教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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1/16 BSプレミアム ザ・プロファイラー「武田信玄」

 今回の主人公は甲斐の虎こと武田信玄。戦国最強とも言われる武田騎馬軍団を率いた猛将のイメージが世間にはあるところだが、その実は悩みも多くいろいろと苦労した人物で、むしろ臆病だったという評さえある人物である。

 

父親を追放して20才で当主となる

 そもそも信玄(最初は晴信と名乗っている)は家督相続からしてスムーズに言っていない。幼少期から英明として将来を期待された晴信だが、なぜか父の信虎には疎まれた。一代で甲斐を統一した正真正銘の猛将である信虎から見ると、晴信は軟弱に見えたのかもしれない。そしてその心理的対立は徐々に高じて、ついには信虎は晴信の弟の信繁を後継とする意思を示し始める

 その頃、領内が天災で疲弊していてもそれを放置して外征を繰り返す信虎に家中から不満が高まってきた。そして重臣の板垣信方が晴信に対して、信虎を隠居させて自身が当主になることを勧める。晴信も決心し、信虎がわずかな供回りだけを連れて今川を訪問した際に、国境を閉じてその帰国を阻む。この際、事前に今川にも手を回して、信虎を帰国させないという段取りを決めていたという手回しの良さは晴信らしいところである。こうして晴信は父を追放する形で20才で武田家の家督を継ぐことになる。

 なお番組では触れていないが、この後の弟の信繁は父の意思に関わらず一切家督を狙う姿勢を見せずに信玄のサポートに徹している。彼は結局は大激戦となった第4回川中島の戦いで信玄を守って奮戦して戦死する。この戦いで武田軍は軍師の山本勘助なども失っているが、この信繁を失ったことが最も痛恨の人的損失とも言われている。信繁の有能な補佐役ぶりには「もし彼が信玄の死後も生き残っていたら、武田家の滅亡はなかった」とも言われており、私もそう思っている。豊臣秀長と並んで「あの人が生きていたら・・・」惜しまれる補佐役でもある。なお真田昌幸は彼にあやかって自身の次男(幸村)に信繁の名を与えたという。後に彼もその名に恥じない活躍をする。

 

言うことを聞かない家臣をどうやって統率したか

 家督を継いだ晴信であるが、家臣の扱いには非常に手を焼いたようである。と言うのも、そもそも盆地の多い甲斐では各地方領主が独立独歩の意識が強く、武田家に絶対服従というような強力な上下関係は確立されていなかった。その上に若い当主と言うことで完全になめられてしまっていたようである。晴信自身も嫌気がさしたのか政務をほったらかして酒に浸るなんてこともあったようだが(実は上杉謙信も同様に当主の座を放り出して逃げ出したことがある)、家臣の板垣信方に「今のあなたは信虎様以下だ」と諫められて思い直す。リーダーシップを示すには実績を出すしかないということで諏訪への侵攻を決定する。また物事の決定には合議制を取って家臣の意見を聞き、功績を挙げたものには直ちに金を褒美として与える(土地が少ないので領土よりも豊富な金を褒美にする方が与えやすい)という方法で人心掌握に努め、徐々に家臣団を形成していった。

 さらには甲州法度という法律を制定し、誰もがこの法の下では平等であることを訴え。自らもこの法に背くことがあれば責任を取ると言うことを明言した。この時代には異例のことである。さらに端的なのは武田二十四将の絵で、実はここに描かれている家臣は23人である。つまりは24人目は信玄自身であり、絶対君主ではなく、彼らと共に戦うリーダーとして自身を位置づけているのである。

 信濃を平定するために連戦する晴信だが、村上義清の前に敗北し、板垣信方を始めとする大きくの犠牲者を出すということもあった。しかし三度の戦いでようやく勝利を収めて35才で信濃をほぼ手中に入れる。

 

武田家臣団を築いた人材活用術

 40才を前にした武田晴信は出家し、武田信玄と名乗ることになる。この頃には武田軍団には多くの猛者が揃い始めていた。特に武田四天王と呼ばれたのが高坂昌信、山県昌景、内藤昌秀、馬場信春である。高坂昌信は信玄の世話係から取り立てられたが、農民の出であるために読み書きが苦手で他の家臣から馬鹿にされることが多かったという。しかし彼は信玄の「人の話をよく聞くことが大事」という言葉を守って、いろいろな人物の話をよく聞いて覚えるようになったという。実は甲陽軍鑑は高坂昌信が語った内容の口述筆記なのだという。また山県昌景は赤備えの騎馬隊で活躍し他国にも恐れられた。内藤昌秀は勇猛果敢であるが、猪突猛進で周囲の状況が目に入らない弱点があるので、冷静に情勢判断が出来る馬場晴信と組ませたという。「人は城、人は石垣」という信玄の言葉にはこういった人材活用術が含まれているという。一番面白いのは武田家で一番臆病だと言われていた岩間大蔵左衛門の扱い。彼は合戦になると恐怖で失神してしまうぐらいの人物で、他の家臣から疎まれて馬鹿にされていたという。信玄は彼を目付に起用して、「これからは家中のどんな些細なことでも知らせよ、もし報告を怠ったら斬る」と脅しつけたという。彼は必死に職務を果たし、おかげで信玄は家臣内の功績から不穏な動きまで事前に察することが出来たのだという。

 その武田信玄の前に立ちはだかったのが上杉謙信。北信濃を巡って両者は激突を繰り広げ、特に第4回の川中島の合戦では信玄の本陣にまで攻め入られ、多くの犠牲を出すことになった。この時は別働隊が駆けつけてようやく信玄は助かったが、結局は謙信との決着はハッキリとは付いていない。

 

嫡男と対立した結果、後継者を失う

 さらに信玄は今川義元が討たれて弱体化した駿河に攻め込もうとするのだが、これに対して嫡男の義信が反対する。義信の妻は今川から迎えていたために、義信にとっては今川は妻の実家であったわけである。信玄と義信の対立は結局は解消せず、最後は義信が信玄の暗殺を謀ったとして幽閉されることになり、義信はそのまま亡くなっている

 実はこれも後の武田氏にとっては痛恨事である。信玄個人としても義信の能力に期待していたようであるから、かなり惜しいところであったろう。結局は信玄の後は勝頼が継いだわけだが、そもそも諏訪家の跡取りであった勝頼は武田家内のでのカリスマがなく、そのことに焦った勝頼が暴走した結果が武田氏の滅亡につながってしまった。もし義信が健在で勝頼と手を組んでいれば武田氏の滅亡もなかったと思われる。当時の武田家は今川家と同盟を組んでいたといっても、そもそもは両家は仇敵であり、今川家が弱体化した以上は攻め込むというのは軍事的判断としては妥当である(武田が攻め込まなかったら、丸ごと家康に取られていただけである)。しかし義信はその冷酷な判断をするには若すぎたというところであろう。

 

50歳を過ぎて上洛を目指すが、その途中で亡くなる

 信玄は47才で駿河に侵攻して翌年には駿河を併合するが、この頃には信玄には病が現れていたという。病名は胃がんと推測されるとのこと。この頃から信玄は日本を平定して上洛するという野心を持ち始めていたのだが、最早余命が長くないことを悟った信玄は52才で上洛に向かう。しかし三方原で家康を撃破し、いよいよ織田とぶつかるという時に信玄が倒れて武田軍は甲斐に引き返すのだが、信玄はその途中で亡くなったとのこと。


 以上、武田信玄についてだが、正直なところ特に珍しい話はないようです。それにしても家臣の人心掌握には細心の注意を払った信玄が、結局は身内の人材不足になってしまって、自身の死後には武田家は保たなかったというのは皮肉なことである。

 

忙しい方のための今回の要点

・武田信玄は父の信虎に疎まれて、家督を弟に取られそうになったことから父を追放して20才で当主となる。
・しかし家臣は若い当主の言うことをなかなか聞かずに苦労する。信玄は実績を上げるために諏訪に侵攻すると共に、家臣との合議制を取ったり、功績のあったものには金を褒美に与えるなどの人心掌握に努める。
・信濃の大部分を平定する頃には武田の家臣団には猛者が揃うことになったが、これは信玄の巧みな人材活用術にもよるものである。
・信濃を巡って信玄は上杉謙信と何度も川中島で激戦を繰り広げるが、特に第4回の合戦は信玄の本陣まで攻め入られる危機を迎えている。
・今川義元亡き後、駿河への侵攻を決定するがこれに嫡男の義信が反対、結局はこの対立は解消されず、義信は信玄暗殺を計画した罪で幽閉され、そのまま亡くなっている。
・信玄は52才で上洛のために出陣するが、この時には既に胃がんに冒されており、途中で亡くなってしまう。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・武田信玄がもう少し長生きしていたら戦国の世の中は変わっていたでしょうね。後に信長が武田軍団を破っていますが、この時点の信長だと武田軍団とまともに当たったらケチョンケチョンにやられている可能性が高い。そうなったら歴史は根本的に変わってます。恐らく信長は謙信に働きかけて信玄の背後を突いてもらうという戦略をとるでしょう。

 

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