教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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2/3 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「汚名返上! 武田勝頼と豊臣秀次は名君だった?」

 武田勝頼と豊臣秀次。方や武田家を滅ぼした愚息と言われ、方や乱暴狼藉の摂政関白などと言われている。しかしそれが本当に彼らの真相なのだろうか。今回はそんな不遇な彼らの名誉回復を目指している。

 

元々は跡継ぎではなかった勝頼

 まず武田勝頼であるが、彼が武田家を継いだ経緯にはやや事件がある。今川義元の死で弱体化した今川領への侵攻を信玄が決意した時、嫡男の義信は真っ向からそれに反対する。彼は義元の娘を妻にしており今川派である。結局義信は幽閉されることになり、最後は切腹をしている。そして嫡男がいなくなり、次男は既に出家、三男は若くしてなくなっていることから、四男の勝頼に跡継ぎの座が回ってきたというわけである。

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武田勝頼

 しかし家臣達はそれに反対した。というのも勝頼は諏訪御料人の息子であり、既に諏訪勝頼として諏訪家を継いでいたからである。家臣からすると武田家の人間ではなく、むしろ武田の家臣として同格の立場という認識だったのである。それでも信玄が勝頼と家臣の間を取り持つことが出来れば良かったのだが、信玄が亡くなったのはその2年後。勝頼と家臣との間にわだかまりのあるまま、勝頼は武田家を継ぐことになったのである。

 

求心力を求めて実績を上げようとするが・・・

 こうなるとそもそも家臣団に求心力が欠ける。それを勝頼は実績を上げることで解消しようと考えた。そして織田領の東美濃に侵攻、さらには家康領にも侵攻して、信玄も落とせなかった堅城・高天神城を落として家康をあわや浜松城に孤立させる寸前まで追い込んだのだという。この勝頼の猛攻には信長も同盟を求めて上杉謙信に送った書状の中で「名将である」と語っているという。

 しかしこれで家臣達が心服するかと思えばそうではなかった「これでいよいよ我々の言うことを聞かなくなる」と心配したという。そして織田・徳川連合軍と決着を付けるべく長篠合戦に挑むことになる。連合軍3万8千に対して武田軍1万5千。兵力的な劣勢下で家臣達は撤退を進言したが、勝頼は突撃を命じる。しかしこの戦いは織田の3000丁の鉄砲の前に惨敗、信玄以来の多くの家臣を失うことになってしまう。

 

長篠の大敗の後でも武田家を再建した勝頼の手腕

 この惨敗のせいで勝頼は愚将として語られることが多いのだが、実際に愚将なら武田家はこの直後に滅んでいるが、勝頼はそこから立て直しを図って武田家を延命させている。勝頼は検地を行って家臣の知行を明確にすると共に、軍事割り当てもハッキリとさせて武田軍団を立て直す。実際にこの番組では語っていないが、武田領侵攻を計画した信長は、予想外に早い武田軍の再建に一度は侵攻を断念している。

 また勝頼は信玄の頃の仇敵であった上杉謙信と同盟を結んでいた。さらには北条氏政とも同盟を結ぶことを考えていたらしいが、これは謙信の反対で頓挫したという。もし甲相越の三国が同盟を結べば、軍事力的に織田・徳川連合軍をしのげた可能性がある。

 

しかし状況が味方せず、浅間山の噴火が致命傷に・・・

 しかし勝頼の思惑とは異なった方向に世の中は動く。なんと北条氏政は織田信長と同盟を結んで武田領を東から侵略し始める。挟撃されることになった勝頼は不利になっていく。そしていよいよ信長の本格侵攻が始まるのだが、折り悪くこの時に浅間山が噴火したのが家臣達の動揺を誘ったという。と言うのは浅間山が噴火した時には関東に政変が起こると言われていたからだという。この戦いでは信長の根回しによって勝頼は朝敵とされていたし、その上に浅間山の噴火で、家臣達はいよいよ勝頼が天に見放されたと離反したのだという(これだけが原因だとは思えないが)。そして天にまで見放された勝頼は天目山で生涯を終える。

 ってことは「真田丸」での、昌幸「武田家は浅間山が噴火しない限りは大丈夫です」ドッカーン!「噴火しちゃったよ・・・」ってのは一応意味があったと言うことか。もっともあのドラマの駄目さはその程度では救いにならないが。

 

秀吉に仕え続けた秀次の半生

 次は豊臣秀次であるが、関白の座を秀吉に譲られたものの、秀頼が生まれて目が眩んだ秀吉に切腹させられてしまった悲運の人物である・・・って時点でもう既に彼が暴君のはずなんてないってことが分かる気がするが・・・。

 秀次は秀吉の姉の子である。実子のいない秀吉のために実子の代わりにあちこちに養子として送られたらしい(人質代わり)。ただ彼自身はその養子先で和歌や兵法などの教養を身につけたそうだから、粗略にされたということではないようだ。

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豊臣秀次

 ただ合戦においては小牧・長久手の戦いで大将として池田恒興と共に別働隊を率いたものの、作戦を見抜いた家康に急襲されて大敗、命からがら逃げ帰る(池田恒興は戦死)という大失態をしでかしている。この時は秀吉にアホか馬鹿かと罵倒されたようだ。もっともその後で「お前を私の後継にすることを考えている」と懐柔はしているようだが。とりあえず秀次はその後、雑賀攻めや四国の長宗我部攻めで功績を挙げて汚名の返上には成功したとのこと。秀次はその功績で近江の20万石を拝領している。近江は京に近い要地であるから、秀吉の期待が覗える。

 

近江八幡を名君として治め、関白位を譲られるが・・・

 秀次がそこで築いた城下町が今日の近江八幡であるが、通常の城下町のような防御を重視した迷路構造ではなく、碁盤の目に道路を通し、びわ湖から水運のための水路をつなぐなど商業を重視した先進的な都市設計を行っている。さらに上下水道まで整備していたと言うから驚きである。このような統治を行ったわけであるので、当然のように地元では暴君どころか名君として慕われている

 そして秀吉から関白を譲られる。これは秀吉が補佐役である弟の秀長と最初の息子の鶴松を失った時だという。失意の中で秀吉が自分の後継を定めたのである。しかしそれが暗転するのは秀吉に秀頼が生まれたこと。自分の実子(ではないというのが今では通説だが)の秀頼に後を継がせたくなった秀吉は秀次に謀反の罪を着せて切腹させたばかりか、妻子まで含めて皆殺しにする。この時期の秀吉はもう正気を失っていたと考えられる。そしてこの秀吉の暴挙を正当化するために秀次は暴君ということにされたのである。ちなみに秀次の謀反の疑いに対しては回りの者(ルイス・フロイスまで含めて)全員が「秀次は謀反を起こすような人物ではない」と証言を残しているようで、濡れ衣であったことはまず間違いないようである。

 

 勝頼は父親が偉大すぎたばかりに「父親に比べると器量が小さい」と見られ、さらには部下からは若輩と軽んじられて焦ったというのが現実。決して器量に劣るわけではなかったのであるが、少なくとも運はなかったと言えるだろう。

 秀次に関しては秀頼可愛さで完全に正気を失った秀吉の犠牲者。秀次自身は野心のない人だったようなので、回りが盛り立ててくれたら意外に無難に2代目関白をこなしたように思われる。結局はこの秀吉の軽挙妄動が豊臣家を滅ぼし、秀頼を切腹に追い込むことになってしまうのは皮肉である。

 

忙しい方のための今回の要点

・武田勝頼は武田家を滅ぼした愚息と見られがちだが、そもそも後継者とみられていなかったのが嫡男義信が亡くなったことで急遽後継に立てられたという経緯があり、部下の信頼を得ていなかった。
・結局は部下に信頼されるには合戦で勝利するしかないと考え、実際に合戦では強さを見せるのだが、それでも部下の心をつかむことは出来なかった。
・長篠の合戦の大敗後も武田家を建て直したのであるが、情勢が悪化していく中、浅間山の噴火で武田家が天から見放されたと動揺した家臣が離反、勝頼は自害に追い込まれる。
・豊臣秀次は秀吉の実子の代わりとして人質に出されるなど、ずっと秀吉のために働いてきた人物である。
・小牧・長久手の戦いでの大敗などの失敗はあるが、その後の合戦で功績を上げ、近江20万石を拝領して、近江八幡の城下町を整備するなどして地元では名君と慕われる。
・秀吉から関白を譲られるが、その後に秀吉に秀頼が生まれたことで邪魔者とみられ、結局は切腹に追い込まれる。その際に秀吉を正当化するために、暴君伝説やら謀反を目論んだなどの話がでっち上げられる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・武田家をすんなりと嫡男の義信が継いで、勝頼がその家臣として働いていたら武田家は滅亡しなかっただろうと思われます。義信も決して無能ではなかった(というよりも、信玄は義信の器量にかなり期待していた)ですから。信玄も親を追い出した後ろめたさがあったんでしょうね。だから自分もそうされるのではと警戒した。
・秀次は器量があった人とは正直感じないのですが、野心がなくて秀吉に真面目に仕えた人だろうと思います。近江八幡の城下の整備などを見ていても、秀次の能力と言うよりも側近に優秀な人物がつけられていたのでしょう。動乱の時代には頼りないですが、天下が定まった後だったら、こういう人物こそが無難に天下を運営できたような気がします。

 

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