教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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3/16 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「秀吉 中国大返しの真実」

 今回は本能寺の変の後、秀吉が天下を取る理由となった中国大返しについて。ところでこの番組ではいつも本能寺の変というと炎の中で後向いて立ってる信長の映像が出てくるが、この映像見るのは何十回目だろう?

 

本能寺の変発生時の諸将の配置

 まず本能寺の変が発生した時、秀吉は毛利と対峙して備中高松城を水攻めしている最中だった。京都までの距離は200km。そして秀吉は本能寺の変が発生した翌日6/3に信長の死を知っている。しかし実はもっと京都に近くにいたのが丹羽長秀と織田信孝。四国攻めのために大阪にいた彼らは、その日6/2のうちに信長の死を知った。しかし箝口令を敷いていなかったために兵が動揺して逃げ出して、明智討伐に向かうどころか守りを固めるので精一杯だったとか(あまりに無能です)。

 柴田勝家は300km離れた北陸で上杉景勝と戦闘中。勝家が本能寺の変を知ったのは数日後の6/5~6/7で、すぐに北の庄城に引き上げたのだが、明智光秀から本能寺の変の計画を知らされていた上杉景勝が追撃の態勢を整えていたためにそこから動けなくなってしまった。また関東で北条と戦っていた滝川一益が本能寺の変を知ったのは6/7~6/9の間だが、同じ頃に北条氏もそれを知ったために北条の猛反撃を受ける羽目になる。結局は滝川一益はズタボロになりながら命からがら逃げ帰ってくるのがやっとであった(一番散々な目に遭っている)。

 

秀吉がいち早く動けた理由

 こうして比較すると秀吉が距離の割に本能寺の変を知ったのが非常に早かったのが分かる。だから「実は秀吉は本能寺の変を事前に知っていた」という説があるのだが、静岡大学の小和田鉄男氏(この番組の御用達歴史学者ですね)はこの説を一蹴する。秀吉が水攻めのために現状に城の周りを固めていた包囲網に、光秀が毛利に送った使者が見つかってしまったのが秀吉が本能寺の変を早く知った理由だという。ショックで泣き崩れる秀吉に対し、黒田官兵衛が「天下を手に入れる好機が来ました」と囁いて秀吉は正気に戻ったという話が伝わっているが真偽のほどは定かではない。信長死すの報を耳にした秀吉は実は笑みを浮かべて「チャーンス!」と呟いたかも(笑)。

 

毛利の追撃がなかった理由

 直ちに箝口令を敷いた秀吉は毛利との和睦を進める。それまでは美作・伯耆・備中の三国を要求していたのを美作と後は折半と譲歩、さらに城主の清水宗治が切腹すれば後の兵は助命するとの条件を提案して和睦が成立する。これが秀吉が本能寺の変を知ってから数時間後。そして清水宗治はその日のうちに自刃する。しかしその後に毛利が本能寺の変を知る。吉川元春と小早川隆景が援軍を率いて接近していたが、吉川元春は攻撃することを主張したが、小早川隆景がそれに反対(この両者の性格を見事に反映している)、結局は隆景の意見が通ることになったという。これはこの時既に秀吉の手が村上水軍にまで及んでおり、毛利は瀬戸内海の水運を断たれることで物資の補給に支障を来していたからだとのこと。

 なお秀吉は小早川隆景から毛利の旗を借りて、毛利軍も秀吉の援軍となったように装ったという話もあり、どうも小早川隆景はこの時から秀吉に接近することを考えていたようである。ちなみに後に秀吉は「直江兼続は知恵が足りず、鍋島直茂は大気が足りず、小早川隆景は勇気が足りない」と評したというエピソードがあるが、この時に実際に小早川隆景が吉川元春と共に猪突して秀吉に攻めかかっていたら秀吉はどうなっていたか分からないのだから、「勇気が足りない」というところはあるかも知れない(隆景としては秀吉とここで対立するより恩を売る方が得と考える知恵があったとも言えますが)。

 

秀吉は海路を利用した?

 6/5に吉川元春と小早川隆景の軍勢が撤退を開始すると、秀吉は6/6に京都に全軍を引き返させることになる。これがいわゆる中国大返しだが、その日の夜までに22km先の沼城に移動する。そこで仮眠を取ると翌日の早朝までに70km離れた姫路城まで移動したのだが、途中には難所の船坂峠もあり、完全装備の大軍を24時間で移動させるのはかなり困難であると言う。当時の足軽の装備は30キロの重さがあり、これを装備して山道を含む70kmはとてつもなく大変であり、実験でもかなり困難との結果が出ている。そこでこの区間では荷物もしくは兵を海路で運んだと考えられるとのこと。なお秀吉が中川清秀に送った手紙から、もう1日早く秀吉が出発したという説もあるらしいが、それは秀吉が先発しただけで、本隊はやはり6/6の出発だろうとのこと。

 そこで秀吉は部下達に本能寺の変をことを知らせて、姫路城内の金銀や米などを大盤振る舞いして兵の士気をあげたという。さすがに秀吉は人心掌握にも長けている。そして翌日に再び京都に向けて進軍している。なおこの際に、摂津の中川清秀や高山右近などが寝返ることのないように「信長は生きている」という嘘の書状を送っている。光秀が信長の遺体を発見できなかったのはここで痛恨事になっている。

 

光秀の計算違い

 これに対して光秀の方は今日の周辺を固めたり朝廷に働きかけたりなどをしていたのだが、一番の計算違いは秀吉が予想外に素早く引き返してきたことと、味方になると期待していた細川と六角が共に裏切ったこと。結局は秀吉側4万に対して光秀は1万2千という圧倒的な劣勢で戦う羽目になり、さらには勝敗を決する要地である天王山も、秀吉が送った現地の地形に明るい中川清秀に先に抑えられてしまい、光秀はなすすべもないまま秀吉の大軍に粉砕されてしまう。

 こうして秀吉は見事に天下を手中に収める。秀吉の果敢な行動力と洞察力、さらには兵站確保などに長けた石田三成に戦術に長けた黒田官兵衛などの家臣の働きなども大きかったという。

 

 秀吉の一番の見せ所とも言える中国大返しについて。まあ諸々の周到な根回しによって不可能と思える快挙を成し遂げたということです。しかしやっぱり私は秀吉は事前に何らかの情報を持っていたという説です。今回秀吉の中国大返しを可能とする方法を諸々解説してしましたが、それにしてもやっぱり「あまりに手回しが良すぎる」という印象は拭えません。確定した情報をハッキリと得ていたかは不明ですが、少なくとも「何らかの変事が起こる可能性はある」として事前に撤退の準備をしていたような気がします。もし秀吉が知らなかったとしても、少なくとも官兵衛ぐらいのその可能性を予測して事前に根回ししていたと考えるべきではと思います。私の考えは、この頃になると既に信長の重臣の間では「このままでは我々は危ないんじゃないか」というのが共通の認識になりつつあり、光秀が本能寺の変を起こさなかったとしたら、別の誰かがやっていた可能性もあるのではと思ってます。案外秀吉自身が中国攻めに信長を呼び出しておいてから、いきなり信長を討つことを考えていたという可能性さえあり得るかも。

 

忙しい方のための今回の要点

・本能寺の変の発生時、秀吉よりも丹羽長秀と織田信孝の方が京の近くにいたのだが、箝口令を敷かなかったために兵がパニックになって逃げ散ってしまっていた。
・柴田勝家と滝川一益は京よりかなり遠くにいた上に、追撃を受けて動けなかった。
・本能寺の変のことを知った秀吉は、直ちに毛利と講和。急遽京に向かって全軍引き返す。なお毛利のその情報を知ったのだが、小早川隆景が追撃に反対した。
・秀吉の中国大返しは足軽がフル装備で移動するのはキツすぎるものであるので、一部海路を使用した可能性がある。
・また秀吉は信長が生きていると嘘を流すことで、中川清秀や高山右近の離反を防いでいる。
・一方の光秀は味方になると見込んでいた細川と六角が離反したことで秀吉よりも兵力的に圧倒的に劣勢になり、さらに決戦場の天王山を抑えられたことで地形的にも不利になり、なすすべもなく粉砕される。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ秀吉の能力を遺憾なく発揮した一番の見せ場でもあるのですが、正直な私の感想は「出来すぎている」というものなんですよね。だから上で言ったような秀吉は何らかの事前情報があったという説になります(秀吉共犯説も含む)。

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