教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/20 BSプレミアム 英雄たちの選択「国難に打ち勝つ!幕末の三英傑」

 今回もコロナ対応で杉浦アナ単独出演の総集編です。国難の際にこそトップの力量が問われる。日本の現在のトップは国難に対応するどころか、この後に及んでも個人的利権の追求ばかりをやっているどうしようもない奴だということが露呈したが、明治の動乱期に困難な舵取りを行っていった本当のリーダーに値する三人の男を紹介という内容。司会は杉浦アナですが、本編中はすべて渡邊佐和子アナの担当回ばかりです(つまりかなり前の回)。

 

ペリーとの交渉をまとめた老中・阿部正弘

 最初は老中・阿部正弘。同じアベと言っても今の利権政治家の無能とは違う。彼は幕末の黒船来航の難局に対処することになった。黒船来航に関しては攘夷を実行すべきとか、開国やむなしなどで国論は大混乱したのであるが、ここで阿部がとった政策は、情報をすべて公開して広く意見を募るという幕藩体制では画期的な方法

 阿部がこのような方法をとったのは、幕府に対応能力がなかったと言うことではなく、恐らく広く各藩にまで意見を募ることで彼らも当事者として巻き込むことを狙ったのではないかと考える。幕府が勝手に対応して勝手に方針を決めたら「我々は無関係で、幕府が勝手なことをした」ということになるが、意見を募られたわけであるから各藩共に黒船対応を自らも関係することとして考える必要がある。これは後で全国レベルで政策を打つ場合の伏線としては大きいと考えられる。

 阿部が募った意見については、やはり攘夷を実行するべきというのが多かったようだ。だがこれは言うは易し行うは難しである。当時の日本には黒船艦隊とまともにやり合うだけの軍備がなかった。確かに向こうは補給がないのだから日本が犠牲を省みずに攻撃をかければ勝利も可能だろうが、その結果として江戸の市街が丸焼けになるのは確実。その上にアメリカと全面的に事を構えることになるので、引き続いての攻撃を受ける可能性も高い。結局はいかにも日本的な解決というか、なるべく言質を与えずに引き伸ばすという対応方針となる。

 だがペリーの方も日本がそのような引き延ばしをしてくるのは想定済みだった。結局両者の交渉は開港はするが交易は行わないというところで落ち着く。ペリーとしては最初に日本を開国させたという成果で妥協したのである。しかしこの難局を切り抜けた阿部は、条約締結から3年後、燃え尽きるように39歳でこの世を去る。

 

長州藩を主導した高杉晋作

 二人目は高杉晋作。奇兵隊の設立で有名な彼だが、彼がもっとも頭角を示したのは、長州が単独で攘夷を実行した挙げ句に、西洋列強の連合艦隊にに攻撃を受けて砲台を占拠されるなどの惨敗を喫したいわゆる下関戦争の停戦交渉である。長州の代表として交渉に臨んだ高杉は、300万ドルという巨額の賠償を求める列強に対して、「もし戦争を続けるなら長州は最後の一人になるまで戦う」と啖呵を切る。これに対して列強側は態度を一変して、砲台の撤去と水・食料・燃料補給のための下関上陸を要求する。これに対して高杉は下関開港を長州藩の独断で認める貿易による経済力強化も睨んでいたのである。高杉の強気の交渉の背景には、冷静な情勢分析もあったろう。この時の長州藩が本当に最後の一人まで戦えるかはかなり疑問だったが、それ以上に補給線が長い上に各国の思惑の違う多国籍連合艦隊にとっては長期戦は絶対不可能なはずである。そこを読み切っての交渉であると推測される。

 その後、幕府による第一次長州征伐が実行される。すると長州藩では抗戦派と恭順派に分かれて内部対立が発生する。結局は抗戦派の家老3人が切腹して恭順派が勝利することになって幕府に対する徹底恭順の方針が示される。この際に危機を感じた高杉は筑前藩に亡命をして再起の時を覗うことになる。この時の高杉の選択肢は 1.決起して主導権を回復する。2.恭順派と交渉して時期を覗う。ここで結局高杉は決起を選択する。

 長州に舞い戻った高杉は諸隊に反乱を呼びかけて決起、下関を抑えて軍鑑を強奪したことで奇兵隊なども動き出す。そして藩の正規軍を圧倒して長州藩は徹底恭順を撤回して、もし戦いとなれば最後の一兵まで戦う武備恭順を方針として決定する。高杉は長州の独立をも構想していたようであるが、29歳で早すぎる人生の幕が下りる。

 

薩長同盟をまとめた薩摩藩家老・小松帯刀

 三人目が小松帯刀。薩摩藩の家老である。島津久光に若くして抜擢された俊英である。帯刀は綿花の輸出で財力を蓄え、京に上って雄藩連合を画策することになる。しかし幕府側の橋慶喜、津藩の松平容保、名藩の松平定敬という一会桑勢力と対立することになる。そして慶喜は第一次長州征伐を実行する。これに対して帯刀は長州征伐の中止を進言する。薩摩は禁門の変を主導した抗戦派の家老を処刑して幕府に謝罪することを長州藩に打診、長州藩がそれを受け入れたことで第一次長州征伐は中止となる(ってことは、上で高杉が決起した時には既に長州征伐は中止されていたということか)。薩摩の政権参画を画策する帯刀と、それを阻みたい一会桑勢力との水面下の駆け引きは激化する。

 そして第二次長州征伐の際には帯刀は薩摩名義で購入した武器を長州に斡旋するという大胆な策を打つ。そして長州の木戸孝允が上京して、西郷隆盛と交渉を始める。しかしここで西郷は意外にも木戸に対して幕府の処分を甘んじて受け入れろとの提案をする。これは島津久光の意向だった。しかし徹底抗戦の意志を固めていた長州にこれは受け入れることは不可能で交渉は決裂寸前だった。ここで帯刀は決断を迫られる。

 帯刀は自分の独断で薩長同盟締結を決断する。久光の意向に反していると考えられるこの決断を行えたのには帯刀の巧妙さがあるという。薩長同盟の内容を伝えるとされる木戸孝允の書簡には一会桑勢力が長州の復権を遮る場合には決戦に及ぶとの条項があるのだが、決戦の相手を一会桑勢力に限定しているのがポイントだという。幕府と戦うとは明言しておらず、一会桑勢力と対立するだろうということは久光もいずれはそうなると分かっていたことであったというのである。まさに政治家らしい巧妙さである。結局はここで薩摩藩が長州藩を見捨てなかったことによって明治維新につながることになる。

 ちなみに磯田氏は、帯刀の決断は明らかに久光の意向に反している部分があったが、現場の責任者が「俺が全責任を負うから俺が全てを決断する」と言ってしまったら飲まざるを得ないんではないかと言っていたが、これが本質だと私も思う。やっぱりリーダーたる者、口先で「責任を痛感する」などと言いながら、絶対に責任を取らないような奴では務まらないのである。

 

 以上、幕末の三英傑の選択について・・・とのことだが、この時代は英傑と呼ばれるような連中がゴロゴロしているので、この三英傑が代表的という意味ではないでしょう。と言うか、むしろ今回の三人は幕末の英傑達の中では知名度や影響度ではBクラスという感じがあります。とにかく全員死ぬのが早すぎなので・・・。

 最初の阿部正弘は日本的調整型組織のリーダーとしては最優秀クラスの人物であったと思われます。実際に阿部正弘が早逝していなかったら幕府ももう少し保ったかもしれません。ただし彼はあくまで「従来型」の人材なので彼の元では徐々に起こる体制変化は発生しても、劇的な変化は起こってないでしょう。だから倒幕までに至らずに、穏当な雄藩連合体制に日本全体が落ち着いて、日本連邦が成立していた可能性があります。

 2番目の高杉晋作は典型的な革命家タイプ。社会に大変革をもたらしますが、一つ間違うと単なるテロリストに終わってしまいます。彼のようなタイプは結局は戦場で倒れるか、権力闘争の最中で粛正されるかで生涯を終えるパターンになるので、どうやっても天寿は全うできないでしょう。ただ彼としてはその最期が病死というのは極めて不本意であったろうと思われます(せめて攻め寄せる幕府軍を向こうに回しての華々しい戦死だったら、本人的にも格好ついたでしょうが)。

 3番目の小松帯刀は「地味」ですね。しかし実際は革命なって体制が固まると、一番重要性を増して働きどころが増えるのが彼のようなタイプ。しかし残念なことに彼は明治3年に36歳で病死してしまってます。一番の力の見せ所で退場してしまったというのが、彼の知名度が今ひとつの理由だと思われます。もし彼が天寿を全うできていれば間違いなく明治の元勲の一人として名を残しているでしょう。

 結局は歴史上の偉人として名を残すのは、若くしてとてつもないことを成し遂げるか(アレクサンダーのようなケース)、もしくはとにかくしぶとく生き延びるということが重要でしょう。

 

忙しい方のための今回の要点

・激動の幕末に活躍した人物3人、阿部正弘、高杉晋作、小松帯刀を紹介。
・阿部正弘は黒船来航の危機に、広く各藩から意見を募り、困難な交渉に臨んでペリーに対して開港はするが交易はしないという条件で条約をまとめ上げている。
・高杉晋作は長州藩存亡の危機である下関戦争の休戦交渉では、相手の実力も見極めつつギリギリの交渉を行い、その後には反論が幕府への徹底恭順に傾く中、自ら決起して反論を覆している。
・薩摩藩家老の小松帯刀は藩主島津久光の意向も考慮しつつ、長州藩との困難な同盟をまとめ上げ、結局は明治維新へとつなげた。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・前回のガッテンの記事で「再放送番組ばかりになってページ更新のモチベーションを保ちにくい」と書いた直後の長期の更新停止になってしまい。これはとうとうブログを放棄したかとご心配された方もおられた(実際は誰もいないかな?)かもしれませんが、実は私はブログを放棄したのではなく、この数日体調悪化で寝込んでおりました。
・症状としては先週の木曜日辺りからとにかく異常な疲労を感じていたのですが(今から思えばその疲労のせいで上記の愚痴が出た気がする)、金曜の夕方頃から発熱し、頭痛と喉の痛みと全身の痛みに苦しめられ、発熱は翌日も続きました。
・コロナも疑ったのですが、結局は咳は全く出ず、どう考えても「新型肺炎」という様子ではなかったのでひたすら寝込んでいた次第。
・熱は日曜には一旦下がったので起き出して、「徒然草枕」の方には大河の感想などをアップしましたが、まだ頭痛が軽く残っていたのと、喉と全身の痛みはまだ激しく、半病人の状態でしたので、このブログのような「ハードな(笑)」内容を執筆する気力は全くなく、また寝込んでおりました。
・で、本日になってようやく数日ぶりにシャワーを浴びれるところまで体調が回復したので、本記事をアップした次第。
・と言うわけでこの場を借りての近況報告でした・・・ってこんな記載を気に留める人なんてまずいないでしょうが・・・。

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