教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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1/15 BSプレミアム 英雄たちの選択「幕末の"ラストエンペラー"~孝明天皇 維新への道を決めた選択」

 今回の主人公は孝明天皇。江戸時代の最後の天皇であり明治天皇の父になる。明治維新に対して非常に大きな影響を与えた人物であるのだが、なぜか歴史的には無視されているに近い扱いである。それがなぜなのか辺りも含めて考察している。

列強の脅威が迫る中で攘夷を願う孝明天皇

 孝明天皇の時代は、日本近海に列強の船が頻繁に訪れており、国内では譲位の嵐が吹き荒れるという動乱の時代であった。孝明天皇自身は攘夷を願っていたという。その背景には基本的に天皇の役割とは太古からの日本を変化なく受け継ぐという超保守的なところにあるし、また外国人が日本に上陸するということに対して「穢れ」の意識も持っていたのではないかということ。

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孝明天皇

 孝明天皇の攘夷の願いとは逆に、幕府はペリーの圧力で条約を締結しまう。結局孝明天皇はこれを追認することしか出来なかった。その後、さらにハリスが来日。強硬な姿勢で通商を求めてくる。幕府は朝廷に条約締結の許可を求めるが、孝明天皇はこれを拒絶する。「私の代で開国となれば後の世まで恥の恥である」と言ったそうな。天皇としては旧来の慣例を変更できなかったのだという。

 

意に反して開国に動く幕府と天皇に接近する薩摩

 しかし井伊直弼が大老となり、強硬に条約を締結すると反対派を強烈に弾圧し始める。そして京に使者を送り「軍事力が整えば再び鎖国する」と告げる。これに対して孝明天皇は苛立ちながらも同意するしかなかった。

 だがその井伊直弼が暗殺される。江戸城のすぐ前で最高権力者が暗殺されたことは幕府の権威を地に落とした。このことから幕府では公武合体を進めることになる。しかしこれに対して尊王攘夷派が激怒して要人暗殺などのテロが続発することになる。

 この時に孝明天皇に接近を図ったのが薩摩藩の島津久光だった。天皇の権威を使って幕府内での発言力を増すことを考えたのである。これに対して孝明天皇は薩摩の力を使って京の治安を守ることを考える。島津久光は早速寺田屋事件で尊王攘夷派を殲滅する。しかしその後に生麦事件が発生、イギリスの報復に備えて久光は急遽薩摩に帰国、尊王攘夷派が再び息を吹き返してテロの嵐が吹き荒れる。そして長州藩が朝廷を支配するようになってくる。そして勅使として江戸に向かった三条実美は、幕府に対して「攘夷を実行する期限を朝廷に報告するべき」と通告する。将軍家茂は急遽上洛、そして孝明天皇は家茂を引き連れて上賀茂神社で攘夷祈願を行う。天皇自らが攘夷祈願をするのは異例の上に、将軍を従える姿は天皇の権威を高めることになる。これが長州藩の狙いだった。さらに家茂は押し切られる形で攘夷の実行を約束させられる

 

尊皇攘夷で暴走する長州とそれを阻止するクーデター

 期日となっていた5月10日、長州藩はアメリカ船に突如攻撃を開始して攘夷を実行する。しかしこれはアメリカの反撃を呼び、長州は砲台を占拠されるなど決定的な打撃を蒙ることになる。しかも攘夷を実行したのは長州藩のみであり、他に追随する藩は皆無であったことが長州にとっては計算外だった。

 孤立した長州藩が打ち出した方策が大和行幸であった。孝明天皇が神武天皇陵などに攘夷祈願のために訪れ、そこで親征のための軍議を開くというものであり、まさに天皇が攘夷の先頭に立つということであった。

 一方、攘夷は危険であると判断し、これを阻止するべく動いていたのが薩摩藩である。薩摩藩はまず会津藩と連携を取り、会津藩の軍勢で尊王攘夷派を押さえることを狙った。会津藩は「中川宮が決意されたのなら、いかようにも尽力する」と協力を約束する。御所を封鎖して尊王攘夷派を一掃するというクーデター計画であった。薩摩の計画に同意した中川宮は孝明天皇の元を訪れ判断を仰ぐ。

 ここで孝明天皇の選択がある。大和行幸に乗れば念願であった攘夷を実行できるが、幕府との関係が決定的に悪化してしまう。またこの頃には天皇の回りがほとんど暴走気味で天皇の意見は通らない状態となっていた。

 

結局はクーデターに同意した孝明天皇

 結局孝明天皇は薩摩の計画に同意する。8月18日、会津藩邸の軍勢が御所の門を固め、長州に荷担する公家は御所に立ち入れなくし、彼らの官位は剥奪された。尊王攘夷派は一掃された。このことによって長州藩は武力倒幕に動き、禁門の変が発生、長州征伐へとつながる。またこの件で薩摩藩の存在感は増し、これらが明治維新へとつながっていくこととなった。

 しかし孝明天皇は明治維新を見ることなく30代の若さで天然痘でこの世を去る。この死に関しては不審な点があり、暗殺説が当時から囁かれていたらしい。ゲストの意見は真っ二つに分かれていたが、私はこれはほぼ間違いなく暗殺だとみる。尊王攘夷派にすると孝明天皇は土壇場で自分達を裏切ったようなものだし、武力倒幕の方向に動いていった薩摩にしても、公武合体派であった孝明天皇は邪魔になってきたはずである。どう考えても孝明天皇を排除してまだ若い明治天皇を担いだ方が捜査がしやすいはずである。暗殺否定派は一番怪しかった岩倉具視が嘆いていたというようなことを言っていたが、これは人間観察が甘い。人間というのは相手の死を本気で嘆きながら殺すということも出来るのである。介護疲れや家庭内暴力などで親や子を殺した犯人は、大抵は殺したことを本気で嘆きながら手を下している。岩倉具視にすれば、天皇を殺害するのは忍びないが日本のためにはそれしかないと思い詰めていたのでは。それなら本気で涙も出るというものである。なお後でまるで存在しなかったかのように扱われているのは、それだけ薩長政府にとって都合の悪かった人なのだろうというのは全く同感。

 

 毒殺云々の真偽はともかくとして、確かに幕末に大きな影響を与えた人物ではある。ただどうも見ていると、途中から騒動が自分の制御の範囲を超えて大きくなりすぎて、それにひるんで腰砕けになったような気がしてならない。そういうのを見ていると、果たして日本全体が攘夷の方向に固まったとしても、ロシア軍が若狭に上陸して京都に進軍してきたなんて状態になると、それでも攘夷を貫徹することが出来ただろうか。所詮は世の中を知らない人なので、現実的な方策があって攘夷を唱えているのではなく、多分に「外国人がウロウロするような今まで変わった日本は嫌だ」という感情的なものだったろう。結局は立場的に回りに担がれはするが、トップとして仕切れるだけの器量はなかった(その気もなかった)人物のような気がしてならないのだが。孝明天皇にとっての悲劇は、攘夷の考えに同意する連中はほとんどテロリストみたいな輩ばっかりで、天皇としてはとても荷担する気にならないような連中だったことだろう。そんな連中が自分を担いで大騒動を起こそうとしているのを見て、「それは勘弁してくれ」というのが本音だったのでは。多分本人は、古式に則って平穏で変化のない生活を送りたかったのではという気がしてならない。

 

忙しい方のための今回の要点

・孝明天皇は攘夷の考えを持っていたが、一向に攘夷を実行する気配のない幕府に苛立ちを感じていた。
・ハリスの来日で開国の許可を求めてきた幕府に対し、孝明天皇は拒絶の意志を示すが、結局は井伊直弼の登場によって強引に開国が決定され、孝明天皇もそれに逆らうことが出来なかった。
・しかし桜田門外の変で幕府の権威は決定的に失墜、幕府は公武合体を図ることにする。しかしこれに尊王攘夷派が反発して京都では要人テロが続発する。
・この頃、薩摩藩が天皇の権威を得るために接近を図り、孝明天皇は薩摩の力で京の治安を安定させることにする。
・薩摩は寺田屋事件で尊王攘夷派に痛撃を与えるが、その後、生麦事件への対応で薩摩へ帰還。結局は京は尊王攘夷派に支配されることになる。
・京を押さえた長州は攘夷の方向で暴走、幕府に対して攘夷の期限を決定させるが、実際には攘夷を実行したのは長州藩のみで、アメリカ船を砲撃した長州藩は、逆にアメリカの攻撃で甚大な損害を出す。
・長州は孝明天皇の大和行幸で攘夷のための親征を画策するが、攘夷に危険を感じる薩摩藩はその阻止に動き、結局は孝明天皇も薩摩の企てに荷担、京から尊王攘夷派が一掃されることになる。
・この件で長州は武力討伐の方向に進み、存在感の増した薩摩もやがては倒幕に動くなど、明治維新の流れが出来たが、孝明天皇は明治の世を見るとことなく30代で死亡する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・何か動きだけを追っかけていると、孝明天皇って何をしたかったのかが分からなくなるところがあるんですよね。何となく回りに振り回させて右往左往していた感がある。これが後醍醐天皇のような行動力のある人だったら、大和行幸以前に既に自分が立っていたと思うんですよね(笑)。
・結局は歴史に関与はしたが、ことごとく思い通りにならずに空回りした人という印象です。

 

前回の英雄たちの選択

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