教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/8 NHK 歴史秘話ヒストリア「あらためて知りたい!明智光秀」

 大河ドラマが明智光秀になったが、例によってこの番組恒例の「大河ドラマ予習企画」である。もっとも去年はこれのせいで「もう今年の大河は見なくても中身が分かった」といだてんの視聴率が低下する一因になったという説もあるが(そもそもそれ以前にドラマの内容が悪すぎたと私は思うが)、今年もそうならなければよろしいが・・・。

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明智光秀像

 

医師として活躍した光秀

 まず最初は今までほとんど不明とされていた信長に出会う前の若き明智光秀の経緯について、最新の研究成果を報告している。光秀は1528年に生まれた(これは異説もあり)とされているが、現在の滋賀県高島市の田中城に39才の明智光秀がいたという。この時の光秀は医師として活躍している。これは針薬方なる文書に明智光秀に関する記載が見つかったことから明らかとなった。後の時代の軍記物などと違い、その時代の文書であるので信頼性は高いと考えられている。田中城に籠もっていたのは足利義昭の側近であり、彼に光秀が伝えた薬の製法を記録として残したという。またこのことから光秀と将軍義昭との関係も生じることになる。

 さらに越前の称念寺には光秀がその門前に居住していたという記録があり、先ほどの針薬方にも朝倉氏の秘伝薬であるセヰソ散を光秀が伝えた記録があるという。なお針薬方には産科に関する記載が多いことから、光秀は外科兼産科の医師として活躍していたと考えられるという。

 

将軍・義昭の家臣となって頭角を現す

 1568年に光秀は義昭に招かれる。この時から光秀は義昭の家臣となった。そして三好三人衆が義昭を襲撃した際には御所に立て籠もって、味方が到着するまで2日間防戦する。この功が認められて光秀は側近に抜擢される。そして京の行政官の職を得て、京都の近くに領地ももらったという。光秀の城とされているのが宇佐山城であり、三好三人衆から京を守るための要地である。既に光秀の信頼がかなり厚くなっていたことが覗える。

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宇佐山城は石垣を用いた城である

 その後、信長による比叡山焼き討ちがある。これについて従来の説では老若男女を問わず皆殺しという残酷な処置に光秀は反対だったとされているのだが、どうも近年見つかった文書によると光秀は比叡山焼き討ちに積極的にかかわったらしいことが分かってきたという。つまりは比叡山の門徒は皆殺しというのは、光秀と信長の間での共通の考えだったらしい。この辺りから実は光秀は結構ドライな人間であったことが覗える。この後、光秀は信長から志賀郡を領地として与えられる。義昭が光秀に与えた領地の数十倍であった。この頃から光秀は実力さえあれば家柄等にとらわれずに出世させる信長に魅力を感じるようになる。

 

信長の家臣となり丹波攻略で活躍する

 そして2年後、義昭が信長に反旗を翻した時、光秀はきっぱりと義昭と決別して信長に付く(この辺りもなかなかにドライである)。そして信長から丹波攻めを命じられる。しかし丹波の奥の黒井城まで侵攻したところで、八上城の波多野秀治の裏切りに合い、退却に追い込まれる。退却には成功したものの光秀は2ヶ月ほど病に倒れ、この時に曲直瀬道三(この時代のスーパードクターである)の治療を受けたという。

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 この時期に光秀を支えた女性として、妹で信長の側室だった御ツマキ殿の名が資料に頻繁に現れるという。側室は信長との取り次ぎも行っているので、様々な情報も入るし信長との仲介役にもなる。光秀にとってはこれは非常に大きなことだったらしい(扱いが難しい主君である信長の意を事前に探ることが出来るというのは決定的に有利)。

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この山上にあるのが八上城

 満を持して八上城攻略に向かった光秀は、城を堀や柵で何重にも囲い、さらには町屋のような小屋を建てて現状に囲んでしまう。兵糧の搬入を完璧に封じた上での兵糧攻めである。5ヶ月後、八上城は落城、光秀はまもなく丹波を平定し、さらには丹後までも平定、信長の信頼がさらに篤くなる。光秀は織田家随一の家臣となったのである。

 

信長とのすれ違いが生じてついに本能寺の変へ

 そして本能寺の変となるのだが、この番組では四国説を採っている。光秀は四国の長宗我部との仲介の役を担っていたのだが、最初は長宗我部元親に四国を与えると言っていた信長の政策が変わり、光秀は板挟みの状態になってしまう。しかもさらに悪いことにこの時期に妹の御ツマキ殿が亡くなる(これは信長とのパイプが弱くなることを意味する)。それでも光秀は信長の翻意を促そうとしていたのだが、信長はついに四国攻めを決定してしまう。そして光秀は秀吉の毛利攻めの援軍を命じられる。四国の件から完全にはずされてしまったのである。

 しかもこの頃から信長が自分の子供たちに対して領地を与えるなど身内を重用する傾向を見せ始めていた。昔と変わってしまった信長に、光秀は自分はもう用済みにされてしまったのではないかとの懸念を抱くことになる。そのような不信感が高まっていた最中に、信長と嫡男の信忠が共に少ない供回りだけで京に滞在するという報が伝わる。今なら信長と信忠を一緒に葬ることが可能である。そして光秀はついに決断する・・・。


 ということでこの番組では本能寺の変の理由について、四国説をベースに置いて、信長の身内重用、そして信長と信忠が集まるという千載一遇のチャンスが複合というパターンを取っているようですが、これが最近では主流の説です。恐らく大河ドラマもこの線で進めるのだろうと思います。

 なお光秀の前半生の話は、正月に放送されていた「本能寺サミット」でも同じ内容が紹介されていました。ただあの番組は、内容があまりにグダグダだった(複論併記ばかりで番組としては結論はなし)のと、司会の爆笑問題が不快すぎたのととかで、私は扱う気にならなかった次第(笑)。

 

忙しい方のための今回の要点

・今まで不明とされていた光秀の前半生であるが、どうやら医学に秀でた武士として、越前に居住していたと推測されている。
・田中城に籠もっていたとの記録があり、その時に義昭の側近に医術を伝えたことから、義昭と面会して家臣に取り立てられた。
・その後、信長と出会う。比叡山の焼き討ちの実行は光秀であるが、信徒の皆殺しは信長だけでなく光秀の考えとも合致していたらしいことが近年発見された文書で証明された。
・この後、光秀は信長に重用され、義昭が信長に反旗を翻した時にハッキリと信長の家臣となる。
・その後も丹波攻略などで活躍、織田家の随一の家臣となる。
・しかし四国政策の変更、信長の身内重用などから自らが用済みとされていると感じ始めていた光秀は、信長と嫡男の信忠が共にわずかな供回りだけで京に訪れたのを好機とみて反乱を起こした。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・で、今年の大河ドラマですが、ネタ的にはこれではずせばもう大河は後がないでしょう。私的には期待してるんですが、切り札の真田幸村を持ってきてもあの程度の作品しか作れなかった今のNHKの制作力にはかなり危惧の念を抱いてもいます。
・比叡山焼き討ちに光秀が積極的にかかわっていたとなると、そこのところの「ダーク光秀」はどう描くんでしょうね。主人公が権力の暗黒面に落ちてしまった「平清盛」なんかは、やはり後半になるほど人気が落ちましたからね・・・。だけど無理矢理主人公アゲをしすぎても「江」みたいなお馬鹿ドラマになってしまうし。その辺りをどう描くかが私の注目する一点。

 

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