教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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1/6 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「若武者 家康~天下取りの秘密は人質時代にあり?」

 「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」と言われて、労せずして棚ぼたで天下を手に入れたように言われる家康であるが、実は子供の頃からかなり苦労しているのですよというのが今回の内容・・・なんだが、そんなもの今更言われるまでもないことなんですけど。とりあえず今回は家康の人質時代である少年期に焦点を当てている。

 

強大勢力に囲まれた小領主の悲哀

 家康が生まれたのは岡崎城である。父はこの地方を治める松平広忠。母は刈谷城主である水野忠政の娘の於大の方である。家康は代々松平家の嫡男を示す竹千代の幼名を与えられて育てられる。しかし竹千代は1年半で母から引き離されることになってしまう。

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家康の生まれた岡崎城

 強大な大名にはさまれて侵略の危機に直面している三河の松平家は、今川の庇護を受けることで何とか生き残りを図っていた。しかし於大の方の実の兄の水野元信が今川家から織田家に乗り換えたのである。そこで広忠は於大の方を離縁したのだった。その後、広忠は三河田原城主の戸田康光の娘と再婚するのだが、実はこれが後に竹千代の運命に影響を与える。

 そして竹千代が6才の時、織田が三河に攻めてくる。この事態に広忠は今川に支援を仰ぐのだが、今川義元は嫡男である竹千代を人質に出すことを求めてくる。広忠はやむなくそれを飲み、竹千代を供と共に駿河に向けて送るのだが、何と舅の戸田康光が竹千代の乗った船を織田に引き渡してしまう。戸田康光は今の金で言うと2000万円と引き替えに竹千代の身柄を売ってしまったのだという(えらく安く売られたものだ)。そして竹千代の身柄を押さえた織田信秀は広忠に降伏を迫ってくる。

 しかし広忠としては今川を裏切るわけにはいかない。結局竹千代は見捨てられた形になる。なおこの時に竹千代が処刑されてしまっていたら「徳川家康 完」なのだが、熱田に軟禁されることになったという。どうやらこの背後には織田家の家臣と結婚した於大の方の働きかけがあったのではとのこと。

 

織田の次には今川の人質に

 なんとか生き延びた竹千代だが、2年後には父の広忠が24才の若さで急死してしまう。病死と言うことになっているが、どうやら真相は家臣に殺されたらしく、どうも今川氏による暗殺の可能性が極めて高そうである。今川義元はそもそも岡崎城を直轄にしたがっていたので、邪魔な広忠を暗殺したのだろう。

 岡崎城を接収した今川は、織田方の安祥城を攻め、織田信長の兄である織田信広を人質にとって、信秀に人質交換を要求する。信秀はそれを飲んで今度は竹千代は今川に引き渡されることとなった。

 こうして今川の人質となった竹千代だが、扱いは粗略なものでなく丁重なものだったという。駿府では於大の方の母の源応尼が甲斐甲斐しく世話をしたという。そして竹千代には今川家の軍師でもある太原雪斎が学問の師として付き、医学から兵学まであらゆることを指導した。実は後の家康の元はこの時の教育で培われているわけである。義元がここまで竹千代を厚遇したのは、竹千代を将来的に息子の氏真の側近にするという考えがあったからだという。そのためには竹千代を今川贔屓にしておく必要があったのである。

 

岡崎の現状を見て領主の自覚を高める

 竹千代は人質のまま14才で元服し、名を元信と改める。この時に元信は一度岡崎に帰るのだが、そこで目にしたのは今川に領地を取られてしまって、自ら農業を行いながら今川に年貢を納めている家臣達の姿だった。また彼らは戦闘では最前線に投入され、古参の家臣は次々と命を落としていた。しかしそんな中で彼らは密かに元信が領主として復帰した時に備えて、兵糧米と軍資金を備蓄していた。家臣達の苦労と自身への期待の大きさを目の当たりにした元信に岡崎の領主としての意識が強まることになる。

 翌年、元信は義元の命である瀬名姫(築山殿)と結婚し、今川の一門衆として扱われることになる。しかしこの時に元信は名を元康と改名している。これは松平氏の全盛期を築いた祖父の清康から取った名だという。ここに元康の秘めた想いが現れているという。

 17才になった元康は今川義元から、織田に寝返った三河の鈴木氏の討伐を命じられる。これが元康の初陣となる。この戦いで元康は回りからの攻撃を防ぐために、鈴木氏の寺部城の城下に火を付けて城を孤立させてから一気に攻略する。松平の家臣達も奮起して鮮やかな勝利を収める。

 

桶狭間の戦いで自決まで考えた家康

 そして織田氏との戦いとなる。19才の元康は前線の大高城に兵糧を届けることを命じられる。兵糧の運搬と言っても大高城は最前線で織田の砦にも近く、うかつに近寄ると攻撃を受けてしまう。そこで元康は織田方の寺部城と梅ヶ坪城を急襲し、織田の砦から援軍が出た隙に大高城に兵糧の運び込みに成功する。そして周囲の砦を落として大高城で義元を待っていた元康だが、そこに義元が桶狭間で信長に討たれたという報が飛び込んでくる。

 今川軍は総崩れとなって撤退。元康も岡崎に撤退して松平家の菩提寺である大樹寺に逃げ込む。元康はここで自害するつもりだったらしいが、それを止めたのが大樹寺の住職だった。彼は元康に「厭離穢土欣求浄土(戦国乱世の醜い世の中を厭い離れ、念仏の精神によって浄土のような平穏な国を作る)」という言葉を示し、これこそがあなたの成すべきことでないかと説得する。この言葉は後に元康の旗印となる。

 

今川から離反して織田と同盟する

 元康は空き城となっていた岡崎城に入る。元康は氏真に織田に対して義元の敵討ちのための戦いを挑むことを訴えるが氏真は動かない。そうしている内に織田信長から和睦の申し入れがなされる。元康は悩むが落ち目の今川(義元の弔い合戦さえできないという状況は氏真の器量を疑わせるに十分)よりも勢いのある織田に付くことを決める。元康の裏切りを知った氏真は人質となっていた元康の家臣の妻子を処刑、これで今川と完全に決裂、元康は家康と名を変えることになる。

 この4年後、家康は信長の後ろ盾を得て三河を平定、朝廷より従五位下三河守の官位を得、松平の姓を徳川に代える。こうして徳川家康が誕生したのである。ここから家康の雄飛が始まる。

 

 以上、若き日の徳川家康について。家康も決して楽をしていたわけではないのですよという話だが、それでも実際には戦国大名の中の強敵はほとんどが信長と秀吉が討ったわけで、家康は落ち目の今川や織田が叩いた武田の領土を併合していたぐらいだから、やはりあまりすごく合戦に強いというイメージはない(笑)。むしろ三方原の大敗が逆に印象に残るぐらい。

 ただ機を見るに敏な気質はこの若い頃の苦労で培われたのは事実だろう。また当時でも最高クラスの指導者の一人である太原雪斎の教えを受けたのは後々になって効いたと思う。まあ家康も今川に対してはある程度の恩義を感じていたのか、結局今川領をまるまる乗っ取ったが、氏真は生かして何だかんだで生涯面倒を見ている。この辺りは家康は氏真を主君としては無能と見限っていたが、個人的には恨みは持っていなかった可能性が高い。この不思議にしぶとい生き残り力が氏真の真骨頂なんだが(笑)。

 

忙しい方のための今回の要点

・徳川家康は三河の松平広忠の嫡男として産まれるが、1年半で母と別れることになり、6才で今川に人質に出される。
・しかしその時に、広忠の舅の戸田康光が金と引き替えに竹千代(家康の幼名)を織田家に引き渡してしまう。
・2年後、広忠が急死し(今川によって暗殺されたという可能性が強い)、人質交換で今川家に引き渡されて、そこで人質生活を送ることになる。
・ただし義元は竹千代を氏真の側近にすることを考えていたので、太原雪斎による教育を受けるなど丁重な扱いを受ける。
・今川の一門衆扱いされていた家康は、岡崎で家臣達が今川氏に虐げられているのを見て、岡崎の領主としての自覚が強まる。
・桶狭間の合戦で今川義元が討たれた時、家康は自害も考えるが、菩提寺の住職に戦のない世を作るのがあなたの仕事だとなだめられて自決を思いとどまる。
・その後、信長からの和睦の申し出に乗り、今川から離反することになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・正直なところあまり目新しい話はないですね。内容的にはかなり前に放送されていたヒストリアともかなり被りますし。まあ2000万円で織田に売られたというのは驚きましたが(笑)。

 

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