教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

5/20 NHK 歴史秘話ヒストリア「福沢諭吉センセイのすすめ」

 福沢諭吉と言えば有名な大ベストセラー「天は人の上に人を作らず」の「学問のすすめ」で有名。さらには慶應義塾大学の設立者でもあり、お札にもなったという人物である。ただし後に「脱亜論」なるアジアを蔑視しているかのような文も記しており、隣国などから批判されたりすることもあったりする人物でもある。では福沢の意図はどこにあったのかというのが今回の内容。

 

下級武士の家から幕府の使節に随行してアメリカへ

 中津藩の下級武士の家に生まれた福沢は、中津藩の厳しい身分制度の中で学問で身を上げようと学問に力を入れていた。最初は当時の武士の学問である漢学を学んでいたが、黒船来航で進んだ西洋の技術が注目されるにあたり、緒方洪庵の適塾に入門することにする。そこで彼は猛勉強したという。それから3年後、福沢は幕府が咸臨丸でアメリカに送る使節への同行を自ら願い出て、軍艦奉行の従者として同行する。実際のところ生きて帰れるかどうか怪しいような派遣であるので、彼のような者の要望も通ったらしい。

 サンフランシスコで最新の工場などを見学する福沢ら。向こうは「日本人はこんなものは知らないだろう」と思っているようだったが、福沢にしたら「そんなものはもう知ってる」だったらしい。福沢はそんなものよりもむしろアメリカ社会の日本との違いに驚いたという。ワシントンの子孫が無名の主婦になっていることや、家庭内で男女が平等であることなど、日本のような身分制度や男尊女卑がないことに感心したのだという。その福沢がアメリカで撮影してきたのがアメリカ人少女とのツーショット写真。写真館の娘に頼んで撮ってもらったらしい。当時の武士には考えられない写真であったという。

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アメリカではっちゃけた福沢の撮った写真

 

ベストセラー「学問のすすめ」を発表

 そして明治になって福沢が出版したのが「学問のすすめ」である。ここでは人はそもそも平等であるということを説いているのだが、実はもっと重要なのはその後であって、生まれながらにして平等であるはずの人間が富めるものと貧しき者に現実には分かれてしまうのは、賢人と愚人に分かれてしまうからだという。そしてそれは学問をするかしないかで分かれているのだとしているという。つまりは学問をすればみんな向上できるという考えである。そして彼が勧める学問が実学。福沢はそれに「サイエンス」とふりがなを振っているが、これは単に科学だけでなく地理学、物理学、歴史、経済学などを含んでいるという。つまりは合理的であって実用性の高い学問である。

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福沢の一番有名な肖像写真

 また福沢は明治になってから長沼の所有権が撤回されて国有地とされために生活に苦しんでいた長沼村の村人達の相談を受け、彼らに自らの権利を訴えて徹底的に戦うことを勧めて支援を行ったという。その甲斐あって、2年後にまずは村の優先利用権が認められた。村人は福沢に謝礼を渡したが福沢は受け取らず、逆に500円という巨額の寄付をして「このようなことが起こるのは村に教育が整っていないからだ」と学校の設立を勧めたという。こうして千葉では2つめの小学校である長沼小学校が設立されたという。その後も福沢は村人を支え、最初の相談から26年後、ついに長沼は完全返還される。福沢は個人が学問によって独立することを目指したという。

 

「脱亜論」発表の意図

 学問のすすめの13年後に発表されたのが問題の「脱亜論」。福沢がこれを発表した背景には当時の世界情勢があるという。日本に続いて開国を行った朝鮮では、日本のような近代化を目指す開化派が登場し、清の影響下での国の存続を目指す守旧派と対立していた。福沢はこの開化派に注目し、多くの留学生を慶應義塾に迎え、日本と朝鮮で手を組んで近代化を目指すということを考えていた。

 しかし開化派によるクーデター・甲申事変が発生、これが清国の介入でつぶされ、福沢が世話した留学生も多くが命を失う。福沢が脱亜論を時事新報に掲載したのはその3ヶ月後だという。この脱亜論が日本のアジア侵略を進めるものだという意見があるが、この脱亜論は発表当時全く話題になっておらず、政治的にも世論的にも全く影響を与えていないという。当時、清国は甲申事変が日本の陰謀であると世界にアピールしており、欧米諸国などに日本に対する嫌悪感が拡がりつつあったという。福沢はそれに対して日本は西欧諸国と価値観を共有しているが、中国や朝鮮はそうではないということをアピールしようとしたのだろうと言う。また福沢はアジアとの決別を訴えているが、実際には日本に亡命した開化派の金王均を援助しており、彼を是非日本の総理にしたいと記しているという。

 日清戦争で朝鮮から清国の勢力を一掃した後、再び朝鮮から日本へ留学生が派遣され、慶應義塾に迎えられる。彼は留学生達を演説館に連れて行き「自由の気風はただ多事争論の間にあり」と自身の考えを彼らに伝えたという。慶應義塾で学んだ留学生達は祖国の発展に活躍することになる。

 

 うーん、福沢諭吉は決してアジア侵略を目指す帝国主義者ではなかったという話で、多分それは正しいのだろうが、これは朝鮮の側から見た場合にはまた言いたいことはあるだろうな。何と言っても日本は結果的には強引に朝鮮を併合してしまっているのがマズい。これには福沢は関与していないのだが、福沢が朝鮮の開化派を支援していたのは、ある意味で彼らを利用していたというように見えなくもない(本人にその意図がなかったとしても)。結局は朝鮮を併合する時に「朝鮮を近代化するため」という嘘八百の大義名分を後の日本が建ててしまっているから、それを本気でやっていた福沢の行為も不純な陰謀に見えてしまうというところがある。福沢の唱えていたアジアの独立共栄なんてのは、後の日本軍部の大東亜共栄圏そのものになってしまうし。つまりは福沢の目指していた純粋なものを後の軍部などが歪めてしまったから、福沢はそのとばっちりを食ってしまったというところが実態なんだろう。だから彼の死後の日本の状況などを見ていたら「なんでそんなことになるんだ」と激怒していた可能性があるような気がする。

 

忙しい方のための今回の要点

・福沢諭吉は中津の下級藩士の家に生まれ、学問で身を立てることを考え、適塾で最新の西洋の事情を学んだ。
・咸臨丸での幕府のアメリカ使節に福沢は随行し、当時のアメリカの社会においての世襲でない権力や、男女の平等などに大いに驚きを受ける。
・明治になって彼が執筆した「学問のすすめ」はベストセラーとなる。そこで福沢は学問、特に科学、物理学、地理学、歴史、経済学などの実学を学ぶ重要性を訴える。
・福沢は朝鮮の近代化を目指す開化派に注目、多くの留学生を慶應義塾に受け入れ、彼らと共にアジアの近代化・独立を目指す構想を持っていた。
・しかし開化派のクーデターである甲申事変が清国の介入で失敗、開化派の多くが命を落とす。そんな頃に福沢は脱亜論を執筆する。
・これは清国が「甲申事変が日本による陰謀である」と西欧にアピールされていたのに対抗し、日本こそが清国などと違って西欧と価値観を共有できるということを訴える目的があったという。
・日清戦争によって朝鮮から清国の勢力が一掃されると、福沢は再び開化派の留学生多く受け入れ、彼らは祖国の発展に寄与する。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・物事にはどうしても表と裏がありますから、福沢が朝鮮の開化派を支援していたことなんかも、清国から言えば「日本が開化派を唆して甲申事変を発生させた」と言えば言えなくもないことになってしまったりします。福沢自身は本当にアジアが手を取り合って西欧に対抗できるような近代国家になるってことを考えていたように思いますが。
・もっともそれにしても、アメリカなんかが自身に都合の良い傀儡政権を建てようとしたりする時の大義名分と変わらなかったりするので・・・。結局はお題目でなくて、実態がどうだったかなんですよね。

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