教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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3/9 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「謙信が招いた?戦国最大の兄弟げんか・御館の乱」

養子同士の後継者争いの御館の乱の真相?

 上杉謙信の後継を巡って景勝・景虎の2人の養子が争ったのが御館の乱である。この争いは結果としては戦国のその後の行方にまで大きな影響を与えた。この戦いはそもそも謙信が後継を決めないまま脳卒中で亡くなったことによるとされているのだが、実はそれは違うというのが今回の番組の肝。

 

北条家から養子になった景虎

 まず上杉景虎だが、彼は北条氏康の7男である。元の名は北条三郎。彼は北条氏康がそれまでの武田信玄との同盟を破棄し、新たに上杉謙信と同盟を結ぶことになったことから謙信の元に養子として送られた。謙信は彼を姪と結婚させ、自身のかつての名であった景虎を与えた。これは内外に対して彼が自身の後継者であることを示したことになる。景虎の結婚の翌年には息子の道満丸も生まれて前途は洋々に思われた。

 しかしその数年後に謙信は景勝を養子として迎えることになる。そうなったのは北条氏に問題があった。景虎が謙信の養子となった翌年、北条氏康が亡くなり息子の氏政が全権を握るようになると、彼は水面下で武田と同盟を模索するようになる。そもそも氏政は信玄の娘を正室に迎えており、武田家との縁が深い。どうやら氏政は北条・武田・上杉の三国同盟を考えていたらしい。

 しかし武田を不倶戴天の敵と考えている謙信にとってこれは裏切り行為のようなものであった。激怒した謙信は北条との同盟を破棄し、上杉と北条は敵対することになる。こうなった以上、自分は最悪は処刑、良くても追放と覚悟する景虎だが、謙信は景虎に対しては養子のままで据え置く。この謙信の温情に景虎は深く感謝したという。

 

家臣の不安を受けて景勝を養子とした謙信

 だが上杉と北条の関係は悪化の一途だった。そうして上杉と北条が争奪を繰り広げていた関宿城が北条に落ちるという事件が起こる。関宿城は関東の拠点であり、これは上杉家にとっては看過できない事態であった。こうなってくると家臣の間からは景虎が後継者であることに対する不安が持ち上がってくる。そこで謙信は新たに自分の甥に当たる景勝を養子として迎える。景勝は謙信の姉の仙桃院と長尾政景の子で、父の死後は叔父である謙信に引き取られて我が子のようにかわいがられた後、実家に戻って上田衆の長として実戦に参加していた。謙信は景勝に自身の官職の弾正少弼を譲る。そして景勝を筆頭とした家臣団の名簿を新たに編纂する。

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上杉景勝

 

実は謙信は後継者を指名していた

 こうして二人の後継者が立つこととなったのだが、謙信が後継者を指名しないまま脳卒中で亡くなってしまったので2人は争いになる・・・と言われてきたのだが、歴史家の乃至政彦氏によると、謙信は脳卒中ではなく内臓疾患で亡くなっており、後継者に対しての遺言を残しているというのである。その内容とは、景勝が中継ぎとして後を継ぎ、後に道満丸に家督を譲るというもので、景虎も景勝もこれで納得していた(景勝は一生独身を通すつもりだった)というのである。実際に新潟県の平等寺薬師堂の中に残る戦国時代の落書きに「景虎と景勝が名代を争って越後が大混乱となった」とあるのだという。名代であるから幼い当主の後見人である。つまりは道満丸の後見人を争ったのだという。

 謙信の死後、景勝は強引に春日山城の本丸を占拠すると三の丸にいた景虎に銃撃をしたとされているのだが、そもそも春日山城にはそのような痕跡は全くないのだという。つまりは両者はすぐには争っていないと考えられるという。またそもそもこの2人の養子の関係は決して悪いものではなかったとの話も残っている。

 

両者が争うようになった理由

 ではなぜ両者が争うことになったかであるが、そもそものきっかけは隣国会津の蘆名盛氏であるという。好戦的な盛氏は謙信に弔問の使者を送る一方で越後侵略を狙っていたという。この盛氏の動きに上杉家の古参の重臣である神余親綱が気付き、独断でそれに備えた行動をとる。しかしそれが景勝には謀反を企んでいるよう見え、弁明する親綱に対して誓詞を出すように要求したのだという。しかしこれは長年上杉家に忠誠を尽くしてきた親綱にとっては屈辱的であり要求を拒否、そうこうしているうちに蘆名が越後に攻め込んできたのだという。蘆名の侵攻は食い止めたものの、これで親綱が正しかったことが証明されて景勝の面目は丸つぶれとなり、家臣の信望が失墜する羽目になってしまう

 この事態に謙信の義父である上杉憲政が景勝と親綱の仲介に乗り出すが、両者はどちらも一歩も引かず(要するに頑固者同士である)、親綱は景勝の元を去ることになってしまう。この事態に憲政らも融通の利かない景勝を見限って代わりの当主として景虎を擁立しようと動き始める。景虎は思い悩むものの結局は立つことになる。

 

上杉家を二つに割っての争い

 両者は上杉の勢力を真っ二つにすることになる。景虎は春日山城の北東の御館に立て籠もり、両者の軍勢がまともに衝突することになる。景虎は春日山城を攻めるが堅城である春日山城に攻めあぐねる。景虎は北条に援軍を要請するが、当時は関東で戦闘中で援軍を送れなかったので、氏政は同盟を結んでいた武田勝頼に援軍を依頼する。勝頼はこれに答えて2万の大軍を率いて越後に出陣する。

 不利な状況に追い込まれた景勝であるが、ここで秘策を打つ。勝頼に使者を送り、金品と領土の供与を約束して進軍を停止させるのである。元より戦闘意欲の低かった勝頼は両者を和睦させることで一応北条の依頼には答えた形にしようとする。しかし勝頼が撤退した後にすぐに両者の衝突は再開することになる。

 ようやく関東での戦闘を終えた氏政は弟二人を越後に派遣する。彼らは景勝方の城を落として坂戸城に迫る。しかし坂戸城が包囲に耐えるうちに冬が到来、積雪で身動きが取れなくなる前に北条軍は撤退を余儀なくされる。こうなったところで景勝は景虎に総攻撃をかける。脱出した憲政は道満丸を連れて景虎との和議を求めて春日山城に向かうが、途中で景虎の直臣によって二人とも斬殺される。そして景虎は鮫ヶ尾城に逃げ延びるが、包囲されて自害する。

 

乱の終結と戦国の歴史に与えた影響

 景勝は事態の解決に喜んだと言うが、景虎の首を見て涙したという話もあるという。この義兄弟は実は仲は悪くなかったという話もあるので、景勝としても複雑な心中があったのかも知れない。当人同士よりも回りが両者を担いで対立してしまったので、どちらも引くに引けなくなってしまったというのが実際のところだろう。

 この乱で北陸一帯を支配していた最強軍団の上杉の武力は大きく削がれることになってしまう。結局はそのために信長の侵攻に対抗することが出来なくなり、結果的に上杉は秀吉の時にその軍門に下ることになる。例えばもしこの乱で景虎が勝っていたら上杉・北条・武田の同盟が成立していた可能性が高く、そうなっていたら信長といえども易々とは手が出せず、戦国時代のその後は多く変わったであろうと考えられる。

 

 景虎最期の地、鮫ヶ尾城は私も訪問したことがありますが(鮫ヶ尾城が続100名城に選定されて間もない頃です)、あちこちに景虎関係の碑の類いがあり、景虎人気にあやかっていました。私は詳しくは知らないのですが、景虎を主人公にしたコミックか小説があってそれが腐女子に大人気とのことで、そっち方面では景虎の人気は圧倒的で、元祖笑わない男のコミュ障景勝はボロカスらしいです。そっち方面の聖地巡礼が結構来ているという話を現地の観光案内所で聞きました。

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景虎最期の地・鮫ヶ尾城

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 まあここで養子二人が争わずにガッチリとタッグを組んでいたらというのは、よくある戦国ifシリーズの一つなんですが、一番影響力が大きいんですよね。とにかく謙信は亡くなる直前に織田軍を手取川でケチョンケチョンにやっつけているので、謙信亡き後と言っても上杉の力は侮れないんです。上杉が自滅の形にならなかったら、信長の侵攻は容易には行かなかったでしょう。そして上杉健在なら信長も武田の攻略に全力を傾けるというわけにもいかないので、武田が存続し、その間に勝頼は損耗していた武田軍を建て直す余裕を得ることになります。東が定まらない状況では西への侵攻もままならず、結局は信長は天下を平定できずに畿内周辺だけを平定しただけで終わる可能性が高くなります(光秀が謀反を起こしている間もなく、結局は本能寺の変は起こらず信長は病死する)。そうなると息子の信忠の器量次第ですが、何にせよ戦国時代が延びる形になるので、伊達政宗なんかにも天下の目が出てくるという可能性もありです。秀吉、家康の出番はないでしょう。徳川家は馬鹿息子・秀忠の代になったら武田に飲み込まれてしまう可能性もあるし、もしかしたら明智光秀が謀反を起こすのではなく、どこかの段階で秀吉が謀反を起こしていたかも。

 

忙しい方のための今回の要点

・御館の乱は謙信が後継者を定めないまま脳卒中で亡くなったためと言われているが、実はそうでなかったという考えがある。
・養子の一人の景虎は北条氏康の7男で、北条と上杉が同盟した時に養子となり謙信の姪との間に息子の道満丸を儲ける。しかし上杉と北条の同盟はその後に決裂してしまう。
・しかし謙信は景虎を変わらずに後継者の座に置いており、景虎はそのことを深く感謝している。
・だがその後、関宿城を巡る争いなどで上杉と北条の争いはさらに激化。景虎が後継であることに不安を抱く家臣が増加しくる。そこで謙信は甥である景勝を養子にして家臣団の筆頭に置くことにする。
・謙信の死因は脳卒中ではなくて内臓疾患であり、後継者について明確な遺言を残していたと考えられている。その内容は中継ぎとして景勝が後を継ぎ、道満丸の成長後に家督を譲るというもので、景勝も景虎もこれで納得していたという。
・しかし謙信の死後、隣国の蘆名盛氏の件で景勝が重臣の神余親綱と対立、結果的に神余親綱は景勝から離反し、景勝の家臣からの信頼も失墜することになる。
・景勝を見限った者達が代わりの後継者として景虎を担ぎ、結局は景勝と景虎は争うことになる。
・景虎は春日山城を攻めるが落とすことが出来ず長期戦となる。景虎は北条に援軍を乞い、北条氏政は同盟していた武田勝頼に援軍を要請するが、勝頼は景勝から金品と領土の提供を受けて両者を和睦させただけで撤退する。
・勝頼の撤退後、両者の戦闘は再発。景虎は再び北条に援軍を要請するが、北条から送られた援軍は積雪前に撤退することになり、その間に攻撃を受けた景虎は鮫ヶ尾城で自害することになる。
・結果としてこの争いは上杉家の武力と国力を大幅に削ぐこととなり、それは戦国の後の歴史に大きな影響を及ぼす。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・大河ドラマ「天地人」でも玉鉄演じた景虎は爽やかなイケメンという趣で、なかなかの人気だったと聞きます。どうも世間一般では景虎の方が人気ですかね。まあ景勝が上杉家を継いだ後、上杉はドンドンと没落して結果的には米沢に押し込められることになるわけですから、結果論的に評価が悪くなってしまうのは仕方のないところではあります。甚だしきは直江兼続の操り人形だったように言われることまであるし。

 

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