ロシアとの勝算の薄い戦争に突入した日本
大国ロシアと新興国だった日本が戦った日露戦争。しかしこの戦いはそもそも国力も兵力違いすぎていて、日本にとっては勝算のない戦いだった。それを紛いなりにも勝ち(正確にはせいぜいが判定勝ちで、実際は引き分けに近い)に持ち込めたのは3人の男の活躍があるという。
まず日本がロシアと戦うことになった経緯だが、不凍港を求めてのロシアの南下政策にある。ロシアはウラジオストクからさらに南下して旅順港を要塞化していた。また満州にも進出しており、日本海を視野に収めていた。これは日本にとっては大きな脅威あり、そのために日本は勝算のないままズルズルとロシアとの戦いに突入してしまう。
日本がロシアに勝つためにはとにかく短期決戦で情勢が優位なうちに講和に持ち込むしか方法がない。短期決戦のためには旅順港の太平洋艦隊を撃滅する必要があった。最初は海軍による旅順港攻略が実行されたが、要塞化された旅順港からの砲撃で海軍は撤退に追い込まれ、旅順攻略は陸軍に託されることになる。
陸軍で旅順攻略を行った乃木希典
その任に当たったのが第3軍司令の乃木希典であった。乃木は日清戦争の際に清国の要塞であった旅順を1日で落としたという実績があった。しかし実際に旅順を攻撃した乃木は旅順が日清戦争の頃とは全く変わってしまっていることをその時に始めて知る。コンクリートの防壁と化していた旅順要塞の前に日本軍の突撃は通用せず、総兵力5万1千のうち、戦死者5千、負傷者1万の大被害を出す。1/3の戦力が初戦で失われたのである。
大被害を出した乃木には非難が殺到する。その乃木をさらに追い詰める報が届く。バルチック艦隊がとうとう出航したというのである。日本近海に到着まで3ヶ月ほど。旅順攻略のタイムリミットが迫っていた。そこで大本営は攻撃目標を旅順要塞から203高地に変更、203高地から湾内に停泊している太平洋艦隊を砲撃する作戦に切り替える。しかし遮蔽物のない203高地の攻略は敵の攻撃をまともに受けるので大きな犠牲を出す可能性が高い。乃木はこの作戦変更に反対し、塹壕で旅順要塞に接近する作戦を実行する。
しかし塹壕を掘って要塞に接近し、爆弾を仕掛けたものの厚さ1.3メートルコンクリート壁を爆破することは出来ず、作戦は失敗する。やむを得ず乃木は203高地の攻撃を命じる。9日間に及ぶ戦いで203高地の攻略に成功、旅順港内の太平洋艦隊に砲撃して壊滅させることに成功する。しかしこの戦いでのロシア軍の死傷者4600に対し、日本軍の死傷者は1万7000に及ぶ。「海は死にますか、山は死にますか」の世界である。
日本海海戦でバルチック艦隊に勝利した東郷平八郎
乃木の旅順攻略成功を受けて、連合艦隊司令長官東郷平八郎はバルチック艦隊を迎え撃つことになる。太平洋艦隊との挟撃の危機は脱したが、それでも世界最強と言われるバルチック艦隊を相手に連合艦隊の苦戦は必至だった。それを勝つための策は参謀の秋山真之の考えた丁字戦法だった。敵前で回頭をして全砲門で敵艦を先頭から叩くという戦法であるが、回頭中に敵から攻撃を受ける可能性もある一か八かの戦法でもある。
ただしこの戦法を実行するには敵艦隊と正面から相対する必要がある。しかしウラジオストク港に入港を図ると考えられるバルチック艦隊の取りうるルートは、対馬海峡ルート、津軽海峡ルート、宗谷海峡ルートの3つが考えられた。東郷は長距離を航行してきて疲労しているバルチック艦隊は最短ルートの対馬海峡ルートを取ると読んで朝鮮半島の鎮海湾で待ち伏せする。
しかし待てど暮らせどバルチック艦隊は現れなかった。軍では津軽海峡を経由するのではという意見も強かった。移動するべきか待つべきかの選択を迫られる東郷は、もう1日だけ対馬海峡で待つと決断する。
すると偵察に出ていた信濃丸がバルチック艦隊を発見する。こうして連合艦隊は決戦に臨む。敵前回頭する艦隊にバルチック艦隊から砲撃が行われるが、幸いにして致命的な被害はなく、連合艦隊による猛攻で敵旗艦は被弾、司令官も負傷してバルチック艦隊は散り散りになって降伏する。連合艦隊は見事な勝利を収める。この勝利の背景には日本艦隊が訓練を重ねて練度が高かったこともあるが、遠距離航行をしていたバルチック艦隊の船体にはフジツボなどが貼り付いてかなり船足が落ちていた(その上に疫病も流行していたという話もある)などのコンディションの悪さがあったという。そもそも日本近海の戦いであるので、小型艦艇まで動員できる日本の方が地の利はあったわけである(実際に2日目以降の戦いなどでは水雷艇等の小型艇がかなりの戦果を上げている)。
講和交渉を成立させた小村寿太郎
こうして戦局は有利になったものの、これはあくまで一時的なものだった。ロシアの本土にはまだ無傷の精鋭部隊が存在しており、これらが参戦してくれば日本のジリ貧は目に見えていた。ここで舞台は外交交渉に移る。この困難な交渉を担当したのが外務大臣の小村寿太郎である。日本はアメリカのルーズベルトに働きかけて講和の仲介を依頼する。しかしそもそも敗北したつもりのないロシアは交渉に乗ってこない。そんな時、ロシア国内で社会主義革命が勃発、戦争どころでなくなったロシアはようやく講和交渉の席に着く。
しかし小村に課されていたハードルは高かった。日本の要求は 1.朝鮮半島における日本の優越権を認める。2.満州からロシアが撤退する。3.遼東半島の租借権と鉄道の権利を日本に譲り渡す。さらに樺太の割譲に15億円の賠償金であった。この条件をロシアがまるまる呑むはずがないと小村は考えていた。
小村の交渉相手はロシア全権大使のセルゲイ・ウィッテ。手練れの外交官だった。そもそも敗北したつもりのないウィッテは高圧的な態度で交渉に臨んでくる。しかし小村は相手の戦略を承知してそのペースに乗らずに、理路整然と日本の主張を展開する。交渉の結果、日本の主な要求をロシアは認めたものの、樺太の割譲と賠償金の支払いは断固として拒否した。それどころか「日本は賠償金欲しさに戦争を続けようとしている」と国際世論に訴えて日本が非難を浴びるようになる。交渉が決裂したら日本の敗北は必至。小村は悩むが、そこにアメリカが水面下の交渉でロシアのニコライ2世が南樺太の割譲を承認したとの情報が入ってくる。そこで小村は賠償金の要求は取り下げて、南樺太の割譲で手を打つ。皇帝の承認内の条件に収まったことでウィッテもそれで講和を飲む。
こうして講和が成立したのであるが、賠償金を獲得できなかったことで、状況を何も知らない国民の間には不満が爆発して暴動まで起こったという。結局、この時に大国ロシアに勝ったとおごった日本は、その後さらに絶望的な戦争に突入してしまうことになるのである。
日本の勝利に貢献した3人とのことだが、乃木に関しては高潔な人物であったのは間違いないが、司令官としての能力は疑問である。結局は乃木は最後まで正攻法の正面攻撃ばかりしか行っておらず、詭計の類いの持ち合わせはなかったのは間違いない。軍の司令官クラスは人格が高潔な人物が向いているとは言えず、それこそ織田信長のような悪党の方が有能だったりするわけである。
なお日露戦争において大功績を上げた東郷平八郎は、それ故にほとんど神格化されてしまって、後々老害の最たるものになってしまったという話もある。日本海軍の近代化を妨げた元凶の一人とも言われている。人間、過去の成功体験にいつまでもぶら下がるのは良くないという話でもある。
忙しい方のための今回の要点
・不凍港を求めての南下政策を行うロシアに日本が脅威を感じたのが日露戦争の原因。
・しかし国力に差がありすぎるので、日本は短期決戦で講和に持ち込むしか勝つ方法は存在しなかった。
・旅順に太平洋艦隊の海からの攻撃に失敗した日本は、陸軍による旅順攻略を行うことにし、乃木希典が大将になる。
・しかし旅順要塞攻略には失敗。目標を203高地に変更し、多くの犠牲を出しながらもようやく砲撃によって太平洋艦隊殲滅に成功する。
・バルチック艦隊を迎え撃つ連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、バルチック艦隊が対馬海峡を通過すると読んで待ち伏せする。
・連合艦隊はバルチック艦隊を丁字戦法で撃滅することに成功する。
・日本が有利となったところで小村寿太郎が講和交渉に臨むが、負けたつもりのないロシアとの交渉は困難を極めた。しかし賠償金要求を放棄することで講和が成立する。
・しかし賠償金を取れなかったことで国内では不満が爆発、暴動まで発生する。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあこの頃から、国民が勝手に戦勝に浮かれて収拾が付かなくなるという危険な兆候が既に出てますね。これらの状況がそのままあの破滅的な第二次大戦にまで引きずられてしまうのですが。
・勝ったとはいえ、この戦争は日本の損害が大きすぎるんですよね。やっぱりこの頃から兵隊は使い捨てみたいな戦い方をしている。これが第二次大戦ではもっとひどくなって、結局はそれが原因で崩壊してしまうのですが。
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