教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/8 BSプレミアム 英雄たちの選択「探検SP~20世紀探検家列伝 なぜ未知の世界をめざしたのか」

 富国強兵を突っ走り、日清日露戦争で列強の一角に食い込んだ明治日本。この時に日本から世界を驚かせるような探検家も登場している。その三人。中央アジアの探検を行った大谷光瑞、当時鎖国状態にあったチベットに行った仏教僧・川口慧海、そして南極探検を行った白瀬矗である。

 

中央アジアの仏教遺跡を探査した大谷光瑞

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いかにもお坊さんの大谷光瑞

 20世紀初頭、西洋によって中央アジアシルクロードのかつての仏教国の遺跡が多数発見されつつあった。しかし浄土真宗本願寺派第22世宗主である大谷光瑞は、これらの発見がクリスチャンによって成されているということに違和感を持っていた。このような仕事は仏教徒である自らがやらなければならないのではないかと彼は考えていた。また当時の日本国内の仏教は、廃仏毀釈の嵐で危機に瀕していた。またキリスト教も解禁されたことで勢力を増しており、このままでは国内の仏教は廃れるのではないかとの懸念があった。そこで日本の仏教がどのようなルートで伝わってきて、どのような盛衰があったのかを知ることが重要と考えた。

 1902年、大谷は若き僧侶4人と共に中央アジアに旅立つ。彼らは当時最新の高性能の装備を携えて探検に臨んだ。資金を提供したのは彼の実家である西本願寺でその費用は現在の価値で10億円に及ぶという。大谷隊はタクラマカン砂漠の北の仏教王国の遺跡を調査し、多くの仏教壁画などを持ち帰った。これらは現在東京国立博物館に収蔵されているという。

 

鎖国中のチベットに単独で潜入した川口慧海

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修行僧的佇まいの川口慧海

 一方、単独でチベットに行ったのが川口慧海である。当時のチベットは外国人の立ち入りを遮断しており、もし見つかると処刑される危険もあった。慧海が危険を冒してまでチベットを訪れた動機は、大蔵経の和訳に取り組んでいた時にこの経文の真実を確認するためには原書に当たるしかないと考え、原書に最も近いと思われるチベット仏教を調査したいと考えたのだという。

 慧海はまずチベットの入口に当たるインドのダージリンに1年4ヶ月滞在し、そこでチベット語を学んだという。そして監視を避けるために大きく西に迂回してチベットの中心地であるラサを目指した。しかしそのためには高度5000メートルの峠を越える必要があり、慧海は1人で磁石だけを頼りに高山病に苦しみながら命がけでチベット入りをしたのだという。チベット人を装いながら学僧として修行した彼は、ダライ・ラマとさえ面会したという。彼は漢方薬を使って医者として名声を上げて、それがダライ・ラマの耳に届いたのだという。慧海は日本に多くの貴重な経典を持ち帰った。

 

日本人初の南極探検をした白瀬矗

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いかにも探検家然とした白瀬矗

 アジアに向かった僧侶の彼らと違い、個人として南極に向かったのが白瀬矗である。彼は最初は北極点に行きたかったらしいが、1909年にアメリカのピアリーが北極点に到達してしまったために目的地を南極に変えたのだという。しかし南極の方はイギリスが国家的に全面バックアップするスコット隊が南極点を目指していた。白瀬は日本が勝つかイギリスが勝つかだとして国に支援を仰ぐが、日露戦争後に財政危機に陥った政府から支援を断られ、結局は民間の寄付によって南極を目指さざるを得なくなる。新聞に広告を載せて4万8千円の支援を集める(目標は10万円だった)が、既にスコット隊が出発していたことから白瀬は規模を縮小して小型の船で南極を目指す。圧倒的な装備で臨むスコット隊とは装備の差は明らかだった。

 しかし出発が遅れたことから南半球が秋に入ってしまい、流氷に進路を阻まれることになる。やむなくシドニーに引き上げて春を待つことになるが、この頃にはスコット隊に続いてアムンゼン隊も南極くに上陸していた。しかもこの時には資金は既に尽きかけていた。そこでスポンサーである大隈重信に援助を依頼するが、その時に目的を南極点一番乗りから学術調査に切り替えるように命じられる。ここで白瀬の選択がある。

 結局は白瀬は大隈の命に従うことにしたのだが、それでも突進隊を編成して5人で1200キロ先の南極点を目指したという。しかし9日目、そりを引く犬や隊員の凍傷もひどく、さらに食糧も尽きかけていたため、南緯80度付近で引き返す苦渋の決断をする。白瀬はこの地を大和雪原と命名して引き返し、隊員27人全員無事に帰還する。南極点にはアムンゼンが最初に到着し、その後に到着したスコットは帰路に猛烈な吹雪に遭って全滅していた。白瀬は目的を果たせなかったという忸怩たる思いや、多額の借金を抱えて苦難もあったらしいが、結局はこの白瀬の探検が戦後に日本が南極探検に参加できるきっかけにもなったという(敗戦国には資格がないという声も多かったという)。

 なお大隈の命がなければ白瀬は南極点に突撃して恐らくそのまま死んでいるだろうとの話が番組ゲストから出ていたが、確かに間違いない。結局は学術調査を命じられたために必ず生きて帰る必要が出来てしまったわけである。そういうところはなかなか面白い。

 

 今回は明治の探検家3人ですが、それぞれ目指すところも背景もかなり違うようです。大谷光瑞については明らかにお坊ちゃんの大学術調査隊という雰囲気なのに対し、川口慧海のは修行僧そのもの。まるっきり玄奘三蔵ですが、お供が誰もいないのですからそれよりもさらにスゴイです。ある意味ではより本来の「探検」というイメージ。もしくはジャーナリストのようです。

 白瀬は根っからの冒険家というところでしょう。冒険中に亡くなった植村直己を彷彿とさせます。今ならテレビ局辺りがスポンサーにでも付いて「白瀬矗南極点に挑む」と銘打った特番でも組んで大々的に宣伝してくれたところでしょうが(場合によって誰か芸能人がレポーターと称して南極大陸の入口まで密着とかしそう)、当時ではなかなかしんどかったでしょう。南極も今は装備なども良くなっていますし、基地なども出来ていますが、当時は全くの未踏の大地ですからそりゃかなり大変だったろうことは想像に難くないです。

 なお探検家の目的は3G(Gold・金、Glory・名誉、Goapel・宗教的情熱)のいずれかがあるとゲストが言ってましたが、先の二人はGospelで、白瀬はGloryだったようです。もっとも白瀬は最後までGoldには困ったようですが。

 

忙しい方のための今回の要点

・浄土真宗本願寺派第22世宗主である大谷光瑞は探検隊を編成して中央アジアの仏教遺跡を探索、仏教壁画などの多くの資料を日本に持ち帰った。
・一方川口慧海は単独で当時鎖国状態だったチベットに潜入、貴重な経典などを日本に持ち帰っている。
・白瀬矗は当初は北極点を目指していたが、先を越されてしまったために南極点を目指すことにした。しかし資金が不足する中でイギリス国家が全面的にバックアップしているスコット隊との勝負になり苦戦、結局はスポンサーである大隈の指示で目的を学術調査に切り替え、南極点到達は断念した。しかしこの白瀬の探検が、日本が戦後に南極調査に参加できるきっかけとなった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・正直なところ私が一番理解しがたいタイプの人間が探検家です(笑)。何しろ私は「石橋を叩くだけで渡らない」と言われているぐらい無理をしない人間ですので、私から見ると全く異星人に見えます(笑)。
・でも、人類が新しい地平を築くにはこういうタイプの人が絶対に一定数必要なんです(あまり多すぎると無茶ばかりするが)。まあそういう意味で、いろいろなタイプの人間というのが人類全体にとって必要ということになりますが。

 

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