曽義仲の登場などで何度もそれが頓挫するが、義仲が後白河法皇の不信を買ったことでようやく謀反人の立場を解かれ、義経を送って義仲を滅ぼす。
・義経はさらに平家をも滅ぼすが、頼朝との関係が急速に悪化して対立状態になる。
・頼朝はついに義経を自害に追い込み、奥州藤原氏も滅ぼして武家の頂点に立つ。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・今までは日本人は義経贔屓が多いので、その関係で頼朝のイメージはイマイチというところがありましたが、最近の説では「義経も大概の奴だったのでは」という話が出てきていて、相対的に頼朝の評価が上がることにつながっているような気が。
・どうも源頼朝にしろ、足利尊氏にしろ、初代将軍のイメージがイマイチです。彼らの共通項は共に弟を結果的に殺していること。しかもその弟は幕府創建にはかなり貢献している人物。結局はそれだけ有力な人物だっただけに、幕府が成立してからは脅威になってしまったということだろう。徳川家康にはそういう有力な弟がいないようであるのは、幸運だったのか不運だったのか。

 

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