教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/30 BSプレミアム ザ・プロファイラー「北大路魯山人 美を追い求めた男の孤独」

 北大路魯山人。独自の美意識に基づいて芸術と美食を追究した人物として知られており、「美味しんぼ」の海原雄山(やたらに偉そうに蘊蓄たれる親父である)のモデルともされている人物である。

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北大路魯山人(出展Wikipedia)

 

養子先を転々とした子供時代の経験

 北大路魯山人こと北大路房次郎は生まれてすぐに父親を亡くし、母親に育てられないとして養子に出される。しかし養子先で虐められたりなどで転々とし、6才の時にようやく木版職人の養子となって落ち着いたという。ここで房次郎は養父に気に入られるために朝のご飯炊きをするようになる。かまどのご飯は炊き方で味が全く変わる。房次郎はこの条件を突きつめ、安い米でも美味しいご飯の炊ける飯炊き名人となる。またご飯以外の料理も自分でやって里親から褒められる。実はここでの成功体験が後の彼の美食志向とつながったとされる。

 子供の頃から絵に興味を持った房次郎は絵描きになりたいと思い、絵の学校に行きたいと養父に頼むが、そんな金はないと断られる。そこで彼は木版の仕事を手伝う代わりに絵を描くことを許してもらえるように養父に頼む。養父は絵筆などを自分で買うのならと許す。ここで彼は彫刻や絵画の基礎を身につけることとなる。

 

書で生計を立てることを考えて上京

 そして小遣い稼ぎのために賞金の出る「一字書きコンクール」に目をつける。彼はこれで賞金を稼ぎ、その後も次々と賞金を獲得する。彼の書はどんどんと上達し、養父が「うちの倅はスゴイ」と周囲に自慢するほどだったという。

 書で生計を立てることを考えた房次郎は、東京に出て書の修行をしたいと考える。そんなある日、母が東京で働いていることを知る。すぐに上京して母の元を訪ねた房次郎だが、母は非常に冷淡な態度で彼を迎える。彼はその態度が非常に癪に障ったと述べているとか。

 東京で書で身を立てようとしながらも他の仕事などをやらざるを得なかった時代でも、彼は自分の審美眼にこだわったという。また身籠もった妻と長男を残して単身朝鮮に勉強のために渡るなど、家族をも犠牲にしている。帰国後の彼は実業家・内貴清兵衛の食客となり、屋敷に住んだ彼は清兵衛の蒐集した古美術品を研究し、食い道楽である清兵衛のために料理を振る舞ったという。この料理は清兵衛に褒められたようだ。この時に清兵衛が語った「料理も芸術やで」という言葉が彼の一生の指針となったという。

 

苦肉の策から美食俱楽部が誕生、星岡茶寮につながる

 36歳で再び東京に戻った房次郎は、中村竹四郎と芸術論などで意気投合し、初めての親友となる。そして彼と共同で古美術店の大雅堂を出店する。しかし折り悪く、店の開業直後に株式市場が大暴落して大不況となってしまい、店は閑古鳥が鳴く状態。そこで窮余の策として、美術品の皿に料理を盛って出し、気に入ったら買ってもらうという方法をとる。するとこれが大評判となる。二人はこの商売を「美食俱楽部」と命名する。この頃から房次郎が名乗りだした雅号が北大路魯山人だという。

 4年後、関東大震災で大雅堂も焼失する。しかし常連客から美食俱楽部を再建して欲しいとの要望が強かったことから、そこで魯山人は竹四郎と共に出資者を募り、会員制の高級料亭である「星岡茶寮」を開業する。経営は竹四郎が行い、魯山人は顧問として現場の陣頭指揮をとった。彼は客の満足を追求し、日本中から食材を集め、従業員の立ち居振る舞いにも洗練されたものを求めて仲居には茶道や生け花を習わせたという。そして一番のこだわりは、料理の着物である器だった。星岡茶寮で使用する5000もの器は結局は彼自身が手がけた。星岡茶寮の会員には吉田茂などの政治家や島崎藤村などの芸術家などの名士が揃い、星岡茶寮の会員でないと名士とは言えないとまで言われるほどになったという。

 

自らの美意識を貫く魯山人と周囲の軋轢

 魯山人は星岡茶寮用の食器を作るための星岡窯という窯元を作って腕利きの職人を集めている。この中には荒川豊蔵なども含まれているという。また創作の参考として、古今の名品を金に糸目をつけずに蒐集して展示したという。だが彼の求める水準は極めて高く、気に入らない職人は次々と解雇したという。1年半で33人もの従業員が去って行ったという。また星岡茶寮の料理人にも同様の態度で、上着の袖口がわずかに汚れていた若い従業員を怒鳴りつけたこともあるという。しかしこのような態度は従業員との間に軋轢を生じる。当時、温厚で人望の篤い経営者の竹四郎は従業員に「旦那様」と呼ばれていたのに対し、すぐに怒鳴る魯山人は影で「どら猫」と言われていたという。

 やがて魯山人と竹四郎の間にもすれ違いが生じ始める。魯山人が器の蒐集に費やす費用が星岡茶寮の経営をも圧迫し始めたのだ。竹四郎は魯山人に蒐集を抑えるように頼むが、魯山人は「誰のおかげでここが成り立っているんだ」と取り合わない。しかしある時に亀裂が決定化する。ついには竹四郎が内容証明付き郵便で魯山人に解雇通告を送りつけたのである。それを見た魯山人は顔面蒼白してブルブル震え、口をパクパクして茫然自失となった・・・とのことなのだが、これは誰が記録したんだ?

 従業員は魯山人が怒り狂って怒鳴り込んでくるのではと戦々恐々だったのだが、魯山人は一向に現れなかった。そしてある日、魯山人が星岡茶寮に現れる。そして玄関に集まった従業員に対し、「元気にやっているかな」と一言だけ苦しそうに言うと「それじゃ」と去って行ったという。この後彼は二度と星岡茶寮に現れることはなかったという。

 唯一の親友に捨てられたというショックは相当のものだったんだろう。昔からビッグマウスの者に限って本性はチキンであるものである。本性がチキンだからこそそれを悟られないようにビッグマウスになるのである。また回りに対して厳しい者ほど回りに対しての甘えがあり、何だかんだ言っても回りは自分を受け入れてくれていると思いたがるものである。魯山人も何だかんだと厳しいことを言っても、従業員は自分のことを分かってくれていると信じていたのだろう。典型的なコミュ障である(笑)。それが解雇という現実を突きつけられて、心の底から打ちのめされたのだろう。

 

陶芸に打ち込んだことで結果としては評価を上げる

 星岡茶寮を失った魯山人には星岡窯しか残っていなかった。しかしこれが魯山人を陶芸に打ち込ませることになり、それが結果として魯山人の評価を高めることになったという。そして太平洋戦争の終戦から2年後に、魯山人は東京銀座に魯山人の作品を専門に扱う「火土火土美房」を開業する。ここで魯山人の器は日本土産として進駐軍の将校に大人気となる。そしてその評判を聞きつけたロックフェラー3世から、費用は面倒を見るのでアメリカで講演会と展覧会をして欲しいとの依頼が来る。しかしこの申し出に対して魯山人は、招待では言いたいことも言えないから自費で行くと答える。とは言うものの。実のところ費用のあてはなく、結局は500万円、現在の価値で1億円を借金で用意することになる。ヨーロッパではピカソやシャガールなどと面会したらしいが、魯山人によると「シャガールの方がピカソよりはよっぽとましだ」と散々なものである。ピカソも魯山人と同様に自意識の非常に高いタイプだったら反発もあったんだろう。

 昭和30年には魯山人を人間国宝に指定するという打診を受ける。欧米旅行の大借金のせいでろくに給料をもらっていなかった星岡窯の従業員は、経営がこれで改善すると賛成するのだが、どうやら権力に靡くのを良しとしなかった魯山人はこれを断る(このオッサンは・・・(笑))。しかしこの4年後に魯山人は末期の肝硬変でこの世を去る。この世の中を少しでも美しくしたいと考え続けた男の最期である。

 

 まあとにかく扱いにくいオッサンである(笑)。ただ彼の生涯を見ていると、元々そういう気質があったという部分もあるのだろうが、それ以外にも「孤高の芸術家としてかくあるべき」というイメージが彼の中にあり、ひたすらそれを演じていた部分というのも垣間見える気がするのである。多分孤高を気取りながらも、本音では人の評判がかなり気になっていた人物という気が私にはして仕方ないのである。彼が生涯をかけて美を追究したというのは、己の生き方に対しても自分の美意識を貫徹したということがあるのだろう。

 なお彼の器は何かの度に目にしたことがあるのだが、いつも何かが足らない未完成作のような印象を受けていた。それが一度、彼の器に料理を盛っている写真を見て「ああ、これが彼の器の完成形なんだ」と納得したことがある。つまりは作品一つで完結するのではなく、あくまで料理の着物として作っているということ。だから単体の作品として見た場合に不完全さを感じたのだろう。となると、最晩年の作品になると境地がまた変わっていると思うのだが、私は彼の最晩年の作品って見たことがあったっけ?

 

忙しい方のための今回の要点

・養子として各地を転々とした魯山人は、養子先で飯炊き名人として褒められた経験があり、これが後の美食探求につながっている。
・書で賞金を稼いだ彼は、書家として身を立てるべく上京する。
・彼は中村竹四郎と意気投合して古美術店を共同で開くが、大不況下で閑古鳥が鳴く状態となり、苦肉の策として売り物の美術品に料理を盛って出す商売をしたところこれが大盛況、これを「美食俱楽部」と名付ける。
・関東大震災で店は焼けるが、常連から美食俱楽部の再開を望む声が多く、そこで出資者を募って会員制高級料亭の「星岡茶寮」を開業する。
・経営は竹四郎が、魯山人は顧問として内部の取り仕切りを行った。また用いる器は彼が自ら星岡窯を設立してそこで製造した。
・ただ魯山人の妥協を許さない態度は従業員と軋轢を生み、また彼が創作の参考に買い集める古美術の支払が経営を圧迫するようになり、竹四郎とも亀裂が生じ、ついには解雇通告を受けることになる。
・解雇にショックを受けて一時は茫然自失となる魯山人であるが、やがて陶芸に打ち込むようになり、結果としてはこれが彼の芸術家としての評価を上げることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・以前にネットでの「魯山人ってどんな人」という質問に対して、「グルメの偉そうなオッサン」という解答を見たことがあるのだが、ある意味ではこれが本質を突いている気がする。今でも魯山人といえば残っているのは芸術家の側面よりもグルメとしてのエピソードばかりで、芸術家として見るとやや弱いところもあるんですよね。書も画も陶芸もしているんですが、いずれもどれだけ傑出した存在かと言えば実は微妙だったりする。
・エジソンがADHDだったという話は有名ですが、明らかにコミュ障気味の魯山人はアスペルガーの可能性もあるような気がしますね。人の気持ちが読み取れないから、逆に過度に人の評判を気にする。養子先を転々としたのもこの辺りに原因があったのでは。

 

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