教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/13 BSプレミアム ザ・プロファイラー「ケンカ上等!鉄血宰相ビスマルク」

 今回はドイツ帝国統一を成し遂げた鉄血宰相ことビスマルクである。

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いかにも強面のビスマルク

 

ゴロツキだった若い頃

 ビスマルクが生まれた頃のドイツは統一されておらず、大小の国がドイツ連邦を形成している状態だった。ビスマルクが生まれたのはドイツ連邦の中ではオーストリアに次ぐ強国のプロイセン。ビスマルクの父はプロイセン王に仕えるユンカーと呼ばれる農場経営をしながら地方を治める田舎貴族だったという。大らかで木訥な性格のこの父をビスマルクは尊敬していたという。しかしベルリンから嫁いできた政府高官の娘だった母とはソリが合わなかったらしい。ビスマルクは「小さい頃は心底母が嫌いだった」と語っているとか。

 寄宿学校でエリート教育を施されたビスマルクは英語・フランス語を完璧にこなすなど成績優秀だったが、大学に進んだ途端にろくに授業に出なくなる。仲間と酒をあおってはケンカに明け暮れる日常だったという。ただそんな彼も歴史学にだけは夢中になったという。歴史の裏に渦巻く利害などの話が彼を夢中にさせたらしい。この頃の彼は「プロイセンで最大のゴロツキになるか、最も偉くなるかだ」と語っていたとか。

 20歳になったビスマルクは母の望みで官僚となるが、退屈な仕事にすぐに嫌気がさしてしまい、恋人と各地で豪遊、金がなくなるとギャンブルに手を出すという生活になってしまう。恋人と別れる頃には借金と無断欠勤が積み上がり、彼は職場を逃げ出したらしい。

 

あるきっかけで政治家への道へ

 その後の彼は父の後を継いで農場経営に乗り出すが、これも数年で飽きてしまう。そんな彼の転機となったのはキリスト教のサークルに入ったことだという。このサークルにはプロイセン国王の側近達も参加していたために、ここでビスマルクに政治家への道が開けることになる。彼らの推薦でビスマルクは州議会議員になる

 またこのサークルで知り合ったマリー・フォン・タッデンという女性とビスマルクは交際を始める。しかし彼女はビスマルクが31才の時に突然に病死する。失意のビスマルクだが、一ヶ月後彼は驚いたことに彼女の親友であったヨハナ・フォン・プトカマーにプロポーズして結婚する。彼女はしっかりと家庭を守り、政治家として奔走するビスマルクを裏からサポートすることになる。

 36才でビスマルクは外交官に抜擢される。その彼がドイツ連邦議会で目の当たりにしたのは、オートとリアの巨大な権威であった。プロイセンはオーストリアに格下扱いされていた。これに反発したビスマルクは、議会で葉巻を吸うことが出来るのは議長のオーストリア代表だけという不文律を破って、その目の前で堂々と葉巻に火を付ける。まさにゴロツキ精神の発露であるが、オーストリアの公式文書はビスマルクについて「時には紳士的に振る舞うが、本性は傲慢で卑怯、過剰なうぬぼれに大ぼら吹き、オーストリアへの嫉妬と憎しみでいっぱいで常に戦いを挑んでくる」と記しているとか。ボロクソの書き方だが、要はビスマルクに危険性を感じたのだろう。

 

ついに首相に就任、プロイセンの富国強兵を進める

 47才でビスマルクはプロイセン国王ヴィルヘルム1世の意向でついに首相に就任する。当時のプロイセン議会は国王に否定的な自由主義議員が多く、国王と対立を深めていた。そこでヴィルヘルム1世は国王派であるビスマルク(国王への忠誠を常々主張していたらしい)を首相に起用したのだという。

 首相になったビスマルクはその演説で「時代の大問題を解決するのは鉄と血によってだ」という有名な演説を行う。つまりは富国強兵路線を訴えたのである。これが彼が鉄血宰相と呼ばれる所以となる。しかしこれに議会は反発、ビスマルクの提案した予算案は議会で否決される。しかしビスマルクは憲法の不備を突いて(否決された後の予算案の扱いについての決まりがなかったらしい)、国王の裁可を仰いで軍備拡張に予算を投入する

 また彼が自由主義の議員の力を削ぐために導入したのが普通選挙だった。何やら矛盾して聞こえるのだが、実は議員は貴族階級であり、そこに素朴に君主を支持している庶民らを取り込むことで自由主義派を押さえ込んで国王派を強化できるという戦略だったという(何とも複雑な話だ)。ビスマルクの執務ぶりはかなりのワーカホリックの上に極端な夜型だったらしい。朝方まで執務すると昼過ぎまで寝るという生活だったらしい。その一方でビスマルクは妻を愛して家庭を大事にしていたとか。回りが敵ばかりのビスマルクにとっては、唯一安らげるのがヨハナが守る家庭だったのだろう。

 

ドイツ連邦からオーストリアを排除するために開戦する

 ビスマルクは国内の工業化を推進し、各地を結ぶ鉄道網も整備する。50歳になって国力充実に手応えを感じたところでドイツ連邦からオーストリアを排除することをドイツ連邦議会で訴える。当然ながらこれにオーストリアは猛反発、戦争も辞さない態度を示す。こうしてついてに普墺戦争が勃発する。オーストリアの兵力40万に対し、プロイセン32万。しかしビスマルクの勝算は参謀長のモルトケの存在だった。戦争の勝敗を左右する重要な戦いであるケーニヒグレーツの戦いで、モルトケは鉄道輸送を利用して大量の兵士を三方から送り込んで、ケーニスグレーツの要塞を攻撃する当時として極めて斬新な戦術を実行する。この戦いでプロイセン軍はオーストリア軍を粉砕する。国王のヴィルヘルム1世はこの勢いに乗って戦争を継続しようとするが、ビスマルクは国王を説得してオーストリアと講和を結ぶ。戦争が長引くことによって他国が介入することを防ぐためだという。実はこの戦いに際してビスマルクは事前にイタリアやフランスに介入をしないように根回しをしていた。しかし戦いが長引くとこれらの国が介入してくる可能性があったからである。翌年、オーストリアを排除した北ドイツ連邦が成立した。この実績でそれまで反発していた議会もビスマルクを支持するようになる。

 

さらにドイツ統一のためにフランスとも戦争する

 しかしビスマルクの野望はこれで留まらなかった。彼はプロイセンによるドイツ統一を目論んでいた。南ドイツ諸国ではバイエルン王国が特に統一に反対していたので、これをどう対処するかが課題だった。また南ドイツ諸国ともめると隣国フランスのナポレオン3世がつけ込んでくる可能性が高かった。その時にスペインで王位継承騒動が起こるのでビスマルクはそれにつけ込む。候補の一人でプロイセンの分家に当たるレオポルドをビスマルクは応援する。当然のようにこれに危機感を持ったナポレオン3世はプロイセン国王のヴィルヘルム1世に戦争も辞さない態度で猛抗議する。実はこれこそがビスマルクの狙いだった。フランス大使がプロイセン国王に突きつけた要求を、ビスマルクはフランスが不当な要求をしているという印象を強める形に編集して新聞に発表する。この記事が出ると当然のことながらプロイセン国民は猛反発、南ドイツでさえプロイセン支持を表明する。そしてフランスとの戦争が始まる。モルトケはこの戦いでも鉄道を利用、軍を素早く縦横に展開、最新鋭の大砲も導入してフランス軍を圧倒する。プロイセン軍はナポレオン3世を捕虜にするという大戦果を上げる(圧倒的ではないか、我が軍は・・・)

 この戦いの一方でビスマルクは南ドイツ諸国と交渉を続けていた。彼はあくまで南ドイツ諸国の要請でプロイセン国王がドイツ皇帝になるという形にこだわっていた。これに最後まで抵抗するバイエルン国王のルートヴィヒ2世を懐柔するために、ビスマルクは浪費癖があるルートヴィヒ2世に対して多額の資金援助を約束する。資金繰りに困っていたルートヴィヒ2世はついに折れる。この援助でルートヴィヒ2世が建築したのが今でも観光地として有名なノイシュヴァンシュタイン城であるという。

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有名観光地のノイシュヴァンシュタイン城

 そしてビスマルクはドイツ皇帝の就任式を何とヴェルサイユ宮殿で行う。しかしここに来てヴィルヘルム1世がプロイセン国王の称号にこだわり、ドイツ皇帝への就任を嫌がるというドタバタまであったそうだが、ビスマルクは何とか説得してヴィルヘルム1世はドイツ皇帝に就任する。この件についてビスマルクは「この皇帝出産は難産だった。国王というものは気まぐれな欲望を抱くものだ。私は爆弾になって建物全体を粉々にしてやろうと何度思ったことか。」と語っているとか。元々ヴィルヘルム1世がドイツ統一を望みながら、土壇場になっていきなり皇帝就任を嫌がったのには、さすがのビスマルクもブチ切れ寸前だったんだろう。この4ヶ月後ドイツとフランスは講和する。

 

ドイツの近代化を進めるが次の皇帝と対立して辞職

 ビスマルクは統一されたドイツ国内の法制などを整備、さらにドイツの近代化を図る。フランスから莫大な賠償金を得たこともあってドイツ国内の景気は絶好調でドイツの工業生産は飛躍的に伸びていく。また各国と複雑な同盟関係を結び、諸勢力のバランスを図っていく。

 こんな時に不平等条約改定を目指す日本の岩倉使節団がドイツを訪れたという。各国で丁重に対応されながらも条約改定については全く相手にされなかった岩倉使節団に対し、ビスマルクは「諸君らは各国が礼儀を持って接していると思っただろうが、それはあくまで建前に過ぎず、現実は弱肉強食である。」と語ったとのこと。日本はこのビスマルクの言を入れたのか、この後は富国強兵路線に突き進むことになる。

 しかしドイツ統一の17年後、皇帝ヴィルヘルム1世が90歳で亡くなり(かなりの長寿である)孫のヴィルヘルム2世が即位する。72歳のビスマルクと29歳のヴィルヘルム2世は考えも違い、両者の間に溝ができはじめる。そしてついに74歳でビスマルクは首相を辞職する。その4年後に妻ヨハナが70歳でこの世を去り、4年後にビスマルクは83歳でこの世を去る。


 かなりの猛烈政治家でしたが、やはりビスマルクの本質は外交官だったんでしょうね。とにかく情勢を見る能力が長けてます。これに比べるとアメリカにご追従するしか知らない今の日本の政治家は・・・。

 

忙しい方のための今回の要点

・若い頃はケンカばかりやっていたゴロツキのビスマルクだが、キリスト教のサークルをきっかけに政治家の道へ進む。
・王政派であった彼は、プロイセン王ヴィルヘルム1世の意向によって首相に選ばれる。
・ドイツ連邦へのオーストリアの影響力を排除することを考えていたビスマルクは、議会の反対を圧して軍事拡大路線を驀進、ついにはオーストリアをドイツ連邦から排除することを主張してオーストリアと戦争を行う。
・オーストリアとの戦争は、鉄道の輸送力を駆使して巧みな機動戦を行ったモルトケの手腕によって勝利、プロイセンはオーストリアを排除して北ドイツ連邦を結成する。
・さらに南ドイツ諸国の取り込みを図るビスマルクは、フランスを挑発して戦争に持ち込む。この戦いでもモルトケの鉄道を使用した戦略と、新型大砲の導入で圧倒的に有利に戦局を進める。それと同時に南ドイツ諸国と交渉、ドイツの統一に反対するバイエルン国王のルートヴィヒ2世に資金援助を約束するなどして南ドイツの取り込みに成功する。
・こうしてドイツ統一をなし終えたビスマルクはドイツの近代化を促進する。
・しかしヴィルヘルム1世の死後に即位したヴィルヘルム2世と間に溝が出来、ビスマルクは首相を辞職する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・彼はワーカホリックでしょうね。確たる理念があって、それに対して一直線に突き進んだというタイプ。まあ普通の人生を歩めないタイプの人間だったんでしょう。だから若い頃には完全にゴロツキだった。こういうタイプはこのような変革期に大活躍することがあるんですが、平和な時代には無駄な争乱を起こすだけのはた迷惑な奴になります(笑)。

 

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